日本人の「民度の高さ」の起源 箕子朝鮮の正統な末裔=民度の高い日本人
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実は、今から約3100年前〜2000年前頃に、
東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た。
殷帝国が周に放伐されて後、周武王は殷の遺臣で名宰相でもあった
箕子を自らの臣下とせず、そのまま外地にあたる朝鮮に封じた。
(その時に箕子が武王に贈った為政の秘訣が「洪範九疇」
として「書経」や「史記」や「漢書」にも収録されている)
それからしばらくして、中国は春秋戦国時代に突入し、
諸侯の覇権争いによって著しい文化荒廃を来たし、人々の民度も
最低レベルにまで凋落して行くこととなった。一方で、箕子が
封じられた朝鮮は、そのような中国での内ゲバにも煩わされることなく、
約千年の長きに渡って民度を高め続けることができたのだった。
その箕子朝鮮が滅びて200年ほど経過した、約2000年前の朝鮮の
国情を班固が「漢書」で述べているが、既に武帝の代からの開封も
受けているにも関わらず、住民の民度が中国人民以上であることに
驚嘆させられたという。そのあり方たるや、「人々はまず罪を恥とし、
犯した場合には罰を受けてもなお恥とし続けるほど。女性も貞節で
嫉妬することがなく、事件沙汰が些少であるために人々も家の戸締りを
しないでいるほどだった。正式に中国の一部となって後、中国からの
役人や商人が流入すると、人々が門戸を閉ざしていないのをいいこと
に悪さをする連中が頻発し始めたため、段々法律が増やされて行き、
今では六十を数えるまでになってしまった(漢書・地理志下)」と。
(>>2につづく)
東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た。
殷帝国が周に放伐されて後、周武王は殷の遺臣で名宰相でもあった
箕子を自らの臣下とせず、そのまま外地にあたる朝鮮に封じた。
(その時に箕子が武王に贈った為政の秘訣が「洪範九疇」
として「書経」や「史記」や「漢書」にも収録されている)
それからしばらくして、中国は春秋戦国時代に突入し、
諸侯の覇権争いによって著しい文化荒廃を来たし、人々の民度も
最低レベルにまで凋落して行くこととなった。一方で、箕子が
封じられた朝鮮は、そのような中国での内ゲバにも煩わされることなく、
約千年の長きに渡って民度を高め続けることができたのだった。
その箕子朝鮮が滅びて200年ほど経過した、約2000年前の朝鮮の
国情を班固が「漢書」で述べているが、既に武帝の代からの開封も
受けているにも関わらず、住民の民度が中国人民以上であることに
驚嘆させられたという。そのあり方たるや、「人々はまず罪を恥とし、
犯した場合には罰を受けてもなお恥とし続けるほど。女性も貞節で
嫉妬することがなく、事件沙汰が些少であるために人々も家の戸締りを
しないでいるほどだった。正式に中国の一部となって後、中国からの
役人や商人が流入すると、人々が門戸を閉ざしていないのをいいこと
に悪さをする連中が頻発し始めたため、段々法律が増やされて行き、
今では六十を数えるまでになってしまった(漢書・地理志下)」と。
(>>2につづく)
この、「漢書」中の箕子朝鮮跡地の描写は、「魏志倭人伝」
における倭国の描写とも酷似している。「事件沙汰が些少」や
「婦人が貞節で嫉妬しない」などの記述はまさに一致していて、
しかもこれは今の朝鮮や朝鮮女の性向とは完全に相反してもいる。
「魏志倭人伝」には「(倭国には)刺史の如き官制あり」ともあって、
この「刺史」という官職が中国で置かれたのも、朝鮮北部が正式に中国
の一部となった武帝の代であるため、それ以降に朝鮮の人々が倭国へと
流入して来て、先進的な制度を自分たちで実施したのだとも考えられる。
箕子朝鮮が滅び、段々と中国本土からろくでもない連中が流入して来た
結果として、民度を極限まで高められていた古代の朝鮮人が日本列島
へと移住して来た。だからこそ、日本人の民度は中朝人以上にも高い。
江戸時代や戦前までに限れば、世界一というほどにも高かった。これこそ
はまさに、殷の遺臣である箕子がもたらしてくれた賜物なのである。
における倭国の描写とも酷似している。「事件沙汰が些少」や
「婦人が貞節で嫉妬しない」などの記述はまさに一致していて、
しかもこれは今の朝鮮や朝鮮女の性向とは完全に相反してもいる。
「魏志倭人伝」には「(倭国には)刺史の如き官制あり」ともあって、
この「刺史」という官職が中国で置かれたのも、朝鮮北部が正式に中国
の一部となった武帝の代であるため、それ以降に朝鮮の人々が倭国へと
流入して来て、先進的な制度を自分たちで実施したのだとも考えられる。
箕子朝鮮が滅び、段々と中国本土からろくでもない連中が流入して来た
結果として、民度を極限まで高められていた古代の朝鮮人が日本列島
へと移住して来た。だからこそ、日本人の民度は中朝人以上にも高い。
江戸時代や戦前までに限れば、世界一というほどにも高かった。これこそ
はまさに、殷の遺臣である箕子がもたらしてくれた賜物なのである。
日本人(大和民族)一般の起源というのは、別に一つではない。
日本古来の先住民族としての縄文人もいれば、中国本土から
流入して来た渡来人もいる。天皇の先祖は呉あたりから来た
ともされているし、長宗我部や島津やその他の秦氏のような
中国史上最悪の暴君(始皇帝)の末裔すらもが今の日本にはいる。
ただ、「世界に誇れる、民度の高い日本人」の起源はといえば、
これは「箕子朝鮮からの渡来者」であることがほぼ間違いない。
「漢書」地理志の朝鮮人の描写と、「三国志」魏志倭人伝の
倭人の描写とが酷似していて、なおかつ近ごろの朝鮮人のあり方
とは全くかけ離れていることからも、世相の荒廃によって住処を
追われた箕子朝鮮の難民たちが、その民度の高さと共に日本に流入
して来たことで、日本人全体の民度までもか高められたのだと察せる。
(一部、矯正しきれなかったような秦人系の日本人などもある)
朝鮮からの渡来者だから良くないなんてことはない。むしろ、
中国本土からの渡来者以上にも善良であり難い素質の持ち主だった。
古代の中国史の大きなうねりの諸事情によって、中国人よりも
民度の高い朝鮮人というのが3000〜2000年前ごろに育成されて
いたわけで、その由緒も「書経」や「史記」の記録にまで遡れる
ものであるわけだから、決してそれを恥じたりする必要もない。
中国では、周代にすでに滅んでいたような最良の文化風俗が、
たまたま朝鮮で温められて、ごっそり日本へと移入して来てくれた
わけだから、これはもう、儲けもんという外ないものだといえる。
日本古来の先住民族としての縄文人もいれば、中国本土から
流入して来た渡来人もいる。天皇の先祖は呉あたりから来た
ともされているし、長宗我部や島津やその他の秦氏のような
中国史上最悪の暴君(始皇帝)の末裔すらもが今の日本にはいる。
ただ、「世界に誇れる、民度の高い日本人」の起源はといえば、
これは「箕子朝鮮からの渡来者」であることがほぼ間違いない。
「漢書」地理志の朝鮮人の描写と、「三国志」魏志倭人伝の
倭人の描写とが酷似していて、なおかつ近ごろの朝鮮人のあり方
とは全くかけ離れていることからも、世相の荒廃によって住処を
追われた箕子朝鮮の難民たちが、その民度の高さと共に日本に流入
して来たことで、日本人全体の民度までもか高められたのだと察せる。
(一部、矯正しきれなかったような秦人系の日本人などもある)
朝鮮からの渡来者だから良くないなんてことはない。むしろ、
中国本土からの渡来者以上にも善良であり難い素質の持ち主だった。
古代の中国史の大きなうねりの諸事情によって、中国人よりも
民度の高い朝鮮人というのが3000〜2000年前ごろに育成されて
いたわけで、その由緒も「書経」や「史記」の記録にまで遡れる
ものであるわけだから、決してそれを恥じたりする必要もない。
中国では、周代にすでに滅んでいたような最良の文化風俗が、
たまたま朝鮮で温められて、ごっそり日本へと移入して来てくれた
わけだから、これはもう、儲けもんという外ないものだといえる。
こんなに長い上に内容がアホらしいと分る文章投稿して、まともに読んでもらえると思ってんだろうか?
「信じたい」なんてことがあるかよ。
代表的な文献記録の範囲内だけで自然と結論付けられることじゃねえか。
「日本人はどこから来たか」という疑問に一概な断定を加えているわけでもない。
「日本人の民度の高さ」という限られた文化風俗の起源に付いてだけ論じてもいる。
その結論が「古代朝鮮からの移民」であるなどとは容易に受け入れがたいのは、
今の朝鮮人に対する蔑視や、正論すらもはやどうでもいい極右としての
思い上がりにまみれているからなのかも知れないが。
古代の朝鮮に東洋一民度の高い人々が居たのも「にもかかわらずではなくだからこそ」だし、
今の朝鮮人が禽獣のごとき民度の低さであるのも「にもかかわらずではなくだからこそ」である、
そうであると納得が行くだけの含蓄と信憑性のある記録が残っているのだから、
それすらをも全く無視しての、重箱の隅を突っつくような分析論に終始していたり
することのほうが、よっぽどアホらしいことだと言える。
代表的な文献記録の範囲内だけで自然と結論付けられることじゃねえか。
「日本人はどこから来たか」という疑問に一概な断定を加えているわけでもない。
「日本人の民度の高さ」という限られた文化風俗の起源に付いてだけ論じてもいる。
その結論が「古代朝鮮からの移民」であるなどとは容易に受け入れがたいのは、
今の朝鮮人に対する蔑視や、正論すらもはやどうでもいい極右としての
思い上がりにまみれているからなのかも知れないが。
古代の朝鮮に東洋一民度の高い人々が居たのも「にもかかわらずではなくだからこそ」だし、
今の朝鮮人が禽獣のごとき民度の低さであるのも「にもかかわらずではなくだからこそ」である、
そうであると納得が行くだけの含蓄と信憑性のある記録が残っているのだから、
それすらをも全く無視しての、重箱の隅を突っつくような分析論に終始していたり
することのほうが、よっぽどアホらしいことだと言える。
「中国正史の記録なんて全く信頼が置けない」ってんなら、
「三国志」の魏志倭人伝だってそういう風に取り扱うべきなんだ。
むしろ、「三国志」こそは作者の陳寿が金に困ってスポンサー寄りなことを
書いていた可能性も高い、特に信頼性の低い部類の正史書ですらあるというのに。
その「三国志」の魏志倭人伝ばかりを学者たちも「日本人の起源を突き止める手がかり」
として重用して、明らかに魏志倭人伝の記録との連続性が見受けられる「漢書」地理志朝鮮伝
のほうには全く目をくれようともしない。
福沢諭吉の脱亜入欧論あたりにすり合わせるために、
あえて日本文化の起源を日本列島特有のものでばかりあると
決め込もうとしているのじゃないかとすら思える。
「三国志」の魏志倭人伝だってそういう風に取り扱うべきなんだ。
むしろ、「三国志」こそは作者の陳寿が金に困ってスポンサー寄りなことを
書いていた可能性も高い、特に信頼性の低い部類の正史書ですらあるというのに。
その「三国志」の魏志倭人伝ばかりを学者たちも「日本人の起源を突き止める手がかり」
として重用して、明らかに魏志倭人伝の記録との連続性が見受けられる「漢書」地理志朝鮮伝
のほうには全く目をくれようともしない。
福沢諭吉の脱亜入欧論あたりにすり合わせるために、
あえて日本文化の起源を日本列島特有のものでばかりあると
決め込もうとしているのじゃないかとすら思える。
実に興味深い
「漢書」は後漢の史書官である班固が著したものなだけあって、
むしろ前漢の為政についても好ましく描いている可能性が高いものですらある。
しかし、実際には「良いところは良い、悪いところは悪い」という割り切った姿勢で書かれていて、
歴代皇帝の為政上の落ち度なども過不足なく本紀に掲載したものとなっている。
その「漢書」地理志東夷伝中の朝鮮の記録も、
「中国に併合された結果としてかえって風紀も乱れた」などという、
漢帝国の側からすれば都合の悪いような事情までをもありのままに掲載したものとなっている。
「東西南北の夷狄を鑑みても、東夷だけは天性柔順で申し分がない。孔子が中国で道が行われないことを嘆いて、
『いっそ東夷の国で為政に励んでみようか(論語)』と案じたのも宜なることだといえる」とすら言っている。
一方、「漢書」地理志の魯国伝では、「史記」でも周公や孔子といった聖賢の根拠地として
その民度の高さが評価されていた魯国が、すでに相当な文化風俗的腐敗を来していたことを指摘してもいる。
周公は偉大な政治家でもあったにしろ、孔子は学者として大成したのみであり、政治家としては
季子のような専横勢力に阻まれて成功することができなかった。そのため、学者としての知見が
十分に魯の統治に繁栄されることもなく、孔子の没後500年程度が経過した前漢末期の魯では、
未だ学問を奨励する風潮はありながらも、悪行を好き好むような蛮習もまた根付き始めていたという。
周代に隆盛を極めた魯の文化も、春秋戦国時代には一方的な凋落を被り、一時は魯という国と共に
滅亡の様相すら来したのだった。一方、箕子朝鮮のほうはといえば、これまた戦国末期には
滅ぼされたものの、それまで900年にも渡って箕子一族による磐石な徳治が敷かれ続けて来たために、
滅亡から200年が経過した頃にも未だ良質な文化風俗を湛えていたという。
儒学の祖である孔子の本拠地、魯国以上にも良質な文化風俗を保ち養い続けられるだけの事情が
古代の朝鮮にはあったわけで、それは「漢書」だけでなく「書経」や「史記」の記録によっても
裏付けられていることなのだから、現代朝鮮人の歴史捏造などと
一緒くたに考えて眉唾扱いしたりすることのほうがおかしい。
むしろ前漢の為政についても好ましく描いている可能性が高いものですらある。
しかし、実際には「良いところは良い、悪いところは悪い」という割り切った姿勢で書かれていて、
歴代皇帝の為政上の落ち度なども過不足なく本紀に掲載したものとなっている。
その「漢書」地理志東夷伝中の朝鮮の記録も、
「中国に併合された結果としてかえって風紀も乱れた」などという、
漢帝国の側からすれば都合の悪いような事情までをもありのままに掲載したものとなっている。
「東西南北の夷狄を鑑みても、東夷だけは天性柔順で申し分がない。孔子が中国で道が行われないことを嘆いて、
『いっそ東夷の国で為政に励んでみようか(論語)』と案じたのも宜なることだといえる」とすら言っている。
一方、「漢書」地理志の魯国伝では、「史記」でも周公や孔子といった聖賢の根拠地として
その民度の高さが評価されていた魯国が、すでに相当な文化風俗的腐敗を来していたことを指摘してもいる。
周公は偉大な政治家でもあったにしろ、孔子は学者として大成したのみであり、政治家としては
季子のような専横勢力に阻まれて成功することができなかった。そのため、学者としての知見が
十分に魯の統治に繁栄されることもなく、孔子の没後500年程度が経過した前漢末期の魯では、
未だ学問を奨励する風潮はありながらも、悪行を好き好むような蛮習もまた根付き始めていたという。
周代に隆盛を極めた魯の文化も、春秋戦国時代には一方的な凋落を被り、一時は魯という国と共に
滅亡の様相すら来したのだった。一方、箕子朝鮮のほうはといえば、これまた戦国末期には
滅ぼされたものの、それまで900年にも渡って箕子一族による磐石な徳治が敷かれ続けて来たために、
滅亡から200年が経過した頃にも未だ良質な文化風俗を湛えていたという。
儒学の祖である孔子の本拠地、魯国以上にも良質な文化風俗を保ち養い続けられるだけの事情が
古代の朝鮮にはあったわけで、それは「漢書」だけでなく「書経」や「史記」の記録によっても
裏付けられていることなのだから、現代朝鮮人の歴史捏造などと
一緒くたに考えて眉唾扱いしたりすることのほうがおかしい。
「魏志倭人伝」で、倭人が自分たちで「刺史」という
査察官(目付)に相当するような官職を置いていたというのは、
日本でまで外界からの統治を被ったりすることへの牽制だったのだと思われる。
前漢武帝の代に朝鮮が中国に併合された結果、中国のならず者同然な
官吏や商人が朝鮮に跋扈し始めることとなった。そのせいでかえって
風紀が乱れたために、日本がまたそのような形で中国に併合されてしまう
ことを防ぐ目的で、自分たちで独自に高度な官制を敷いていたのだと思われる。
古代中国の宰相である箕子が治めていたからには、中華風の風俗というものも
それなりに浸透していたに違いないわけだが、すでに中国本土が荒廃の限りを
尽くしていたこともあって、箕子朝鮮からの渡来者たちは、むしろ日本の伝統文化に
同化することのほうを選んだ。だから日本語が言語学的に中国語に近づけられるような
こともなかったし、刺青や女王擁立のような固有文化も自分たちでは排除しなかった。
むしろ、自分たちから日本という国に同化することを通じて、箕子朝鮮時代に
培われた民度の高さだけを日本へと移植することに専念したのだった。
古墳時代あたりからは、中国から秦氏のごときならず者の渡来人までもが
流入して来てしまったために、日本の風俗が悪いほうへと大きく変貌しかねない
危機を招いた。それを呉の祭祀階級であった天皇や中臣=藤原氏らが統制して、
何とか事態を収拾したが、それも、日本という国の民度が、箕子朝鮮からの渡来者
たちによって高められていたからこそ可能となったことに違いないのである。
もしも日本が低い民度のままであったりしたなら、
むしろ秦人の放辟邪侈などのほうに一般庶民までもがなびいて、
日本が中国や朝鮮並みに荒廃してしまっていたかも知れないのである。
査察官(目付)に相当するような官職を置いていたというのは、
日本でまで外界からの統治を被ったりすることへの牽制だったのだと思われる。
前漢武帝の代に朝鮮が中国に併合された結果、中国のならず者同然な
官吏や商人が朝鮮に跋扈し始めることとなった。そのせいでかえって
風紀が乱れたために、日本がまたそのような形で中国に併合されてしまう
ことを防ぐ目的で、自分たちで独自に高度な官制を敷いていたのだと思われる。
古代中国の宰相である箕子が治めていたからには、中華風の風俗というものも
それなりに浸透していたに違いないわけだが、すでに中国本土が荒廃の限りを
尽くしていたこともあって、箕子朝鮮からの渡来者たちは、むしろ日本の伝統文化に
同化することのほうを選んだ。だから日本語が言語学的に中国語に近づけられるような
こともなかったし、刺青や女王擁立のような固有文化も自分たちでは排除しなかった。
むしろ、自分たちから日本という国に同化することを通じて、箕子朝鮮時代に
培われた民度の高さだけを日本へと移植することに専念したのだった。
古墳時代あたりからは、中国から秦氏のごときならず者の渡来人までもが
流入して来てしまったために、日本の風俗が悪いほうへと大きく変貌しかねない
危機を招いた。それを呉の祭祀階級であった天皇や中臣=藤原氏らが統制して、
何とか事態を収拾したが、それも、日本という国の民度が、箕子朝鮮からの渡来者
たちによって高められていたからこそ可能となったことに違いないのである。
もしも日本が低い民度のままであったりしたなら、
むしろ秦人の放辟邪侈などのほうに一般庶民までもがなびいて、
日本が中国や朝鮮並みに荒廃してしまっていたかも知れないのである。
テスト
日本の先住民族である縄文人が、民度の高い日本人の起源であるとも考えがたい。
ほぼ純血の縄文人である隼人族が大和王権への服属に長らく抵抗していたのは、
「日本書紀」などの記録にもあるとおり。血気盛んだが節度に欠けるために、
律令制度下では「隼人司」という部署が特別に置かれて、隼人族の男を朝廷の
警備要員として専ら用いていたことが、当時の有職故実学からも知られている。
武家政権に移行してからの、南九州での薩摩隼人の動向たるや、始めは
相良や菱刈、菊池といった旧堂上家系の上等な武将にも帰属していたというのに、
段々と秦氏の末裔である島津へと服属する度合いを高め、戦国以降は島津を
南九州の覇者として擁立するまでに至った。自分たちから好き好んで秦人の
下劣さのほうにあえて帰服していったぐらいだから、隼人族あたりに代表される
縄文人が、日本の民度の高さの起源であったなどとも到底考えにくいといえる。
明治以降の廃仏毀釈への加担や、薩閥として旧軍部や警察を乗っ取っての
深刻な腐敗など、今の平均的な日本人よりもそのあり方は下劣なものである。
それが秦人である島津に帰服していたからというばかりのものとも言えないのも、
自分たちからあえて好き好んで秦人などを支持した前歴こそがあるからだ。
ほぼ純血の縄文人である隼人族が大和王権への服属に長らく抵抗していたのは、
「日本書紀」などの記録にもあるとおり。血気盛んだが節度に欠けるために、
律令制度下では「隼人司」という部署が特別に置かれて、隼人族の男を朝廷の
警備要員として専ら用いていたことが、当時の有職故実学からも知られている。
武家政権に移行してからの、南九州での薩摩隼人の動向たるや、始めは
相良や菱刈、菊池といった旧堂上家系の上等な武将にも帰属していたというのに、
段々と秦氏の末裔である島津へと服属する度合いを高め、戦国以降は島津を
南九州の覇者として擁立するまでに至った。自分たちから好き好んで秦人の
下劣さのほうにあえて帰服していったぐらいだから、隼人族あたりに代表される
縄文人が、日本の民度の高さの起源であったなどとも到底考えにくいといえる。
明治以降の廃仏毀釈への加担や、薩閥として旧軍部や警察を乗っ取っての
深刻な腐敗など、今の平均的な日本人よりもそのあり方は下劣なものである。
それが秦人である島津に帰服していたからというばかりのものとも言えないのも、
自分たちからあえて好き好んで秦人などを支持した前歴こそがあるからだ。
大陸と交流していた時代の日本の古代王族は大陸から文化を持った一族郎党が、
新天地を求めて海を渡って 土着の古代日本人との覇権争いの末
国家を形成し日本人になってるんだろうなとは思うけど、
大陸の民族は国家間の戦争で、戦勝国による皆殺しで血が途絶える事もあり、その地に定住しているからと言って、血が連綿と続いているわけじゃないし
大陸に日本があったら日本人は途絶えているかもしれない。
日本人のルーツは朝鮮半島系だけじゃなくヨーロッパやインド、ミクロネシアの海洋民族等もルーツとしている人もいて、中国大陸以外のそれぞれの文化も引き継がれて日本文化を形成したと思っている
人類のルーツはアフリカのミトコンドリアイブが祖とする考えではアフリカから移動していったわけで、
朝鮮半島にいたその一族も、ブータンから朝鮮半島に遷都した一族が日本に来たのかも知れんし、天皇は朝鮮人とか信じてる人はオツム大丈夫かと思う
仮に大陸に日本のルーツがあったとしても、国として、国際常識を学ばない民族の民度が上がるわけでは無いし、
日本国籍があれば日本人だけど日本人にも民度が低い人もいる
新天地を求めて海を渡って 土着の古代日本人との覇権争いの末
国家を形成し日本人になってるんだろうなとは思うけど、
大陸の民族は国家間の戦争で、戦勝国による皆殺しで血が途絶える事もあり、その地に定住しているからと言って、血が連綿と続いているわけじゃないし
大陸に日本があったら日本人は途絶えているかもしれない。
日本人のルーツは朝鮮半島系だけじゃなくヨーロッパやインド、ミクロネシアの海洋民族等もルーツとしている人もいて、中国大陸以外のそれぞれの文化も引き継がれて日本文化を形成したと思っている
人類のルーツはアフリカのミトコンドリアイブが祖とする考えではアフリカから移動していったわけで、
朝鮮半島にいたその一族も、ブータンから朝鮮半島に遷都した一族が日本に来たのかも知れんし、天皇は朝鮮人とか信じてる人はオツム大丈夫かと思う
仮に大陸に日本のルーツがあったとしても、国として、国際常識を学ばない民族の民度が上がるわけでは無いし、
日本国籍があれば日本人だけど日本人にも民度が低い人もいる
いやー、魏志や日本書紀の記述を鵜呑みにする奴って本当にいるんだな。
そんなに長文でもないので、「漢書」地理志東夷伝の全文を引用してみよう。
「玄菟、楽浪の二郡は武帝の時代に置かれ、そこには朝鮮、濊貉、句驪といった蛮夷ばかりが住んでいた。
殷の政道が衰えると、(遺臣である)箕子が中国を去って朝鮮に行き、そこの民たちに礼儀や農産、養蚕や
機織を教えた。楽浪や朝鮮の民たちが八つの禁制を犯した場合には、殺人は即座に死罪で報い、傷害には
穀物による弁償で報い、窃盗したには被害者家の奴隷や奴婢となることで報いさせ、贖う場合には五十万銭を
支払わせることとした。罪を免れて庶民に復した場合でも、なおこれを恥とし続け、嫁を取れないなどの
問題を持ち越し続けたために、結局民たちはお互いに盗み合うようなことをついぞしなかった。門戸もずっと
閉じられることがなく、婦人も貞節で信用深く、淫奔や我侭勝手となることがなかった。民たちは飲食に
高坏タカツキを用い、都邑では役人や商人に倣って杯器を用いて食事した。郡は始め官吏を遼東から採用したが、
その官吏や行商人が人々の門戸も閉めずに財物も隠さないでいるのを見て、夜に盗みを働くようになったため、
習俗は次第に損なわれて行き、今では禁制も六十ヶ条にまで増大してしまった。貴ぶべきかな、仁賢による民の
化育は。それがあったおかげで東夷の民たちは天性従順となり西南北の野卑な夷狄とも全くその様相を異にしている。
だからこそ孔子も中国で道が行われないことを悼んで、筏を浮かべて海に浮かび、東方の九夷の国に移住することを
欲したのだ。楽浪の海のかなたには倭人がいて、その国の数は百余り、歳時には献物を持って見えるともいう」
‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾
「玄菟、楽浪の二郡は武帝の時代に置かれ、そこには朝鮮、濊貉、句驪といった蛮夷ばかりが住んでいた。
殷の政道が衰えると、(遺臣である)箕子が中国を去って朝鮮に行き、そこの民たちに礼儀や農産、養蚕や
機織を教えた。楽浪や朝鮮の民たちが八つの禁制を犯した場合には、殺人は即座に死罪で報い、傷害には
穀物による弁償で報い、窃盗したには被害者家の奴隷や奴婢となることで報いさせ、贖う場合には五十万銭を
支払わせることとした。罪を免れて庶民に復した場合でも、なおこれを恥とし続け、嫁を取れないなどの
問題を持ち越し続けたために、結局民たちはお互いに盗み合うようなことをついぞしなかった。門戸もずっと
閉じられることがなく、婦人も貞節で信用深く、淫奔や我侭勝手となることがなかった。民たちは飲食に
高坏タカツキを用い、都邑では役人や商人に倣って杯器を用いて食事した。郡は始め官吏を遼東から採用したが、
その官吏や行商人が人々の門戸も閉めずに財物も隠さないでいるのを見て、夜に盗みを働くようになったため、
習俗は次第に損なわれて行き、今では禁制も六十ヶ条にまで増大してしまった。貴ぶべきかな、仁賢による民の
化育は。それがあったおかげで東夷の民たちは天性従順となり西南北の野卑な夷狄とも全くその様相を異にしている。
だからこそ孔子も中国で道が行われないことを悼んで、筏を浮かべて海に浮かび、東方の九夷の国に移住することを
欲したのだ。楽浪の海のかなたには倭人がいて、その国の数は百余り、歳時には献物を持って見えるともいう」
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波線部分が、中国正史上初の「倭国伝」だ。なぜか、今の日本の史書学では無視されてるが。
で、以下は「漢書」東夷伝と「三国志」魏志倭人伝とで記述の酷似ないし一致する部分。
漢書東夷伝「禁制を犯した場合には、殺人は即座に死罪で報い〜罪を免れて庶民に復した場合でも、なおこれを恥とし続け、嫁を取れない」
魏志倭人伝「法を犯した場合、軽い者はその妻子を殺し、重い者はその門戸及び宗族を殺す」
共通点:厳酷な重罰主義で親族連帯刑もあり、罪人はまず妻帯から没収される。
漢書東夷伝「民たちはお互いに盗み合うようなことをついぞしなかった」
魏志倭人伝「誰も盗みをせず、訴訟沙汰も少ない」
共通点:見ての通り。
漢書東夷伝「婦人も貞節で信用深く、淫奔や我侭勝手となることがなかった」
魏志倭人伝「婦人も淫らでなく、嫉妬したり不機嫌だったりすることがない」
共通点:婦人が特に貞節である。
漢書東夷伝「飲食に高坏タカツキ(籩豆)を用いる」
魏志倭人伝「飲食に高坏タカツキ(籩豆)を用いる」
共通点:完全に一致。
日本に朝鮮からの渡来人がいることぐらいは誰でも認めている。
ただ、古代朝鮮の習俗こそが、日本の習俗の源流になっているとはあまり認められない。
箕子朝鮮という、それはそれは由緒正しい系統の国があったというのに、
ほとんど朝鮮というだけで鼻つまみもの扱いされて、遠ざけられたままでいる。
で、以下は「漢書」東夷伝と「三国志」魏志倭人伝とで記述の酷似ないし一致する部分。
漢書東夷伝「禁制を犯した場合には、殺人は即座に死罪で報い〜罪を免れて庶民に復した場合でも、なおこれを恥とし続け、嫁を取れない」
魏志倭人伝「法を犯した場合、軽い者はその妻子を殺し、重い者はその門戸及び宗族を殺す」
共通点:厳酷な重罰主義で親族連帯刑もあり、罪人はまず妻帯から没収される。
漢書東夷伝「民たちはお互いに盗み合うようなことをついぞしなかった」
魏志倭人伝「誰も盗みをせず、訴訟沙汰も少ない」
共通点:見ての通り。
漢書東夷伝「婦人も貞節で信用深く、淫奔や我侭勝手となることがなかった」
魏志倭人伝「婦人も淫らでなく、嫉妬したり不機嫌だったりすることがない」
共通点:婦人が特に貞節である。
漢書東夷伝「飲食に高坏タカツキ(籩豆)を用いる」
魏志倭人伝「飲食に高坏タカツキ(籩豆)を用いる」
共通点:完全に一致。
日本に朝鮮からの渡来人がいることぐらいは誰でも認めている。
ただ、古代朝鮮の習俗こそが、日本の習俗の源流になっているとはあまり認められない。
箕子朝鮮という、それはそれは由緒正しい系統の国があったというのに、
ほとんど朝鮮というだけで鼻つまみもの扱いされて、遠ざけられたままでいる。
統合失調症で孔子バカのカス地蔵は、ヒトの話しは聞かないからなww
おまえの妄想話しはもういいよww
要するに、おまえの先祖は箕子朝鮮だと言いたいんだろww
それはおまえの何代前の先祖なんだ?
ちなみに1代前の先祖=父母=2人、2代前の先祖=祖父母=4人、
3代前の先祖=曾祖父母=8人、… 32代前の先祖=4,294,967,296人だからな.
64代前の先祖=18,446,744,073,709,551,616人だからなww
つまり、32代前の先祖の血筋ってえのは、おまえにとって43億分の1の血縁だあな。
わかったかバカ地蔵。
おまえの妄想話しはもういいよww
要するに、おまえの先祖は箕子朝鮮だと言いたいんだろww
それはおまえの何代前の先祖なんだ?
ちなみに1代前の先祖=父母=2人、2代前の先祖=祖父母=4人、
3代前の先祖=曾祖父母=8人、… 32代前の先祖=4,294,967,296人だからな.
64代前の先祖=18,446,744,073,709,551,616人だからなww
つまり、32代前の先祖の血筋ってえのは、おまえにとって43億分の1の血縁だあな。
わかったかバカ地蔵。
>朝鮮というだけで鼻つまみもの扱いされて、遠ざけられたままでいる。
そんなわけあるか
信頼とは正しく生きている生きざまに付いてくるものである
現日本や過去に存在したその由緒正しい系統の国があったとして、
その隣国に添って立派になろうとしないで恨みと憎悪をまき散らしているのでは認められるわけがない
認められたければ正しく生きて行いで示していけ
そんなわけあるか
信頼とは正しく生きている生きざまに付いてくるものである
現日本や過去に存在したその由緒正しい系統の国があったとして、
その隣国に添って立派になろうとしないで恨みと憎悪をまき散らしているのでは認められるわけがない
認められたければ正しく生きて行いで示していけ
民度の高い低いの基準が分からないが血液型のA型因子の特徴なのでは?
古代ヘブライ人も同じような秩序維持を良しとしていたみたいだし。
古代ヘブライ人も同じような秩序維持を良しとしていたみたいだし。
「籩豆(へんとう、たかつき)」という独特の食器を
用いていた点が、古代の朝鮮と倭国とで完全に一致している。
しかも、これは当地に特有の文化であって、中国では「杯器」
という食器が用いられているから、中国の官吏との会食では
朝鮮人たちも杯器で飲食していたと「漢書」の東夷伝にある。
古代の朝鮮人が、朝鮮特有の文化と共に日本に流入して来た
確かな証拠となっている。もちろん朝鮮人ばかりが日本へと
渡来して来たのではないが、箕子の一族が治めていた朝鮮
特有の習俗が日本へと流入していったことにも間違いわない。
箕子朝鮮の良質な習俗が流入して行った結果として、
日本人全体の民度が高められたとも自然に考えられる。
用いていた点が、古代の朝鮮と倭国とで完全に一致している。
しかも、これは当地に特有の文化であって、中国では「杯器」
という食器が用いられているから、中国の官吏との会食では
朝鮮人たちも杯器で飲食していたと「漢書」の東夷伝にある。
古代の朝鮮人が、朝鮮特有の文化と共に日本に流入して来た
確かな証拠となっている。もちろん朝鮮人ばかりが日本へと
渡来して来たのではないが、箕子の一族が治めていた朝鮮
特有の習俗が日本へと流入していったことにも間違いわない。
箕子朝鮮の良質な習俗が流入して行った結果として、
日本人全体の民度が高められたとも自然に考えられる。
俺は今、この日本と言う国の漠然とした
文化習俗の起源について論じているのであって、
別に日本民族の厳密な血統上の起源などを論じているのではないからな。
いま特に、その起源までをも確かめて、その保全にも務めて行くべきなのが、
世界的にも突出して高い「日本人の民度の高さ」だといえる。その起源すら
ろくに確かめられもしないままに、朝鮮人や中国人やCIAによる侵食を被って、
一方的に民度を引き摺り下ろされてばかりでいたりしないためにも、特にその
あたりの習俗の由緒の確かさまでをも(あるのなら)確かめておくべきだといえる。
「書経」「史記」「漢書」「魏志倭人伝」といった史書を鑑みるに、
確かにそこにも磐石な由緒が伴っているらしい。それも、3100年以上も昔の
殷の治世の名残りという、今の中国人すらもが当の昔に忘れ去っている古きよき
正統な中国文明のはしりであるというのだから、中国人も決して無礼に扱っては
ならないし、米欧人なども、せいぜい2500年程度の歴史しか持たない聖書信仰
などの嵩にかかって、日本人に対して偉ぶるようなことがあってはならない。
日本人の側としても、なるべくその民度の保全に務めて行くべきであり、
そのためにはやはり、箕子による東夷の統治にこそ学ばなければならない。
箕子の為政の秘訣は「洪範九疇」などとして、数多の古書にも収められているのだから、
それらも参考にしつつ、今となっては日本特有となっている習俗こそを盛り立てて行くべきである。
これもまた、日本人の民度の高さの起源を大まかにでも見積もればこそ可能となること
であり、いちいち邪馬台国の場所ばかりを突き詰めたりするよりも、よっぽど
実用的な効果が期待できることだといえる。
文化習俗の起源について論じているのであって、
別に日本民族の厳密な血統上の起源などを論じているのではないからな。
いま特に、その起源までをも確かめて、その保全にも務めて行くべきなのが、
世界的にも突出して高い「日本人の民度の高さ」だといえる。その起源すら
ろくに確かめられもしないままに、朝鮮人や中国人やCIAによる侵食を被って、
一方的に民度を引き摺り下ろされてばかりでいたりしないためにも、特にその
あたりの習俗の由緒の確かさまでをも(あるのなら)確かめておくべきだといえる。
「書経」「史記」「漢書」「魏志倭人伝」といった史書を鑑みるに、
確かにそこにも磐石な由緒が伴っているらしい。それも、3100年以上も昔の
殷の治世の名残りという、今の中国人すらもが当の昔に忘れ去っている古きよき
正統な中国文明のはしりであるというのだから、中国人も決して無礼に扱っては
ならないし、米欧人なども、せいぜい2500年程度の歴史しか持たない聖書信仰
などの嵩にかかって、日本人に対して偉ぶるようなことがあってはならない。
日本人の側としても、なるべくその民度の保全に務めて行くべきであり、
そのためにはやはり、箕子による東夷の統治にこそ学ばなければならない。
箕子の為政の秘訣は「洪範九疇」などとして、数多の古書にも収められているのだから、
それらも参考にしつつ、今となっては日本特有となっている習俗こそを盛り立てて行くべきである。
これもまた、日本人の民度の高さの起源を大まかにでも見積もればこそ可能となること
であり、いちいち邪馬台国の場所ばかりを突き詰めたりするよりも、よっぽど
実用的な効果が期待できることだといえる。
「たかつき(高杯、籩豆)」とは読んでその発音の如く、「高く付かせる」ということだ。
食器にも脚を付け、建物に脚を付けて高い所に付けさせる。そういった「高付き式」を
尊ぶ風潮は確かに、高温多湿な日本の気候風土にも見合ったものとなっていて、
それがそのまま靴を脱いで畳に座る日本式住居の走りともなっている。
「史記」の記録などを見てみるに、中国人が低湿地を「長生きできない場所」として
特に忌み嫌っているような記述が多々見られる。実際、高床式でもない中国式の住居を
低湿地に建てたりしたなら、住環境も最悪な上に、洪水がそのまま命に関わることにもなる。
高床式で高温多湿や水害に厳重に具えるあり方は、日本でこそ特に必要なことだった。
それに感化されたかのように、約二千年前の東夷では、食器までもが脚を付けた「高付き式」の
ものとされていたという。これは、朝鮮発祥どころか実は日本発祥で、それが朝鮮に輸出された
ものとすら考えられる。日本の弥生時代ごろにずっと箕子朝鮮と古代日本とは友好的な関係にあって、
共に民度を高め合っていたのではないかとすら考えられる証拠に、高付き式食器がなっている。
食器にも脚を付け、建物に脚を付けて高い所に付けさせる。そういった「高付き式」を
尊ぶ風潮は確かに、高温多湿な日本の気候風土にも見合ったものとなっていて、
それがそのまま靴を脱いで畳に座る日本式住居の走りともなっている。
「史記」の記録などを見てみるに、中国人が低湿地を「長生きできない場所」として
特に忌み嫌っているような記述が多々見られる。実際、高床式でもない中国式の住居を
低湿地に建てたりしたなら、住環境も最悪な上に、洪水がそのまま命に関わることにもなる。
高床式で高温多湿や水害に厳重に具えるあり方は、日本でこそ特に必要なことだった。
それに感化されたかのように、約二千年前の東夷では、食器までもが脚を付けた「高付き式」の
ものとされていたという。これは、朝鮮発祥どころか実は日本発祥で、それが朝鮮に輸出された
ものとすら考えられる。日本の弥生時代ごろにずっと箕子朝鮮と古代日本とは友好的な関係にあって、
共に民度を高め合っていたのではないかとすら考えられる証拠に、高付き式食器がなっている。
日本から
朝鮮半島へという
逆の発想はついに無いという訳か。
箕子朝鮮は日本人だったという
考えは、出てこないのかねwww
古墳という風習は
日本起源で、半島のあちこちで
類似品が見つかっているという
ニュースもあるが。
http://njtms.info/thread/7746...
朝鮮半島へという
逆の発想はついに無いという訳か。
箕子朝鮮は日本人だったという
考えは、出てこないのかねwww
古墳という風習は
日本起源で、半島のあちこちで
類似品が見つかっているという
ニュースもあるが。
http://njtms.info/thread/7746...
ヘン豆という独特の食器文化が、日本と朝鮮を含む古代の東夷には見られる一方、
東夷に隣接する中国社会では見られない。似たような食器が南方でも用いられていたり
した所で、古代の日本と朝鮮が文化習俗を同じくしていたと考える妨げにはならない。
大体が、「漢書」における班固の東夷に関する記録姿勢からして、朝鮮と日本を明確に
分けているようではない。殷の箕子が朝鮮に移封された結果として、朝鮮を中心とした
東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に書いているように見える。
(ただし、徳化が日本にまで及んでいたという明確な記述まではない)
>>25
倭人が自分たちから朝鮮を脅かし始めたのはもっと後代の話、それこそ古墳時代以降のこと。
本来、日本と朝鮮の間に明確な区切りなどはなかったのが、秦人による侵略で朝鮮が迫害を
被るようになった。それで朝鮮にいた古来の文化習俗の持ち主も日本に逃げ去ったが、
故郷の朝鮮が名残惜しくもあったために、日本独特の文化とも共に朝鮮に帰国することを企てたわけだ。
東夷に隣接する中国社会では見られない。似たような食器が南方でも用いられていたり
した所で、古代の日本と朝鮮が文化習俗を同じくしていたと考える妨げにはならない。
大体が、「漢書」における班固の東夷に関する記録姿勢からして、朝鮮と日本を明確に
分けているようではない。殷の箕子が朝鮮に移封された結果として、朝鮮を中心とした
東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に書いているように見える。
(ただし、徳化が日本にまで及んでいたという明確な記述まではない)
>>25
倭人が自分たちから朝鮮を脅かし始めたのはもっと後代の話、それこそ古墳時代以降のこと。
本来、日本と朝鮮の間に明確な区切りなどはなかったのが、秦人による侵略で朝鮮が迫害を
被るようになった。それで朝鮮にいた古来の文化習俗の持ち主も日本に逃げ去ったが、
故郷の朝鮮が名残惜しくもあったために、日本独特の文化とも共に朝鮮に帰国することを企てたわけだ。
「書経」洪範や「史記」宗微子世家に、箕子が朝鮮に移封されたという記事があるが、
ただそれだけで、箕子による東夷の徳化が成功していたかどうかまでは書かれていない。
「漢書」地理志の東夷の習俗にまつわる記録を見ることで初めて、
箕子の徳治が大成功を収めていたことが分かる。
「漢書」を飛ばして「魏志倭人伝」だけを読んでも、
倭人の貞淑な習俗が箕子の治世に由来するものだなどとは知れない。
鍵となるのは、やはり「漢書」の東夷にまつわる記述だ。
倭人の起源を探る上では、なぜか全くの無視の対象とされている、
旧箕子朝鮮付近の東夷の習俗にまつわる記録。
脱亜入欧の諭吉大好きな学者たちが、なぜか全くの無視を決め込む記録。
ただそれだけで、箕子による東夷の徳化が成功していたかどうかまでは書かれていない。
「漢書」地理志の東夷の習俗にまつわる記録を見ることで初めて、
箕子の徳治が大成功を収めていたことが分かる。
「漢書」を飛ばして「魏志倭人伝」だけを読んでも、
倭人の貞淑な習俗が箕子の治世に由来するものだなどとは知れない。
鍵となるのは、やはり「漢書」の東夷にまつわる記述だ。
倭人の起源を探る上では、なぜか全くの無視の対象とされている、
旧箕子朝鮮付近の東夷の習俗にまつわる記録。
脱亜入欧の諭吉大好きな学者たちが、なぜか全くの無視を決め込む記録。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/wakou123.htm...
上のサイトでは、魏志倭人伝における倭人の「大夫」という自称が、
秦代以降の土豪一般を指すような意味ではなく、「卿>大夫>士」という
周代の厳格な序列関係に即した意味で用いられていることを以ってして、
「周代に倭人が朝貢に見えていた」という「論衡」の記述を正当化している。
しかし、要するに倭人は「大夫」という言葉を本来の意味で用いていた
ということであって、別に「昔の慣習に倣っていた」というのではない。
「大夫」という言葉を土豪風情の呼称なんかに用いたりすることのほうが、
孔子や荀子のいう「名辞の乱れ」なのであり、倭人はただそのような
名辞の乱れを排して、「卿」にあたる親魏倭王の直属の配下としての
自分たちを「大夫」と自称していたのだとも考えられる。
ただ、そのような名辞の乱れから排して行こうとする謹厳実直なあり方からして、
箕子による徳治すらをも受けていた人々ならではの賜物であったとも考えられる。
倭人が周代に朝貢していた証拠というよりは、倭人が非常に高度な仁徳統治の
手法を身に付けていた証拠に、「大夫」という倭人の自称がなっていると
考えたほうが理に適っている。もしも倭人が太古の昔から中国本土にまで
頻繁に出入りしていたとしたなら、すでに名辞が乱されて、士大夫の
序列もさして重視されなくなっていた、春秋戦国時代の中国の
文化荒廃の毒気にもあてられていたに違いないから。
上のサイトでは、魏志倭人伝における倭人の「大夫」という自称が、
秦代以降の土豪一般を指すような意味ではなく、「卿>大夫>士」という
周代の厳格な序列関係に即した意味で用いられていることを以ってして、
「周代に倭人が朝貢に見えていた」という「論衡」の記述を正当化している。
しかし、要するに倭人は「大夫」という言葉を本来の意味で用いていた
ということであって、別に「昔の慣習に倣っていた」というのではない。
「大夫」という言葉を土豪風情の呼称なんかに用いたりすることのほうが、
孔子や荀子のいう「名辞の乱れ」なのであり、倭人はただそのような
名辞の乱れを排して、「卿」にあたる親魏倭王の直属の配下としての
自分たちを「大夫」と自称していたのだとも考えられる。
ただ、そのような名辞の乱れから排して行こうとする謹厳実直なあり方からして、
箕子による徳治すらをも受けていた人々ならではの賜物であったとも考えられる。
倭人が周代に朝貢していた証拠というよりは、倭人が非常に高度な仁徳統治の
手法を身に付けていた証拠に、「大夫」という倭人の自称がなっていると
考えたほうが理に適っている。もしも倭人が太古の昔から中国本土にまで
頻繁に出入りしていたとしたなら、すでに名辞が乱されて、士大夫の
序列もさして重視されなくなっていた、春秋戦国時代の中国の
文化荒廃の毒気にもあてられていたに違いないから。
削除(by投稿者)
古代の日本と朝鮮が文化習俗を同じくしていたと考える妨げにはならないが肯定もできないなぁ
俺にも東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に読みとれるが
あなたの言っている通りやはり徳化が日本まで及んでいたとも言えないね
もっと確たる証拠出してよ
俺にも東夷一帯が徳化されて、良質な文化習俗が育まれたという風に読みとれるが
あなたの言っている通りやはり徳化が日本まで及んでいたとも言えないね
もっと確たる証拠出してよ
倭人が良質な文化習俗を帯びていたという確たる証拠になる
最古級の文献は、あくまで「魏志倭人伝」だ。「漢書」はその倭人の習俗と、
後漢初期の「朝鮮一帯の東夷」の習俗が似通っていた文献上の証拠となるのみだ。
太古の昔、周代の頃から日本にまで箕子の徳化が及んでいたのかどうかは、
発掘調査で古代の朝鮮文化と、弥生時代の日本文化の共通性を確かめて行くしかない。
実際にそうだった可能性もあるし、箕子朝鮮時代にはまだ日本にまで徳化は
及んでいなくて、箕子朝鮮が滅んで後に古来からの朝鮮人が日本に亡命した
結果として、日本のほうが徳化された可能性もある。さらにその中間あたり、
大昔から倭国の徳化も進んでいたが、箕子朝鮮が秦に滅亡させられるに及んで、
「箕子一派」の本拠地が朝鮮から日本へと移行したのだとも考えられる。
最古級の文献は、あくまで「魏志倭人伝」だ。「漢書」はその倭人の習俗と、
後漢初期の「朝鮮一帯の東夷」の習俗が似通っていた文献上の証拠となるのみだ。
太古の昔、周代の頃から日本にまで箕子の徳化が及んでいたのかどうかは、
発掘調査で古代の朝鮮文化と、弥生時代の日本文化の共通性を確かめて行くしかない。
実際にそうだった可能性もあるし、箕子朝鮮時代にはまだ日本にまで徳化は
及んでいなくて、箕子朝鮮が滅んで後に古来からの朝鮮人が日本に亡命した
結果として、日本のほうが徳化された可能性もある。さらにその中間あたり、
大昔から倭国の徳化も進んでいたが、箕子朝鮮が秦に滅亡させられるに及んで、
「箕子一派」の本拠地が朝鮮から日本へと移行したのだとも考えられる。
古代だけでなく、上代やそれ以降においても、日本という国は、
箕子の政治理念に則った為政というものを心がけて来ている。
「平康なれば正直、彊にして友ならざれば剛克、燮友なれば柔克、沈潜なれば剛克、高明なれば柔克」
「平穏な世の中は真っ正直に治め、傲慢で睦みのない世の中は剛毅な力によって治め、
穏やかで睦みのある世の中は柔弱に治め、内に不穏さを隠し持っているような
世の中は剛毅な力によって治め、高潔で明白な世の中は柔弱に治める」
(「書経」周書・洪範より)
箕子が著したとされる「洪範九疇」の第六・三徳。
真っ正直な治め方(正直)と、剛毅な治め方(剛克)と、柔弱な治め方(柔克)で為政の均衡を取る。
古墳時代から飛鳥時代中期にかけて、大陸から秦氏の如きろくでもない渡来人が流入して来たために
大いに世相が乱れた。そのため中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変でその主犯格たる蘇我氏を滅ぼし、
秦氏の代表者なども遠国に追放したり下級官僚や被差別賤民に追い込むなどした。これが「剛克」。
大化の改新以降は段々と真っ正直な為政(正直)へと移行して行き、
それがほぼ完成すると(高明)、今度は平安時代の柔弱な治世へと移行した。これが「柔克」。
箕子の政治理念に則った為政というものを心がけて来ている。
「平康なれば正直、彊にして友ならざれば剛克、燮友なれば柔克、沈潜なれば剛克、高明なれば柔克」
「平穏な世の中は真っ正直に治め、傲慢で睦みのない世の中は剛毅な力によって治め、
穏やかで睦みのある世の中は柔弱に治め、内に不穏さを隠し持っているような
世の中は剛毅な力によって治め、高潔で明白な世の中は柔弱に治める」
(「書経」周書・洪範より)
箕子が著したとされる「洪範九疇」の第六・三徳。
真っ正直な治め方(正直)と、剛毅な治め方(剛克)と、柔弱な治め方(柔克)で為政の均衡を取る。
古墳時代から飛鳥時代中期にかけて、大陸から秦氏の如きろくでもない渡来人が流入して来たために
大いに世相が乱れた。そのため中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変でその主犯格たる蘇我氏を滅ぼし、
秦氏の代表者なども遠国に追放したり下級官僚や被差別賤民に追い込むなどした。これが「剛克」。
大化の改新以降は段々と真っ正直な為政(正直)へと移行して行き、
それがほぼ完成すると(高明)、今度は平安時代の柔弱な治世へと移行した。これが「柔克」。
しかし、荘園制の腐敗によって段々と不穏さを隠し持つような世相(沈潜)へと移行したため、
それを剛毅に治めるための武家が登場し、鎌倉時代以降は武家政権たる幕府こそが
実権を掌握した。これが「柔克」からまたもやの「剛克」への移行。
武家時代はおおむね剛克が主体を占めたが、末期の江戸時代にはほぼ治世も確立されたため、
柔克(元禄の為政)や正直(各種改革)も織り交ぜたような為政が執り行われることともあいなった。
世の中が不穏さを隠し持つようになり始めたと途端に、公家政権から武家政権へと転向したりする
変わり身の速さたるや、いつまでも王侯ばかりが実権者でいようとする中国などにはなかったことで、
それでこそ、日本人の民度の高さというものも保たれて来た。
漢書東夷伝や魏志倭人伝に見える、東夷全般に共通する厳罰志向も、箕子の為政における
「剛克」の名残りであった可能性が高い。ただそればかりではなく、「柔克」も用意している
あたりがただの酷吏志向などとは異なる。そしてその独特の政治手段を、この日本こそは
伝統的に実践し続けて来られている。明治以降は、まだそれも完遂されてはいないにしろ。
それを剛毅に治めるための武家が登場し、鎌倉時代以降は武家政権たる幕府こそが
実権を掌握した。これが「柔克」からまたもやの「剛克」への移行。
武家時代はおおむね剛克が主体を占めたが、末期の江戸時代にはほぼ治世も確立されたため、
柔克(元禄の為政)や正直(各種改革)も織り交ぜたような為政が執り行われることともあいなった。
世の中が不穏さを隠し持つようになり始めたと途端に、公家政権から武家政権へと転向したりする
変わり身の速さたるや、いつまでも王侯ばかりが実権者でいようとする中国などにはなかったことで、
それでこそ、日本人の民度の高さというものも保たれて来た。
漢書東夷伝や魏志倭人伝に見える、東夷全般に共通する厳罰志向も、箕子の為政における
「剛克」の名残りであった可能性が高い。ただそればかりではなく、「柔克」も用意している
あたりがただの酷吏志向などとは異なる。そしてその独特の政治手段を、この日本こそは
伝統的に実践し続けて来られている。明治以降は、まだそれも完遂されてはいないにしろ。
明治から戦前にかけては、まさに世界全体が帝国主義社会という
「傲慢で睦みのない世の中」であったために、日本も剛克たる軍国化で抗った。
しかし、それは最終的に失敗に終わり、日本は実質的なアメリカの占領下に置かれた。
帝国主義は表向き廃されたにしたって、決して今の世界が「平康」や「燮友」や「高明」
な状態であるわけではない。世界規模ではCIAのような諜報集団による水面下からの戦乱の
誘発がたびたび繰り返され、日本でも旧荘園領主であるような地主出身の政治屋などが、
巧言令色で民を欺きつつの腐敗まみれな虐政を繰り返している。この状態は明らかに
「沈潜」という状態であり、箕子の政治理念に基づくなら「剛克」で制圧されるべきものである。
世界にしろ日本にしろ、水面下からの腐敗に基づく不健全な社会情勢が続いている。
それは、日本なら平安末期以降の武家の台頭などによって十全に征討された試しのあることだが、
世界規模で見てみれば、そのようなショック療法的な対処が未だ試みられたようなことすらない。
平和といえば「沈潜」であって、秘密警察や諜報組織や政商が暗躍することで民の生活を
蝕んでいるような状態であっても、表向き紛争などが起こっていなければそれで「平和」だと
片付けられるのが世界の常識となっている。そこに「剛克」での対処を企てたりすることは、
腐敗まみれな権力者の立場などからこそ「余計なお世話だ」とされることとなっている。
それでもあえて、沈潜状態の世の中を剛克で征討するというのなら、その先には柔克や正直の
ような別個の対処法にも切り替えて行く用意をしていなければならない。いつまでも剛克でい続け
たりしたならば、ナチスドイツやその他の軍事政権のような様相をも呈してしまうこととなる。
箕子の為政の根幹はどこまでも「中正」であり、剛克も偏った世の中を中正に引き戻すための
手段として提示されているものであることを、重ね重ね計り知って行くようにしなければならない。
「傲慢で睦みのない世の中」であったために、日本も剛克たる軍国化で抗った。
しかし、それは最終的に失敗に終わり、日本は実質的なアメリカの占領下に置かれた。
帝国主義は表向き廃されたにしたって、決して今の世界が「平康」や「燮友」や「高明」
な状態であるわけではない。世界規模ではCIAのような諜報集団による水面下からの戦乱の
誘発がたびたび繰り返され、日本でも旧荘園領主であるような地主出身の政治屋などが、
巧言令色で民を欺きつつの腐敗まみれな虐政を繰り返している。この状態は明らかに
「沈潜」という状態であり、箕子の政治理念に基づくなら「剛克」で制圧されるべきものである。
世界にしろ日本にしろ、水面下からの腐敗に基づく不健全な社会情勢が続いている。
それは、日本なら平安末期以降の武家の台頭などによって十全に征討された試しのあることだが、
世界規模で見てみれば、そのようなショック療法的な対処が未だ試みられたようなことすらない。
平和といえば「沈潜」であって、秘密警察や諜報組織や政商が暗躍することで民の生活を
蝕んでいるような状態であっても、表向き紛争などが起こっていなければそれで「平和」だと
片付けられるのが世界の常識となっている。そこに「剛克」での対処を企てたりすることは、
腐敗まみれな権力者の立場などからこそ「余計なお世話だ」とされることとなっている。
それでもあえて、沈潜状態の世の中を剛克で征討するというのなら、その先には柔克や正直の
ような別個の対処法にも切り替えて行く用意をしていなければならない。いつまでも剛克でい続け
たりしたならば、ナチスドイツやその他の軍事政権のような様相をも呈してしまうこととなる。
箕子の為政の根幹はどこまでも「中正」であり、剛克も偏った世の中を中正に引き戻すための
手段として提示されているものであることを、重ね重ね計り知って行くようにしなければならない。
「邪馬台国という国がありました」
「卑弥呼という名前の女性が治めていたそうです」
「大陸からこのくらいの距離です」
これが何の証拠になるのですか?
書き手は、列島国の全体を俯瞰で見ることなどできなかった。
どこかの港で、「こんな国があるんだって」と聞いて
いそいで書き留めたのかもしれない。
それは全体ではないのかもしれない。
ごくちっぽけな国の、例外的な一時期の事象なのかもしれない。
>>1が
「東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た」といいますが
世界全体を、書き手は見ることはできません。航空機も人工衛星もない時代です。
ミクロを知って、マクロを言い当てられるわけではないのです。
箕子朝鮮という国そのものを否定するわけではないが
規模と存続時間がわかりません。
なぜなら主観と客観があやふやになった者たちが
伝言ゲームしている可能性があるのですから。
「卑弥呼という名前の女性が治めていたそうです」
「大陸からこのくらいの距離です」
これが何の証拠になるのですか?
書き手は、列島国の全体を俯瞰で見ることなどできなかった。
どこかの港で、「こんな国があるんだって」と聞いて
いそいで書き留めたのかもしれない。
それは全体ではないのかもしれない。
ごくちっぽけな国の、例外的な一時期の事象なのかもしれない。
>>1が
「東洋一(そしておそらく世界一)民度の高い人々が朝鮮に居た」といいますが
世界全体を、書き手は見ることはできません。航空機も人工衛星もない時代です。
ミクロを知って、マクロを言い当てられるわけではないのです。
箕子朝鮮という国そのものを否定するわけではないが
規模と存続時間がわかりません。
なぜなら主観と客観があやふやになった者たちが
伝言ゲームしている可能性があるのですから。
正史書の信用的価値を否定しようにも、
ほぼそこに書かれてある通りの遺跡が大量に発掘されているというね。
(箕子の朝鮮移封の記録も含めて)
ただ、伝聞の伝聞に基づくような記述の内に、多少の錯誤があったりする。
それこそ、マクロの内のミクロというもんでね。
ミクロの過ちを根拠にマクロの価値すら全否定しようとする
クソガキ然としたその態度が、他人にまで必ずしも通用すると思うなよ。
ほぼそこに書かれてある通りの遺跡が大量に発掘されているというね。
(箕子の朝鮮移封の記録も含めて)
ただ、伝聞の伝聞に基づくような記述の内に、多少の錯誤があったりする。
それこそ、マクロの内のミクロというもんでね。
ミクロの過ちを根拠にマクロの価値すら全否定しようとする
クソガキ然としたその態度が、他人にまで必ずしも通用すると思うなよ。
正史書は、国の正式な史書官が、国家の威信をもかけて、当時最高級の歴史資料や
見聞資料、その他公文書類などを縦横無尽に駆使することで編纂されるもの。
いち個人が私的に史書を編纂したりする場合と違って、マクロの様相はよく見えている。
だからこそ班固も「漢書」地理志中で、東夷の習俗が西南北その他の夷狄の種族と比べて
ずば抜けて優秀で、半ば中国本土以上のものであることすらをも指摘することができたんだ。
実際に、「史記」や「漢書」といった正史書を為政の参考ともすることで、
後漢や唐宋や、律令制度下や封建制度下の日本などが為政を成功させてもいる。
(日本の律令制度時代の文章博士及第のための受験科目も上の二書だった)
ただ編纂するだけじゃない、それを後世の為政のための温故知新の材料とも
してもらうために編纂されるのが正史書であるわけだから、生半可なことは書けない。
実際、慎重に慎重を期した記録に務められていたから、そのような正史書を
参考とした後世の国々が数々の政治的偉業を成し遂げて来られているのでもある。
見聞資料、その他公文書類などを縦横無尽に駆使することで編纂されるもの。
いち個人が私的に史書を編纂したりする場合と違って、マクロの様相はよく見えている。
だからこそ班固も「漢書」地理志中で、東夷の習俗が西南北その他の夷狄の種族と比べて
ずば抜けて優秀で、半ば中国本土以上のものであることすらをも指摘することができたんだ。
実際に、「史記」や「漢書」といった正史書を為政の参考ともすることで、
後漢や唐宋や、律令制度下や封建制度下の日本などが為政を成功させてもいる。
(日本の律令制度時代の文章博士及第のための受験科目も上の二書だった)
ただ編纂するだけじゃない、それを後世の為政のための温故知新の材料とも
してもらうために編纂されるのが正史書であるわけだから、生半可なことは書けない。
実際、慎重に慎重を期した記録に務められていたから、そのような正史書を
参考とした後世の国々が数々の政治的偉業を成し遂げて来られているのでもある。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bin/read/thought/1371364648/30...
「穢を起こして以って自ら臭るること無かれ」
「罪穢れを引き起こして、自らを腐らせるようなことがあってくれるな」
(「書経」商書・盤庚中より)
綿密に分析してみればしてみるほど、殷の治世こそは、古来からの
日本文化の雛形でもあるように思える。極度なほどの清浄主義で、
罪穢れが排されたところにある清浄さを尊び、そこでの祭政一致の為政を
執り行うとか、まさに日本神道(×国家神道)の原型でもあるように思える。
殷の為政が清浄主義に過ぎるからこそ、中国本土では紂王による暴虐を皮切りに
同様な為政が衰えて、春秋戦国時代には一旦完全に絶やされるまでになった。
どんなに覇道を志した所で、所詮は小さな島国での小競り合い泊まりに終始する
日本という国の矮小さがかえって、殷代中国級の清浄な文化を保つことにも貢献した。
日本人が「倭人」という蔑称をそこまで嫌がらない理由も、そのあたりにあるのだろう。
「穢を起こして以って自ら臭るること無かれ」
「罪穢れを引き起こして、自らを腐らせるようなことがあってくれるな」
(「書経」商書・盤庚中より)
綿密に分析してみればしてみるほど、殷の治世こそは、古来からの
日本文化の雛形でもあるように思える。極度なほどの清浄主義で、
罪穢れが排されたところにある清浄さを尊び、そこでの祭政一致の為政を
執り行うとか、まさに日本神道(×国家神道)の原型でもあるように思える。
殷の為政が清浄主義に過ぎるからこそ、中国本土では紂王による暴虐を皮切りに
同様な為政が衰えて、春秋戦国時代には一旦完全に絶やされるまでになった。
どんなに覇道を志した所で、所詮は小さな島国での小競り合い泊まりに終始する
日本という国の矮小さがかえって、殷代中国級の清浄な文化を保つことにも貢献した。
日本人が「倭人」という蔑称をそこまで嫌がらない理由も、そのあたりにあるのだろう。
万年属国で文化も文明もない民族の嫉妬は恐ろしいなw
約2千年もの間、独立主権国家を築き独自の文明文化を持った民族が
そんなに羨ましいか?
http://www.news-us.jp/article/357188832.htm...
これが事実だと知ったら…
頭もおかしくなるわなw
約2千年もの間、独立主権国家を築き独自の文明文化を持った民族が
そんなに羨ましいか?
http://www.news-us.jp/article/357188832.htm...
これが事実だと知ったら…
頭もおかしくなるわなw
「魏志倭人伝」の倭国の官制にまつわる記録に「刺史の如きあり」とある。
刺史とは、前漢の武帝の代に初めて置かれた地方監察官のことで、その監察
によって官吏と豪族などの癒着による政治腐敗を防ぐために設置されたもの。
朝鮮北部が正式に前漢の一部となったのも、武帝の代。
三国時代の日本はまさにその武帝の頃の官制にこそ倣っていて、
これも一つの、箕子朝鮮と古代日本の共通性を知る手がかりとなっている。
しかも、日本は刺史(州牧とも呼ばれる)に相当するような
官職を「目付」などとして、武家時代にまで温存し続けていた。
中国本土では北宋の代に刺史に相当するような監察官は排されて、官吏と富豪
との癒着による大腐敗を招き始めているのに、日本では、箕子の為政の潔癖さにも
倣ってか、刺史と同等の職務である目付を江戸時代まで重用し続けていたのだった。
日本の政治は古代から近世まで一貫している所があって、しかもそれは洪範九疇のような
殷代中国の政治手法にも深く根ざしている。さらには、前漢武帝の代に設置されたよき
職制をも柔軟に吸収して自分たちのものとする臨機応変さまで兼ね備えていたわけで、
ただ形式的な伝統を守るというばかりではない、その精神の根幹的な部分こそを
継承して行こうとする滋味が昔から日本にはあったらしいことがうかがえるのである。
刺史とは、前漢の武帝の代に初めて置かれた地方監察官のことで、その監察
によって官吏と豪族などの癒着による政治腐敗を防ぐために設置されたもの。
朝鮮北部が正式に前漢の一部となったのも、武帝の代。
三国時代の日本はまさにその武帝の頃の官制にこそ倣っていて、
これも一つの、箕子朝鮮と古代日本の共通性を知る手がかりとなっている。
しかも、日本は刺史(州牧とも呼ばれる)に相当するような
官職を「目付」などとして、武家時代にまで温存し続けていた。
中国本土では北宋の代に刺史に相当するような監察官は排されて、官吏と富豪
との癒着による大腐敗を招き始めているのに、日本では、箕子の為政の潔癖さにも
倣ってか、刺史と同等の職務である目付を江戸時代まで重用し続けていたのだった。
日本の政治は古代から近世まで一貫している所があって、しかもそれは洪範九疇のような
殷代中国の政治手法にも深く根ざしている。さらには、前漢武帝の代に設置されたよき
職制をも柔軟に吸収して自分たちのものとする臨機応変さまで兼ね備えていたわけで、
ただ形式的な伝統を守るというばかりではない、その精神の根幹的な部分こそを
継承して行こうとする滋味が昔から日本にはあったらしいことがうかがえるのである。
日本人の民度の高さの起源こそは、
今の朝鮮人の民度の低さの起源でもある。
>>17の「漢書」の東夷の描写の通り、箕子の治世の威風を残していた頃の朝鮮は、
あまりにも人々の民度が高かったものだから、誰しもが夜中に戸締まりすらせずに
いることができた。それに目を付けた中国本土のならず者どもが徐々に朝鮮を
蝕んで行って、今ではほぼ完全にならず者の末裔ばかりで朝鮮が占められることとなってしまった。
始めは本当に、今の在日朝鮮人のような少数派だったに違いないが、
夜盗押し込みもやりたい放題であることに味を占めて勢力を拡大させ、
しまいには朝鮮全土を乗っ取ってしまった。だからこそ、朝鮮こそは、
国民のならず者純度が極度に高い地域とも化してしまったのだ。
今の朝鮮人の民度の低さの起源でもある。
>>17の「漢書」の東夷の描写の通り、箕子の治世の威風を残していた頃の朝鮮は、
あまりにも人々の民度が高かったものだから、誰しもが夜中に戸締まりすらせずに
いることができた。それに目を付けた中国本土のならず者どもが徐々に朝鮮を
蝕んで行って、今ではほぼ完全にならず者の末裔ばかりで朝鮮が占められることとなってしまった。
始めは本当に、今の在日朝鮮人のような少数派だったに違いないが、
夜盗押し込みもやりたい放題であることに味を占めて勢力を拡大させ、
しまいには朝鮮全土を乗っ取ってしまった。だからこそ、朝鮮こそは、
国民のならず者純度が極度に高い地域とも化してしまったのだ。
笠地蔵は池沼 相手しないで下さい
笠地蔵のアホは放置してマジレスすれば
神道、アニミズムに根ざす「おてんとさまが見てる」といった
日本人なら誰しもあるような感覚がその根本原因。
ここを理解しないと、トンチンカンが日本理解になるわけだ。
ズルやウソをやることに抵抗がどうしてもあるのが日本人の精神性。
「誰もみてねーや、ズルしよっ!」と、万物に霊性があり、おてんとさまが見てるわけで
できんわけだ。これこそが日本的モラルの底流に流れるもの。
神道、アニミズムに根ざす「おてんとさまが見てる」といった
日本人なら誰しもあるような感覚がその根本原因。
ここを理解しないと、トンチンカンが日本理解になるわけだ。
ズルやウソをやることに抵抗がどうしてもあるのが日本人の精神性。
「誰もみてねーや、ズルしよっ!」と、万物に霊性があり、おてんとさまが見てるわけで
できんわけだ。これこそが日本的モラルの底流に流れるもの。
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