日本人の「民度の高さ」の起源 箕子朝鮮の正統な末裔=民度の高い日本人
▼ページ最下部
実は、今から約3100年前〜2000年前頃に、
東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た。
殷帝国が周に放伐されて後、周武王は殷の遺臣で名宰相でもあった
箕子を自らの臣下とせず、そのまま外地にあたる朝鮮に封じた。
(その時に箕子が武王に贈った為政の秘訣が「洪範九疇」
として「書経」や「史記」や「漢書」にも収録されている)
それからしばらくして、中国は春秋戦国時代に突入し、
諸侯の覇権争いによって著しい文化荒廃を来たし、人々の民度も
最低レベルにまで凋落して行くこととなった。一方で、箕子が
封じられた朝鮮は、そのような中国での内ゲバにも煩わされることなく、
約千年の長きに渡って民度を高め続けることができたのだった。
その箕子朝鮮が滅びて200年ほど経過した、約2000年前の朝鮮の
国情を班固が「漢書」で述べているが、既に武帝の代からの開封も
受けているにも関わらず、住民の民度が中国人民以上であることに
驚嘆させられたという。そのあり方たるや、「人々はまず罪を恥とし、
犯した場合には罰を受けてもなお恥とし続けるほど。女性も貞節で
嫉妬することがなく、事件沙汰が些少であるために人々も家の戸締りを
しないでいるほどだった。正式に中国の一部となって後、中国からの
役人や商人が流入すると、人々が門戸を閉ざしていないのをいいこと
に悪さをする連中が頻発し始めたため、段々法律が増やされて行き、
今では六十を数えるまでになってしまった(漢書・地理志下)」と。
(>>2につづく)
東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た。
殷帝国が周に放伐されて後、周武王は殷の遺臣で名宰相でもあった
箕子を自らの臣下とせず、そのまま外地にあたる朝鮮に封じた。
(その時に箕子が武王に贈った為政の秘訣が「洪範九疇」
として「書経」や「史記」や「漢書」にも収録されている)
それからしばらくして、中国は春秋戦国時代に突入し、
諸侯の覇権争いによって著しい文化荒廃を来たし、人々の民度も
最低レベルにまで凋落して行くこととなった。一方で、箕子が
封じられた朝鮮は、そのような中国での内ゲバにも煩わされることなく、
約千年の長きに渡って民度を高め続けることができたのだった。
その箕子朝鮮が滅びて200年ほど経過した、約2000年前の朝鮮の
国情を班固が「漢書」で述べているが、既に武帝の代からの開封も
受けているにも関わらず、住民の民度が中国人民以上であることに
驚嘆させられたという。そのあり方たるや、「人々はまず罪を恥とし、
犯した場合には罰を受けてもなお恥とし続けるほど。女性も貞節で
嫉妬することがなく、事件沙汰が些少であるために人々も家の戸締りを
しないでいるほどだった。正式に中国の一部となって後、中国からの
役人や商人が流入すると、人々が門戸を閉ざしていないのをいいこと
に悪さをする連中が頻発し始めたため、段々法律が増やされて行き、
今では六十を数えるまでになってしまった(漢書・地理志下)」と。
(>>2につづく)
※省略されてます すべて表示...
「籩豆(へんとう、たかつき)」という独特の食器を
用いていた点が、古代の朝鮮と倭国とで完全に一致している。
しかも、これは当地に特有の文化であって、中国では「杯器」
という食器が用いられているから、中国の官吏との会食では
朝鮮人たちも杯器で飲食していたと「漢書」の東夷伝にある。
古代の朝鮮人が、朝鮮特有の文化と共に日本に流入して来た
確かな証拠となっている。もちろん朝鮮人ばかりが日本へと
渡来して来たのではないが、箕子の一族が治めていた朝鮮
特有の習俗が日本へと流入していったことにも間違いわない。
箕子朝鮮の良質な習俗が流入して行った結果として、
日本人全体の民度が高められたとも自然に考えられる。
用いていた点が、古代の朝鮮と倭国とで完全に一致している。
しかも、これは当地に特有の文化であって、中国では「杯器」
という食器が用いられているから、中国の官吏との会食では
朝鮮人たちも杯器で飲食していたと「漢書」の東夷伝にある。
古代の朝鮮人が、朝鮮特有の文化と共に日本に流入して来た
確かな証拠となっている。もちろん朝鮮人ばかりが日本へと
渡来して来たのではないが、箕子の一族が治めていた朝鮮
特有の習俗が日本へと流入していったことにも間違いわない。
箕子朝鮮の良質な習俗が流入して行った結果として、
日本人全体の民度が高められたとも自然に考えられる。
俺は今、この日本と言う国の漠然とした
文化習俗の起源について論じているのであって、
別に日本民族の厳密な血統上の起源などを論じているのではないからな。
いま特に、その起源までをも確かめて、その保全にも務めて行くべきなのが、
世界的にも突出して高い「日本人の民度の高さ」だといえる。その起源すら
ろくに確かめられもしないままに、朝鮮人や中国人やCIAによる侵食を被って、
一方的に民度を引き摺り下ろされてばかりでいたりしないためにも、特にその
あたりの習俗の由緒の確かさまでをも(あるのなら)確かめておくべきだといえる。
「書経」「史記」「漢書」「魏志倭人伝」といった史書を鑑みるに、
確かにそこにも磐石な由緒が伴っているらしい。それも、3100年以上も昔の
殷の治世の名残りという、今の中国人すらもが当の昔に忘れ去っている古きよき
正統な中国文明のはしりであるというのだから、中国人も決して無礼に扱っては
ならないし、米欧人なども、せいぜい2500年程度の歴史しか持たない聖書信仰
などの嵩にかかって、日本人に対して偉ぶるようなことがあってはならない。
日本人の側としても、なるべくその民度の保全に務めて行くべきであり、
そのためにはやはり、箕子による東夷の統治にこそ学ばなければならない。
箕子の為政の秘訣は「洪範九疇」などとして、数多の古書にも収められているのだから、
それらも参考にしつつ、今となっては日本特有となっている習俗こそを盛り立てて行くべきである。
これもまた、日本人の民度の高さの起源を大まかにでも見積もればこそ可能となること
であり、いちいち邪馬台国の場所ばかりを突き詰めたりするよりも、よっぽど
実用的な効果が期待できることだといえる。
文化習俗の起源について論じているのであって、
別に日本民族の厳密な血統上の起源などを論じているのではないからな。
いま特に、その起源までをも確かめて、その保全にも務めて行くべきなのが、
世界的にも突出して高い「日本人の民度の高さ」だといえる。その起源すら
ろくに確かめられもしないままに、朝鮮人や中国人やCIAによる侵食を被って、
一方的に民度を引き摺り下ろされてばかりでいたりしないためにも、特にその
あたりの習俗の由緒の確かさまでをも(あるのなら)確かめておくべきだといえる。
「書経」「史記」「漢書」「魏志倭人伝」といった史書を鑑みるに、
確かにそこにも磐石な由緒が伴っているらしい。それも、3100年以上も昔の
殷の治世の名残りという、今の中国人すらもが当の昔に忘れ去っている古きよき
正統な中国文明のはしりであるというのだから、中国人も決して無礼に扱っては
ならないし、米欧人なども、せいぜい2500年程度の歴史しか持たない聖書信仰
などの嵩にかかって、日本人に対して偉ぶるようなことがあってはならない。
日本人の側としても、なるべくその民度の保全に務めて行くべきであり、
そのためにはやはり、箕子による東夷の統治にこそ学ばなければならない。
箕子の為政の秘訣は「洪範九疇」などとして、数多の古書にも収められているのだから、
それらも参考にしつつ、今となっては日本特有となっている習俗こそを盛り立てて行くべきである。
これもまた、日本人の民度の高さの起源を大まかにでも見積もればこそ可能となること
であり、いちいち邪馬台国の場所ばかりを突き詰めたりするよりも、よっぽど
実用的な効果が期待できることだといえる。
「たかつき(高杯、籩豆)」とは読んでその発音の如く、「高く付かせる」ということだ。
食器にも脚を付け、建物に脚を付けて高い所に付けさせる。そういった「高付き式」を
尊ぶ風潮は確かに、高温多湿な日本の気候風土にも見合ったものとなっていて、
それがそのまま靴を脱いで畳に座る日本式住居の走りともなっている。
「史記」の記録などを見てみるに、中国人が低湿地を「長生きできない場所」として
特に忌み嫌っているような記述が多々見られる。実際、高床式でもない中国式の住居を
低湿地に建てたりしたなら、住環境も最悪な上に、洪水がそのまま命に関わることにもなる。
高床式で高温多湿や水害に厳重に具えるあり方は、日本でこそ特に必要なことだった。
それに感化されたかのように、約二千年前の東夷では、食器までもが脚を付けた「高付き式」の
ものとされていたという。これは、朝鮮発祥どころか実は日本発祥で、それが朝鮮に輸出された
ものとすら考えられる。日本の弥生時代ごろにずっと箕子朝鮮と古代日本とは友好的な関係にあって、
共に民度を高め合っていたのではないかとすら考えられる証拠に、高付き式食器がなっている。
食器にも脚を付け、建物に脚を付けて高い所に付けさせる。そういった「高付き式」を
尊ぶ風潮は確かに、高温多湿な日本の気候風土にも見合ったものとなっていて、
それがそのまま靴を脱いで畳に座る日本式住居の走りともなっている。
「史記」の記録などを見てみるに、中国人が低湿地を「長生きできない場所」として
特に忌み嫌っているような記述が多々見られる。実際、高床式でもない中国式の住居を
低湿地に建てたりしたなら、住環境も最悪な上に、洪水がそのまま命に関わることにもなる。
高床式で高温多湿や水害に厳重に具えるあり方は、日本でこそ特に必要なことだった。
それに感化されたかのように、約二千年前の東夷では、食器までもが脚を付けた「高付き式」の
ものとされていたという。これは、朝鮮発祥どころか実は日本発祥で、それが朝鮮に輸出された
ものとすら考えられる。日本の弥生時代ごろにずっと箕子朝鮮と古代日本とは友好的な関係にあって、
共に民度を高め合っていたのではないかとすら考えられる証拠に、高付き式食器がなっている。
日本から
朝鮮半島へという
逆の発想はついに無いという訳か。
箕子朝鮮は日本人だったという
考えは、出てこないのかねwww
古墳という風習は
日本起源で、半島のあちこちで
類似品が見つかっているという
ニュースもあるが。
http://njtms.info/thread/7746...
朝鮮半島へという
逆の発想はついに無いという訳か。
箕子朝鮮は日本人だったという
考えは、出てこないのかねwww
古墳という風習は
日本起源で、半島のあちこちで
類似品が見つかっているという
ニュースもあるが。
http://njtms.info/thread/7746...
ヘン豆という独特の食器文化が、日本と朝鮮を含む古代の東夷には見られる一方、
東夷に隣接する中国社会では見られない。似たような食器が南方でも用いられていたり
した所で、古代の日本と朝鮮が文化習俗を同じくしていたと考える妨げにはならない。
大体が、「漢書」における班固の東夷に関する記録姿勢からして、朝鮮と日本を明確に
分けているようではない。殷の箕子が朝鮮に移封された結果として、朝鮮を中心とした
東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に書いているように見える。
(ただし、徳化が日本にまで及んでいたという明確な記述まではない)
>>25
倭人が自分たちから朝鮮を脅かし始めたのはもっと後代の話、それこそ古墳時代以降のこと。
本来、日本と朝鮮の間に明確な区切りなどはなかったのが、秦人による侵略で朝鮮が迫害を
被るようになった。それで朝鮮にいた古来の文化習俗の持ち主も日本に逃げ去ったが、
故郷の朝鮮が名残惜しくもあったために、日本独特の文化とも共に朝鮮に帰国することを企てたわけだ。
東夷に隣接する中国社会では見られない。似たような食器が南方でも用いられていたり
した所で、古代の日本と朝鮮が文化習俗を同じくしていたと考える妨げにはならない。
大体が、「漢書」における班固の東夷に関する記録姿勢からして、朝鮮と日本を明確に
分けているようではない。殷の箕子が朝鮮に移封された結果として、朝鮮を中心とした
東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に書いているように見える。
(ただし、徳化が日本にまで及んでいたという明確な記述まではない)
>>25
倭人が自分たちから朝鮮を脅かし始めたのはもっと後代の話、それこそ古墳時代以降のこと。
本来、日本と朝鮮の間に明確な区切りなどはなかったのが、秦人による侵略で朝鮮が迫害を
被るようになった。それで朝鮮にいた古来の文化習俗の持ち主も日本に逃げ去ったが、
故郷の朝鮮が名残惜しくもあったために、日本独特の文化とも共に朝鮮に帰国することを企てたわけだ。
「書経」洪範や「史記」宗微子世家に、箕子が朝鮮に移封されたという記事があるが、
ただそれだけで、箕子による東夷の徳化が成功していたかどうかまでは書かれていない。
「漢書」地理志の東夷の習俗にまつわる記録を見ることで初めて、
箕子の徳治が大成功を収めていたことが分かる。
「漢書」を飛ばして「魏志倭人伝」だけを読んでも、
倭人の貞淑な習俗が箕子の治世に由来するものだなどとは知れない。
鍵となるのは、やはり「漢書」の東夷にまつわる記述だ。
倭人の起源を探る上では、なぜか全くの無視の対象とされている、
旧箕子朝鮮付近の東夷の習俗にまつわる記録。
脱亜入欧の諭吉大好きな学者たちが、なぜか全くの無視を決め込む記録。
ただそれだけで、箕子による東夷の徳化が成功していたかどうかまでは書かれていない。
「漢書」地理志の東夷の習俗にまつわる記録を見ることで初めて、
箕子の徳治が大成功を収めていたことが分かる。
「漢書」を飛ばして「魏志倭人伝」だけを読んでも、
倭人の貞淑な習俗が箕子の治世に由来するものだなどとは知れない。
鍵となるのは、やはり「漢書」の東夷にまつわる記述だ。
倭人の起源を探る上では、なぜか全くの無視の対象とされている、
旧箕子朝鮮付近の東夷の習俗にまつわる記録。
脱亜入欧の諭吉大好きな学者たちが、なぜか全くの無視を決め込む記録。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/wakou123.htm...
上のサイトでは、魏志倭人伝における倭人の「大夫」という自称が、
秦代以降の土豪一般を指すような意味ではなく、「卿>大夫>士」という
周代の厳格な序列関係に即した意味で用いられていることを以ってして、
「周代に倭人が朝貢に見えていた」という「論衡」の記述を正当化している。
しかし、要するに倭人は「大夫」という言葉を本来の意味で用いていた
ということであって、別に「昔の慣習に倣っていた」というのではない。
「大夫」という言葉を土豪風情の呼称なんかに用いたりすることのほうが、
孔子や荀子のいう「名辞の乱れ」なのであり、倭人はただそのような
名辞の乱れを排して、「卿」にあたる親魏倭王の直属の配下としての
自分たちを「大夫」と自称していたのだとも考えられる。
ただ、そのような名辞の乱れから排して行こうとする謹厳実直なあり方からして、
箕子による徳治すらをも受けていた人々ならではの賜物であったとも考えられる。
倭人が周代に朝貢していた証拠というよりは、倭人が非常に高度な仁徳統治の
手法を身に付けていた証拠に、「大夫」という倭人の自称がなっていると
考えたほうが理に適っている。もしも倭人が太古の昔から中国本土にまで
頻繁に出入りしていたとしたなら、すでに名辞が乱されて、士大夫の
序列もさして重視されなくなっていた、春秋戦国時代の中国の
文化荒廃の毒気にもあてられていたに違いないから。
上のサイトでは、魏志倭人伝における倭人の「大夫」という自称が、
秦代以降の土豪一般を指すような意味ではなく、「卿>大夫>士」という
周代の厳格な序列関係に即した意味で用いられていることを以ってして、
「周代に倭人が朝貢に見えていた」という「論衡」の記述を正当化している。
しかし、要するに倭人は「大夫」という言葉を本来の意味で用いていた
ということであって、別に「昔の慣習に倣っていた」というのではない。
「大夫」という言葉を土豪風情の呼称なんかに用いたりすることのほうが、
孔子や荀子のいう「名辞の乱れ」なのであり、倭人はただそのような
名辞の乱れを排して、「卿」にあたる親魏倭王の直属の配下としての
自分たちを「大夫」と自称していたのだとも考えられる。
ただ、そのような名辞の乱れから排して行こうとする謹厳実直なあり方からして、
箕子による徳治すらをも受けていた人々ならではの賜物であったとも考えられる。
倭人が周代に朝貢していた証拠というよりは、倭人が非常に高度な仁徳統治の
手法を身に付けていた証拠に、「大夫」という倭人の自称がなっていると
考えたほうが理に適っている。もしも倭人が太古の昔から中国本土にまで
頻繁に出入りしていたとしたなら、すでに名辞が乱されて、士大夫の
序列もさして重視されなくなっていた、春秋戦国時代の中国の
文化荒廃の毒気にもあてられていたに違いないから。
削除(by投稿者)
古代の日本と朝鮮が文化習俗を同じくしていたと考える妨げにはならないが肯定もできないなぁ
俺にも東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に読みとれるが
あなたの言っている通りやはり徳化が日本まで及んでいたとも言えないね
もっと確たる証拠出してよ
俺にも東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に読みとれるが
あなたの言っている通りやはり徳化が日本まで及んでいたとも言えないね
もっと確たる証拠出してよ
倭人が良質な文化習俗を帯びていたという確たる証拠になる
最古級の文献は、あくまで「魏志倭人伝」だ。「漢書」はその倭人の習俗と、
後漢初期の「朝鮮一帯の東夷」の習俗が似通っていた文献上の証拠となるのみだ。
太古の昔、周代の頃から日本にまで箕子の徳化が及んでいたのかどうかは、
発掘調査で古代の朝鮮文化と、弥生時代の日本文化の共通性を確かめて行くしかない。
実際にそうだった可能性もあるし、箕子朝鮮時代にはまだ日本にまで徳化は
及んでいなくて、箕子朝鮮が滅んで後に古来からの朝鮮人が日本に亡命した
結果として、日本のほうが徳化された可能性もある。さらにその中間あたり、
大昔から倭国の徳化も進んでいたが、箕子朝鮮が秦に滅亡させられるに及んで、
「箕子一派」の本拠地が朝鮮から日本へと移行したのだとも考えられる。
最古級の文献は、あくまで「魏志倭人伝」だ。「漢書」はその倭人の習俗と、
後漢初期の「朝鮮一帯の東夷」の習俗が似通っていた文献上の証拠となるのみだ。
太古の昔、周代の頃から日本にまで箕子の徳化が及んでいたのかどうかは、
発掘調査で古代の朝鮮文化と、弥生時代の日本文化の共通性を確かめて行くしかない。
実際にそうだった可能性もあるし、箕子朝鮮時代にはまだ日本にまで徳化は
及んでいなくて、箕子朝鮮が滅んで後に古来からの朝鮮人が日本に亡命した
結果として、日本のほうが徳化された可能性もある。さらにその中間あたり、
大昔から倭国の徳化も進んでいたが、箕子朝鮮が秦に滅亡させられるに及んで、
「箕子一派」の本拠地が朝鮮から日本へと移行したのだとも考えられる。
古代だけでなく、上代やそれ以降においても、日本という国は、
箕子の政治理念に則った為政というものを心がけて来ている。
「平康なれば正直、彊にして友ならざれば剛克、燮友なれば柔克、沈潜なれば剛克、高明なれば柔克」
「平穏な世の中は真っ正直に治め、傲慢で睦みのない世の中は剛毅な力によって治め、
穏やかで睦みのある世の中は柔弱に治め、内に不穏さを隠し持っているような
世の中は剛毅な力によって治め、高潔で明白な世の中は柔弱に治める」
(「書経」周書・洪範より)
箕子が著したとされる「洪範九疇」の第六・三徳。
真っ正直な治め方(正直)と、剛毅な治め方(剛克)と、柔弱な治め方(柔克)で為政の均衡を取る。
古墳時代から飛鳥時代中期にかけて、大陸から秦氏の如きろくでもない渡来人が流入して来たために
大いに世相が乱れた。そのため中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変でその主犯格たる蘇我氏を滅ぼし、
秦氏の代表者なども遠国に追放したり下級官僚や被差別賤民に追い込むなどした。これが「剛克」。
大化の改新以降は段々と真っ正直な為政(正直)へと移行して行き、
それがほぼ完成すると(高明)、今度は平安時代の柔弱な治世へと移行した。これが「柔克」。
箕子の政治理念に則った為政というものを心がけて来ている。
「平康なれば正直、彊にして友ならざれば剛克、燮友なれば柔克、沈潜なれば剛克、高明なれば柔克」
「平穏な世の中は真っ正直に治め、傲慢で睦みのない世の中は剛毅な力によって治め、
穏やかで睦みのある世の中は柔弱に治め、内に不穏さを隠し持っているような
世の中は剛毅な力によって治め、高潔で明白な世の中は柔弱に治める」
(「書経」周書・洪範より)
箕子が著したとされる「洪範九疇」の第六・三徳。
真っ正直な治め方(正直)と、剛毅な治め方(剛克)と、柔弱な治め方(柔克)で為政の均衡を取る。
古墳時代から飛鳥時代中期にかけて、大陸から秦氏の如きろくでもない渡来人が流入して来たために
大いに世相が乱れた。そのため中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変でその主犯格たる蘇我氏を滅ぼし、
秦氏の代表者なども遠国に追放したり下級官僚や被差別賤民に追い込むなどした。これが「剛克」。
大化の改新以降は段々と真っ正直な為政(正直)へと移行して行き、
それがほぼ完成すると(高明)、今度は平安時代の柔弱な治世へと移行した。これが「柔克」。
しかし、荘園制の腐敗によって段々と不穏さを隠し持つような世相(沈潜)へと移行したため、
それを剛毅に治めるための武家が登場し、鎌倉時代以降は武家政権たる幕府こそが
実権を掌握した。これが「柔克」からまたもやの「剛克」への移行。
武家時代はおおむね剛克が主体を占めたが、末期の江戸時代にはほぼ治世も確立されたため、
柔克(元禄の為政)や正直(各種改革)も織り交ぜたような為政が執り行われることともあいなった。
世の中が不穏さを隠し持つようになり始めたと途端に、公家政権から武家政権へと転向したりする
変わり身の速さたるや、いつまでも王侯ばかりが実権者でいようとする中国などにはなかったことで、
それでこそ、日本人の民度の高さというものも保たれて来た。
漢書東夷伝や魏志倭人伝に見える、東夷全般に共通する厳罰志向も、箕子の為政における
「剛克」の名残りであった可能性が高い。ただそればかりではなく、「柔克」も用意している
あたりがただの酷吏志向などとは異なる。そしてその独特の政治手段を、この日本こそは
伝統的に実践し続けて来られている。明治以降は、まだそれも完遂されてはいないにしろ。
それを剛毅に治めるための武家が登場し、鎌倉時代以降は武家政権たる幕府こそが
実権を掌握した。これが「柔克」からまたもやの「剛克」への移行。
武家時代はおおむね剛克が主体を占めたが、末期の江戸時代にはほぼ治世も確立されたため、
柔克(元禄の為政)や正直(各種改革)も織り交ぜたような為政が執り行われることともあいなった。
世の中が不穏さを隠し持つようになり始めたと途端に、公家政権から武家政権へと転向したりする
変わり身の速さたるや、いつまでも王侯ばかりが実権者でいようとする中国などにはなかったことで、
それでこそ、日本人の民度の高さというものも保たれて来た。
漢書東夷伝や魏志倭人伝に見える、東夷全般に共通する厳罰志向も、箕子の為政における
「剛克」の名残りであった可能性が高い。ただそればかりではなく、「柔克」も用意している
あたりがただの酷吏志向などとは異なる。そしてその独特の政治手段を、この日本こそは
伝統的に実践し続けて来られている。明治以降は、まだそれも完遂されてはいないにしろ。
明治から戦前にかけては、まさに世界全体が帝国主義社会という
「傲慢で睦みのない世の中」であったために、日本も剛克たる軍国化で抗った。
しかし、それは最終的に失敗に終わり、日本は実質的なアメリカの占領下に置かれた。
帝国主義は表向き廃されたにしたって、決して今の世界が「平康」や「燮友」や「高明」
な状態であるわけではない。世界規模ではCIAのような諜報集団による水面下からの戦乱の
誘発がたびたび繰り返され、日本でも旧荘園領主であるような地主出身の政治屋などが、
巧言令色で民を欺きつつの腐敗まみれな虐政を繰り返している。この状態は明らかに
「沈潜」という状態であり、箕子の政治理念に基づくなら「剛克」で制圧されるべきものである。
世界にしろ日本にしろ、水面下からの腐敗に基づく不健全な社会情勢が続いている。
それは、日本なら平安末期以降の武家の台頭などによって十全に征討された試しのあることだが、
世界規模で見てみれば、そのようなショック療法的な対処が未だ試みられたようなことすらない。
平和といえば「沈潜」であって、秘密警察や諜報組織や政商が暗躍することで民の生活を
蝕んでいるような状態であっても、表向き紛争などが起こっていなければそれで「平和」だと
片付けられるのが世界の常識となっている。そこに「剛克」での対処を企てたりすることは、
腐敗まみれな権力者の立場などからこそ「余計なお世話だ」とされることとなっている。
それでもあえて、沈潜状態の世の中を剛克で征討するというのなら、その先には柔克や正直の
ような別個の対処法にも切り替えて行く用意をしていなければならない。いつまでも剛克でい続け
たりしたならば、ナチスドイツやその他の軍事政権のような様相をも呈してしまうこととなる。
箕子の為政の根幹はどこまでも「中正」であり、剛克も偏った世の中を中正に引き戻すための
手段として提示されているものであることを、重ね重ね計り知って行くようにしなければならない。
「傲慢で睦みのない世の中」であったために、日本も剛克たる軍国化で抗った。
しかし、それは最終的に失敗に終わり、日本は実質的なアメリカの占領下に置かれた。
帝国主義は表向き廃されたにしたって、決して今の世界が「平康」や「燮友」や「高明」
な状態であるわけではない。世界規模ではCIAのような諜報集団による水面下からの戦乱の
誘発がたびたび繰り返され、日本でも旧荘園領主であるような地主出身の政治屋などが、
巧言令色で民を欺きつつの腐敗まみれな虐政を繰り返している。この状態は明らかに
「沈潜」という状態であり、箕子の政治理念に基づくなら「剛克」で制圧されるべきものである。
世界にしろ日本にしろ、水面下からの腐敗に基づく不健全な社会情勢が続いている。
それは、日本なら平安末期以降の武家の台頭などによって十全に征討された試しのあることだが、
世界規模で見てみれば、そのようなショック療法的な対処が未だ試みられたようなことすらない。
平和といえば「沈潜」であって、秘密警察や諜報組織や政商が暗躍することで民の生活を
蝕んでいるような状態であっても、表向き紛争などが起こっていなければそれで「平和」だと
片付けられるのが世界の常識となっている。そこに「剛克」での対処を企てたりすることは、
腐敗まみれな権力者の立場などからこそ「余計なお世話だ」とされることとなっている。
それでもあえて、沈潜状態の世の中を剛克で征討するというのなら、その先には柔克や正直の
ような別個の対処法にも切り替えて行く用意をしていなければならない。いつまでも剛克でい続け
たりしたならば、ナチスドイツやその他の軍事政権のような様相をも呈してしまうこととなる。
箕子の為政の根幹はどこまでも「中正」であり、剛克も偏った世の中を中正に引き戻すための
手段として提示されているものであることを、重ね重ね計り知って行くようにしなければならない。
「邪馬台国という国がありました」
「卑弥呼という名前の女性が治めていたそうです」
「大陸からこのくらいの距離です」
これが何の証拠になるのですか?
書き手は、列島国の全体を俯瞰で見ることなどできなかった。
どこかの港で、「こんな国があるんだって」と聞いて
いそいで書き留めたのかもしれない。
それは全体ではないのかもしれない。
ごくちっぽけな国の、例外的な一時期の事象なのかもしれない。
>>1が
「東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た」といいますが
世界全体を、書き手は見ることはできません。航空機も人工衛星もない時代です。
ミクロを知って、マクロを言い当てられるわけではないのです。
箕子朝鮮という国そのものを否定するわけではないが
規模と存続時間がわかりません。
なぜなら主観と客観があやふやになった者たちが
伝言ゲームしている可能性があるのですから。
「卑弥呼という名前の女性が治めていたそうです」
「大陸からこのくらいの距離です」
これが何の証拠になるのですか?
書き手は、列島国の全体を俯瞰で見ることなどできなかった。
どこかの港で、「こんな国があるんだって」と聞いて
いそいで書き留めたのかもしれない。
それは全体ではないのかもしれない。
ごくちっぽけな国の、例外的な一時期の事象なのかもしれない。
>>1が
「東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た」といいますが
世界全体を、書き手は見ることはできません。航空機も人工衛星もない時代です。
ミクロを知って、マクロを言い当てられるわけではないのです。
箕子朝鮮という国そのものを否定するわけではないが
規模と存続時間がわかりません。
なぜなら主観と客観があやふやになった者たちが
伝言ゲームしている可能性があるのですから。
正史書の信用的価値を否定しようにも、
ほぼそこに書かれてある通りの遺跡が大量に発掘されているというね。
(箕子の朝鮮移封の記録も含めて)
ただ、伝聞の伝聞に基づくような記述の内に、多少の錯誤があったりする。
それこそ、マクロの内のミクロというもんでね。
ミクロの過ちを根拠にマクロの価値すら全否定しようとする
クソガキ然としたその態度が、他人にまで必ずしも通用すると思うなよ。
ほぼそこに書かれてある通りの遺跡が大量に発掘されているというね。
(箕子の朝鮮移封の記録も含めて)
ただ、伝聞の伝聞に基づくような記述の内に、多少の錯誤があったりする。
それこそ、マクロの内のミクロというもんでね。
ミクロの過ちを根拠にマクロの価値すら全否定しようとする
クソガキ然としたその態度が、他人にまで必ずしも通用すると思うなよ。
正史書は、国の正式な史書官が、国家の威信をもかけて、当時最高級の歴史資料や
見聞資料、その他公文書類などを縦横無尽に駆使することで編纂されるもの。
いち個人が私的に史書を編纂したりする場合と違って、マクロの様相はよく見えている。
だからこそ班固も「漢書」地理志中で、東夷の習俗が西南北その他の夷狄の種族と比べて
ずば抜けて優秀で、半ば中国本土以上のものであることすらをも指摘することができたんだ。
実際に、「史記」や「漢書」といった正史書を為政の参考ともすることで、
後漢や唐宋や、律令制度下や封建制度下の日本などが為政を成功させてもいる。
(日本の律令制度時代の文章博士及第のための受験科目も上の二書だった)
ただ編纂するだけじゃない、それを後世の為政のための温故知新の材料とも
してもらうために編纂されるのが正史書であるわけだから、生半可なことは書けない。
実際、慎重に慎重を期した記録に務められていたから、そのような正史書を
参考とした後世の国々が数々の政治的偉業を成し遂げて来られているのでもある。
見聞資料、その他公文書類などを縦横無尽に駆使することで編纂されるもの。
いち個人が私的に史書を編纂したりする場合と違って、マクロの様相はよく見えている。
だからこそ班固も「漢書」地理志中で、東夷の習俗が西南北その他の夷狄の種族と比べて
ずば抜けて優秀で、半ば中国本土以上のものであることすらをも指摘することができたんだ。
実際に、「史記」や「漢書」といった正史書を為政の参考ともすることで、
後漢や唐宋や、律令制度下や封建制度下の日本などが為政を成功させてもいる。
(日本の律令制度時代の文章博士及第のための受験科目も上の二書だった)
ただ編纂するだけじゃない、それを後世の為政のための温故知新の材料とも
してもらうために編纂されるのが正史書であるわけだから、生半可なことは書けない。
実際、慎重に慎重を期した記録に務められていたから、そのような正史書を
参考とした後世の国々が数々の政治的偉業を成し遂げて来られているのでもある。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bin/read/thought/1371364648/30...
「穢を起こして以って自ら臭るること無かれ」
「罪穢れを引き起こして、自らを腐らせるようなことがあってくれるな」
(「書経」商書・盤庚中より)
綿密に分析してみればしてみるほど、殷の治世こそは、古来からの
日本文化の雛形でもあるように思える。極度なほどの清浄主義で、
罪穢れが排されたところにある清浄さを尊び、そこでの祭政一致の為政を
執り行うとか、まさに日本神道(×国家神道)の原型でもあるように思える。
殷の為政が清浄主義に過ぎるからこそ、中国本土では紂王による暴虐を皮切りに
同様な為政が衰えて、春秋戦国時代には一旦完全に絶やされるまでになった。
どんなに覇道を志した所で、所詮は小さな島国での小競り合い泊まりに終始する
日本という国の矮小さがかえって、殷代中国級の清浄な文化を保つことにも貢献した。
日本人が「倭人」という蔑称をそこまで嫌がらない理由も、そのあたりにあるのだろう。
「穢を起こして以って自ら臭るること無かれ」
「罪穢れを引き起こして、自らを腐らせるようなことがあってくれるな」
(「書経」商書・盤庚中より)
綿密に分析してみればしてみるほど、殷の治世こそは、古来からの
日本文化の雛形でもあるように思える。極度なほどの清浄主義で、
罪穢れが排されたところにある清浄さを尊び、そこでの祭政一致の為政を
執り行うとか、まさに日本神道(×国家神道)の原型でもあるように思える。
殷の為政が清浄主義に過ぎるからこそ、中国本土では紂王による暴虐を皮切りに
同様な為政が衰えて、春秋戦国時代には一旦完全に絶やされるまでになった。
どんなに覇道を志した所で、所詮は小さな島国での小競り合い泊まりに終始する
日本という国の矮小さがかえって、殷代中国級の清浄な文化を保つことにも貢献した。
日本人が「倭人」という蔑称をそこまで嫌がらない理由も、そのあたりにあるのだろう。
万年属国で文化も文明もない民族の嫉妬は恐ろしいなw
約2千年もの間、独立主権国家を築き独自の文明文化を持った民族が
そんなに羨ましいか?
http://www.news-us.jp/article/357188832.htm...
これが事実だと知ったら…
頭もおかしくなるわなw
約2千年もの間、独立主権国家を築き独自の文明文化を持った民族が
そんなに羨ましいか?
http://www.news-us.jp/article/357188832.htm...
これが事実だと知ったら…
頭もおかしくなるわなw
「魏志倭人伝」の倭国の官制にまつわる記録に「刺史の如きあり」とある。
刺史とは、前漢の武帝の代に初めて置かれた地方監察官のことで、その監察
によって官吏と豪族などの癒着による政治腐敗を防ぐために設置されたもの。
朝鮮北部が正式に前漢の一部となったのも、武帝の代。
三国時代の日本はまさにその武帝の頃の官制にこそ倣っていて、
これも一つの、箕子朝鮮と古代日本の共通性を知る手がかりとなっている。
しかも、日本は刺史(州牧とも呼ばれる)に相当するような
官職を「目付」などとして、武家時代にまで温存し続けていた。
中国本土では北宋の代に刺史に相当するような監察官は排されて、官吏と富豪
との癒着による大腐敗を招き始めているのに、日本では、箕子の為政の潔癖さにも
倣ってか、刺史と同等の職務である目付を江戸時代まで重用し続けていたのだった。
日本の政治は古代から近世まで一貫している所があって、しかもそれは洪範九疇のような
殷代中国の政治手法にも深く根ざしている。さらには、前漢武帝の代に設置されたよき
職制をも柔軟に吸収して自分たちのものとする臨機応変さまで兼ね備えていたわけで、
ただ形式的な伝統を守るというばかりではない、その精神の根幹的な部分こそを
継承して行こうとする滋味が昔から日本にはあったらしいことがうかがえるのである。
刺史とは、前漢の武帝の代に初めて置かれた地方監察官のことで、その監察
によって官吏と豪族などの癒着による政治腐敗を防ぐために設置されたもの。
朝鮮北部が正式に前漢の一部となったのも、武帝の代。
三国時代の日本はまさにその武帝の頃の官制にこそ倣っていて、
これも一つの、箕子朝鮮と古代日本の共通性を知る手がかりとなっている。
しかも、日本は刺史(州牧とも呼ばれる)に相当するような
官職を「目付」などとして、武家時代にまで温存し続けていた。
中国本土では北宋の代に刺史に相当するような監察官は排されて、官吏と富豪
との癒着による大腐敗を招き始めているのに、日本では、箕子の為政の潔癖さにも
倣ってか、刺史と同等の職務である目付を江戸時代まで重用し続けていたのだった。
日本の政治は古代から近世まで一貫している所があって、しかもそれは洪範九疇のような
殷代中国の政治手法にも深く根ざしている。さらには、前漢武帝の代に設置されたよき
職制をも柔軟に吸収して自分たちのものとする臨機応変さまで兼ね備えていたわけで、
ただ形式的な伝統を守るというばかりではない、その精神の根幹的な部分こそを
継承して行こうとする滋味が昔から日本にはあったらしいことがうかがえるのである。
日本人の民度の高さの起源こそは、
今の朝鮮人の民度の低さの起源でもある。
>>17の「漢書」の東夷の描写の通り、箕子の治世の威風を残していた頃の朝鮮は、
あまりにも人々の民度が高かったものだから、誰しもが夜中に戸締まりすらせずに
いることができた。それに目を付けた中国本土のならず者どもが徐々に朝鮮を
蝕んで行って、今ではほぼ完全にならず者の末裔ばかりで朝鮮が占められることとなってしまった。
始めは本当に、今の在日朝鮮人のような少数派だったに違いないが、
夜盗押し込みもやりたい放題であることに味を占めて勢力を拡大させ、
しまいには朝鮮全土を乗っ取ってしまった。だからこそ、朝鮮こそは、
国民のならず者純度が極度に高い地域とも化してしまったのだ。
今の朝鮮人の民度の低さの起源でもある。
>>17の「漢書」の東夷の描写の通り、箕子の治世の威風を残していた頃の朝鮮は、
あまりにも人々の民度が高かったものだから、誰しもが夜中に戸締まりすらせずに
いることができた。それに目を付けた中国本土のならず者どもが徐々に朝鮮を
蝕んで行って、今ではほぼ完全にならず者の末裔ばかりで朝鮮が占められることとなってしまった。
始めは本当に、今の在日朝鮮人のような少数派だったに違いないが、
夜盗押し込みもやりたい放題であることに味を占めて勢力を拡大させ、
しまいには朝鮮全土を乗っ取ってしまった。だからこそ、朝鮮こそは、
国民のならず者純度が極度に高い地域とも化してしまったのだ。
笠地蔵は池沼 相手しないで下さい
笠地蔵のアホは放置してマジレスすれば
神道、アニミズムに根ざす「おてんとさまが見てる」といった
日本人なら誰しもあるような感覚がその根本原因。
ここを理解しないと、トンチンカンが日本理解になるわけだ。
ズルやウソをやることに抵抗がどうしてもあるのが日本人の精神性。
「誰もみてねーや、ズルしよっ!」と、万物に霊性があり、おてんとさまが見てるわけで
できんわけだ。これこそが日本的モラルの底流に流れるもの。
神道、アニミズムに根ざす「おてんとさまが見てる」といった
日本人なら誰しもあるような感覚がその根本原因。
ここを理解しないと、トンチンカンが日本理解になるわけだ。
ズルやウソをやることに抵抗がどうしてもあるのが日本人の精神性。
「誰もみてねーや、ズルしよっ!」と、万物に霊性があり、おてんとさまが見てるわけで
できんわけだ。これこそが日本的モラルの底流に流れるもの。
▲ページ最上部
ログサイズ:56 KB 有効レス数:47 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
歴史掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
スレッドタイトル:日本人の「民度の高さ」の起源