文禄・慶長の役総合


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001 2011/04/06(水) 16:00:43 ID:qpFea/U0/M
戦国オールスターズが大陸へ打って出てドンパチやった大戦争、
文禄・慶長の役について自由に語ろう。

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002 2011/04/06(水) 20:00:02 ID:krv8Kyxhbg
秀吉は小田原征伐に25万、九州征伐に20万なのに明にはたったの15万(兵士は10万以下)
で攻めてほぼ圧勝…つよすぎ。

秀吉軍以前に大陸渡ったら加藤清正に誰一人敵わなかったんだからなぁ
明も朝鮮もその後明を滅ぼした女真族もフルボコにしておまけに虎まで倒した。

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003 2011/04/06(水) 20:44:06 ID:qpFea/U0/M
確かに戦闘ではほとんど勝ってるけど
戦略的には破綻してたからなあ

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004 2011/04/06(水) 21:33:52 ID:G.hmvX39Y2
中朝に対する離反工作が上手くいってなかった時点で無茶の塊だったね

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005 2011/04/07(木) 09:13:53 ID:NeUl3sLv7U
朝鮮の弱さは特筆に値するな。

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006 2011/04/07(木) 14:09:42 ID:gayPyX3NQg
陸続きの後金ですら明を滅ぼすのに20年かかってるのに
秀吉軍が大陸でたかが数年戦ったくらいで実のある戦果を挙げるのは時間的に無理だったろう。

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007 2011/04/09(土) 09:02:15 ID:fi5XTdJdi2
>>3
そんなことないでしょ

文禄の役では、圧勝ゆえにイケイケドンドンで攻め込みすぎて兵站が延びきって寒冷と補給おっつかずで痛い目にあったが
慶長の役では、南朝鮮に倭城と呼ばれた日本式の築城をたくさんおこない、もうおいそれと明軍が奪還できない状況になってた。
そのうえ、これまでのは先発隊というべきで、九州では、伊達、徳川の本体とも言うべき大軍が渡航待ち。

秀吉があと3年生きてただけで、明は滅びた可能性が十分あるだろう。
明の首都って北京だし、国境越えたらすぐ眼前。北京が落とされて皇帝が捕虜とか、捕虜でなくとも明崩壊なんてシナリオは十分ありえたと思う。

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008 2011/04/09(土) 14:50:31 ID:0KiesDr/ls
>>7
半島を手にしていたとしても後金と明を相手にする事になって遼東付近でにらみ合いになり逆に明の寿命が延びるだけ

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009 2011/04/09(土) 16:14:06 ID:3foqkr0gTo
>>8
にらみ合いにはならんでしょ。一気に北京落として明朝終わり。
その後日本側が北京をずっと維持できて、中華を支配していけるかってのは別の話しだけども
北京陥落自体は、秀吉がもうちょい生きてりゃなってただろう。
そもそも最初の文禄の役ですら北京に迫ろうかという勢いで一気に攻めあがったわけで、伊達、徳川といった本隊が上陸すれば、倭城もあるし、
北京は地理的に言って落とされるだろう。

漢民族が軍門に下るかは別の話しとしても、明朝に関しては滅びた可能性が高いのではないか。

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010 2011/04/09(土) 17:39:47 ID:4pb/VdrMbc
>>7
言葉が足りなかった。戦略が破綻してたっていうのは主に文禄の役のことね

ただ北京をそう簡単に落とせたかどうかは疑問に思う
あの状態で、北京に至るまでの長大な補給ルートをどう維持するのか、とか
兵士たちの厭戦気分や国内の人々の不満をどう解消するのか、とか

軍事史ではどんなに軍隊が強力でも、現地に協力組織を得られなければ
外征は失敗すると言われてるらしいからね

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011 2011/04/09(土) 19:20:41 ID:S98y0iRXTw
朝鮮義勇兵のゲリラ戦法で、補給線をズタズタにされていたのに、
どうやって北京までいくんだよw

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012 2011/04/09(土) 19:22:12 ID:0KiesDr/ls
>>9
文禄の時点で既に女真族とも戦闘しているだけに、慶長の時に遼東方面まで侵攻していたら
満州と国境を長大に接することになり、広い範囲で報復戦を展開された可能性の方がありえる
個人的な恨みがありながらもヌルハチは明に対して同盟の提案も一度やっているだけに、仮に北京に迫る勢いだったとしても
今度は明から後金に対する同盟案が出ていた可能性もあるので尚更明攻略は難しい
ヌルハチと敵対してしまっている以上、満州攻略無しに北京陥落を語るのは無理無茶無謀の三拍子以外の何物でもない

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013 2011/04/09(土) 20:33:19 ID:DiCyWNwz6A
>>10
前回の反省から慶長の役では城を作って着実に進軍しようとした。
>>11
ゲリラになったんじゃなく日本と明双方から略奪され乞食になった連中が暴れただけ
>>12
加藤清正に負けた女真族とその他の諸大名に負けた明と乞食の朝鮮でどうやって勝つの?
秀吉軍の最大の課題は北京落とした後ちゃん統治できるかどうか。
間違いなくあちこちで反乱起こるだろうね、日本には外国を統治した歴史がそれまでないし。

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014 2011/04/09(土) 21:12:47 ID:0KiesDr/ls
>>13
地続きで二正面作戦を強いられる時点でいくら遠征軍が強くて戦術的勝利を重ねても、戦略的にはまず勝ち得ない
ドイツ軍が東西に戦線を広げ過ぎて首が回らなくなったように、渤海から遼東までを守りつつ北京に侵攻するのは補給線の長さから言っても不可能
モンゴル方面の北元に対して軍事的な働きかけも一切やっていない状況で、日本一国でやれる事は限りなく少ない

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015 2011/04/09(土) 22:07:42 ID:4pb/VdrMbc
女真族に勝ったといっても、清正のオランカイ侵攻は小競り合い程度だし
戦った相手はヌルハチではなく、ヌルハチと対立していた野人系の女真族

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016 2011/04/09(土) 23:35:08 ID:S98y0iRXTw
>>13
都元帥 権慄の活躍は?蔚山の戦いは?
来島通総が死んだ鳴梁海峡海戦は?
明・朝鮮を必要以上に過小評価しすぎ。

あと、北京まで日本軍がいける訳ないだろw
秀吉の生前にも関わらず、渡海軍の戦線が半島南部に留まりなおかつ、
その戦線も現地軍は縮小(順天、梁山の放棄)していたのは何故なんだよ。
そして加藤清正と小西行長が独断で和平交渉した訳は?
説明してくれ。

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017 2011/04/10(日) 01:11:25 ID:0ai/0tYtLs
>>16
なにそのマイナー武将は?

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018 2011/04/10(日) 01:48:39 ID:m1gvCNeaLU
>>16
そら簡単な話。日本の先発隊の人数より、明軍のほうがはるかに大軍だったから。
それでも倭城のせいで、拮抗してるしまつ。
本隊は、九州で渡航直前の伊達軍、徳川軍でしょ。

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019 2011/04/10(日) 02:53:48 ID:y8eqK.iDxs
コテハンが文禄・慶長の役を出汁にして中朝を貶したいだけってのはよく分かった

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020 2011/04/10(日) 05:37:50 ID:1ALzu0JE.c
文禄・慶長の役って、結局七年かけて戦略目標を達成していないわけだよね?
それも日本の(ほぼ)総力を注ぎ込んで。
大失敗じゃん。
まあ秀吉がボケてたんだろうけど。
あんまし自慢出来る戦争じゃないよね。

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021 2011/04/10(日) 11:08:44 ID:gWMSgDFS.E
戦争が長びけば長びくほど日本が不利になってくる
日本は武将同士連携とれてないし
当然物資の補給路の確保も難しくなる

秀吉が生きていても明征服は無理と思う
本宮の漫画のように簡単にはいかんよ

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022 2011/04/10(日) 11:49:32 ID:2Nx4VKmwqY
>>21
逆じゃない?
その文禄で経験から補給や、築城の重要さを踏まえて
慶長ではその下準備は先発隊がやって、いよいよ本隊ってとこでしょ、あれ。
むしろ補給経路はあとになるほどそれまでを踏まえて準備できてくるもんだと思うが。

>>19
別に俺中国嫌いでも韓国嫌いでもないよ。

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023 2011/04/10(日) 13:27:21 ID:RM4b0r786c
>>20
でも、もしこの戦役がなかったら
「戦国戦国言っても島国で内戦してただけだし日本弱いよねw」て風潮になってたと思う
アジアの超大国である明と互角以上に渡り合ったことで戦国日本の実力が証明されたと

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024 2011/04/10(日) 17:08:38 ID:Y1N5lJUCxc
>>22
だから北京までどうやって補給線を維持しながら侵攻すんだよって聞いてんだろ
一番の肝になる部分を無視して「本隊が来たら勝ってた」でごり押すつもりか
本隊が来たらさらに物資の確保が難しくなってたんだぞ

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025 2011/04/10(日) 17:32:03 ID:ZZYU1S9tIM
>>24
じゃあさ、日中戦争のとき、南京まで日本軍は
侵攻したわけだが、状況は同じじゃないの?
それなりに、進軍のルートを決めて補給も整える
だろうと思うので、時代は異なるが、南京にはできて
北京にはできないとは思わないな・・・

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026 2011/04/10(日) 18:39:16 ID:gWMSgDFS.E
>>22
遠くなればなるほど補給、築城は難しくなる

>下準備は先発隊がやって、いよいよ本隊
だから、統制がとれていないのでそれもうまくいくわけがない

>>25
何百年もたってるのに状況は同じなわけない

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027 2011/04/10(日) 18:52:48 ID:TgMhRIzd7g
後世から観ると、朝鮮出兵も太平洋戦争も同じなんだよなw
最初はすげー勢いなんだけど、中盤からgdgd、後半はボロボロ。

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028 2011/04/10(日) 19:47:15 ID:ZZYU1S9tIM
>>26
軍隊のの傭兵とか戦略は今も昔も殆ど変らんよ・・・
昔は劣っていたという偏見から抜けたほうがいいかと・・

昭和の陸軍も単発式の銃で、戦国時代の
火縄銃とさほどの差はないし・・・

普通の喧嘩でも、今と昔で違いがあるわけでもなし・・・

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029 2011/04/10(日) 19:47:31 ID:Y1N5lJUCxc
>>25
同じってどの辺が?

南京攻略時は制海権の掌握と対ソ連への抑えとしての満州国の存在があった
文禄慶長は制海権の掌握は完全に出来てないし満州は国境を接したら敵対していた可能性が高く、補給線の維持は是が非でもしなければならない
北は女真、北西にモンゴル、西に明の状況で補給線を維持出来て侵攻する体力があって北京まで行く勢いがあったのなら
文禄の時点でさっさと北京落としてたはず
それが出来ていなかったということはつまりそういうことなんだよ
戦略的な無茶を戦術的大勝利でカバーしようとしてたんだから、最前線の連中はすごいよな

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030 2011/04/10(日) 19:58:48 ID:ZZYU1S9tIM
>>29
ソ連は少なくとも関係ないじゃない・・・
文禄慶長の役の時代にさ・・・

長期戦で挑めば、失敗もあったろうが、
北京まで行けたに一票!!

それに、確かこの時代、明も女真とかと敵対して
戦ってたんじゃなかったか?
この時代の明の将軍が、万里の長城を補修拡大してたはずだ・・
日本側にとって女真族が敵対する可能性もあるが
明にとっては女真族は完全な「敵」じゃないよ・・・
日本側にとって脅威なら明にとっても脅威でしょうが・・・

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031 2011/04/10(日) 20:32:52 ID:Y1N5lJUCxc
>>30
日中戦争の話を自分からしといてソ連を持ち出したら関係ないとか馬鹿かお前

大日本帝国にはソ連が、豊臣遠征軍には女真という目の上のたんこぶがあった
ご破算にはなったが、文禄の時点で清正が女真族の一部と戦闘を始めた事でヌルハチが中朝に対して支援を申し出ている
戦況次第では連合が成立していて包囲網が敷かれていた可能性は非常に高い
敵対していた明と女真もその辺のやり取りをしていたのだから豊臣軍が相当な脅威だったのは間違いない
ただ、歩兵主体の豊臣軍が満州遠征をしても無駄に疲弊するだけであり
かと言って遼東以西を攻めたら後金軍の横殴りを警戒せにゃならん
それでも北京まで行けるって根拠無く言い張るんなら、まぁ好きにしてくれよ

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032 2011/04/10(日) 21:20:07 ID:0ai/0tYtLs
>>31
いや、いけたんじゃね?
所詮朝鮮人も中国人も、勝ってる方に貢ぐんだからさ
戦術的勝利を重ねていけば、兵站は崩壊しない

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033 2011/04/10(日) 23:30:13 ID:gWMSgDFS.E
>>28
いや、大きな違いがある
「情報」だよ
当時の明の情報なんて聞きかじり程度しかわからんだろ
しかし、日中戦争時は正確な地図もある
情報量がまったく違う

武器に関して変わらんと言うのなら
明治維新のときに戦国時代の武装のままで
新式の軍隊に対抗できたということになるが?

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034 2011/04/10(日) 23:35:22 ID:.JMtBKJQ0c
>>15
加藤清正は総勢2万の内1万でオランカイで暴れてヌルハチが中の悪い明と一緒に戦うと泣きついてる。
加藤清正1万で明に泣きついてるようじゃ日本に勝つのは無理がありすぎる。
>>16
>>明・朝鮮を必要以上に過小評価しすぎ。
文禄の役は日本側がバラバラに戦い(それでもほとんど勝ってる)日本、明が朝鮮半島での略奪が朝鮮半島を荒廃させて食料の現地調達が出来ず飢えで苦しんだ。
講和を結ぶのはには双方にそれをさせる条件がないと無理、明は秀吉軍に苦戦し秀吉軍は飢えに苦しんで双方講和に進んだ。
慶長の役では進軍より物資の輸送重視して中継地として倭城築きつつ進軍する。
朝鮮水軍は文禄の役では見方の抜け駆けで壊滅できなかったが慶長の役では漆川梁海戦で朝鮮海軍を壊滅している。
明を過小評価するつもりはないが朝鮮は海賊に毛の生えた程度しか活躍してないだろ。
万年属国の唯一の英雄は撤退中の敵を攻撃して死んでますw

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035 2011/04/11(月) 00:40:58 ID:.idK2gf8DE
>>31
おい、言葉に気をつけろよ、ネット番長!!!

日中戦争って言ってるのに、お前が、ソ連とか頓珍漢なこと
言い出したんじゃねぇか!!!
日中戦争ってどことどこが戦ってる?
日本と中国だろ!!!
どっちが頓珍漢だ?あん??

人の批判する前に、自分の書いた書き込みをよく読んでみろ!!
この、マヌケ!!!

しかし、その後も戦い続けて、明を制圧出来たかと言えば、永遠に謎だな・・
それを面白がるスレで、意見が異なるからって、人を罵倒するなよ・・
バカじゃねぇの?

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036 2011/04/11(月) 01:19:04 ID:EBieUPHuu6
>>35
きゃーこわい

戦争で当事国間しか語らないのは馬鹿のする事よ
周辺や外交的な働きかけをした国も併せて語るもんだから、日中戦争でーす日本と国共しか語っちゃ駄目でーすあばばばば
というわけにもいかんでしょ
スウェーデン抜きで冬戦争の話をしたって意味がない
しかもそっちは話の本質じゃねぇし、いちいち絡まないでいただけますかね

何言おうが好きにすりゃいいと思うけど、「旗本つえーから!兵站とかも大丈夫だから!」なんて根拠も無く言うのはちょっと違うんじゃねーかな
地理的に言って長城のある明本国と何も無い半島では北方民族の侵入も過激になる
それを抑えつつ遼東へ侵攻するにしても、西と北の二正面作戦を跳ね除けて進軍するなんて近年のアメリカでもやりたがらない戦い方
戦術は申し分なかったんだから、戦略さえどうにかきちんとしてたら北京届いてたってーなら同意出来るんだよね
秀吉の生死にこだわり過ぎだと思う

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037 2011/04/11(月) 08:56:49 ID:GYwkar7J1s
>>34
ヌルハチは泣きついたというより明や朝鮮に付け入ろうとした
と言う方が的確じゃない?「倭人など海に叩き出してくれる」とか豪語してるし

まあ確かにこの頃の女真族なんて日本軍には勝てないと思うが

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038 2011/04/11(月) 09:57:28 ID:aQd5xHPlmc
>>26
>遠くなればなるほど補給、築城は難しくなる

それは少なくとも逆でしょう。
古今東西の侵略戦争では、苦労しながら最初苦戦しつつ、補給路、陣地その他をちょっとずつ構築していって
あとになればなるほどインフラができてくるもんで。

インパールでもそうだし、日露戦争でもそうだし、そういうもんでしょ、普通。
その最初のインフラ作りに多くの血を流しながらやるってのはあたりまえじゃん。
んでそういうインフラ整備を先発隊が苦労しながらも整えつつあったんだから、その考えは違うと思うよ。

もう戦費が無いってならそこで頓挫だろうけど、日本軍の場合、まだまだ送れる能力あったわけだし、インフラ整備事業はまだまだ秀吉死んでなけりゃ継続できたわけじゃん


要するに、秀吉が死んだ→戦国の定番、跡目争いの準備にかからにゃまずいかも!!
…ってのが経験則で武将らにはあるから、朝鮮どころじゃないってことなんだと思う。
信長死後に秀吉が跡目になった流れに限らず、主君が死んで、さらにまともな後継者もまだ居ないんじゃ、当然跡目巡って一波乱あるで〜というのは思うだろうし。出遅れたらまずい。

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039 2011/04/11(月) 10:02:41 ID:aQd5xHPlmc
>>25
点では制圧はできるでしょね。面ではできないかもしれないけど。
結局ヌルハチや遊牧民の北京落としとかの歴史もそういうことだし。

そういう意味で、中華支配は別だけど、明滅亡は十分考えられる展開だと思うね。

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040 2011/04/11(月) 10:56:28 ID:.zRJdKDjWI
>>38
補給線が伸びれば伸びるほど脆弱になるのは当たり前のことで
逆はありえない
だいたいあとになればインフラでてくるんだろ?
遠くなれば最初のほうは維持難しくなるってことだろ?
じゃあ、やっぱ遠くなるほど補給は大変じゃん

補給路を完全に征服してしまえば楽になるが、結局はそこが問題
おまえさんが>>39で書いてるように点でしかしか制圧できない以上無理

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041 2011/04/11(月) 13:38:45 ID:JA/iw9YpXM
さも当然のごとく言ってるけど、そもそも秀吉の狙いは明の滅亡と中華の制圧だったのか?

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042 2011/04/11(月) 15:59:52 ID:QziJpVfSbk
秀吉の目的としては、常に戦をしていなければ戦国時代の国家運営が成り立たず、外敵を求めたからだと考えるね。

日本軍が北京迄行けたかってことはわからないけれど、日本人そのものが遠征や長期の外国暮らしができる民族じゃないと思う。

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043 2011/04/11(月) 17:23:28 ID:WvImLu3HU.
この時代の下級兵士ですら海外で頑張ってきたというのにお前らときたら

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044 2011/04/11(月) 17:28:04 ID:JA/iw9YpXM
>>42
国内政策として太閤検地、私闘禁止令、刀狩、禁教令等等の平和政策を施行していることから
結果的に常に敵を作ることにはなってしまったものの、それが国家運営の根幹を成すと言うのは納得しがたい
ただ、知行・領土分配の問題が鎌倉幕府同様に政権運営を圧迫させていた側面もあるので
諸将の政権への不満解消を狙ったという点では
その答えが必ずしも的外れというわけでもないとも言える
最終的な目標としての明だったろうとは思うけど、それよりもまず半島の日本化が一番の目的だったのではなかろうかと思ったり思わなかったり

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045 2011/04/12(火) 01:36:44 ID:PDVPg0N0hQ
>>41
基本的にはそうでしょ。明に事実上の戦線布告してるわけだし。

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046 2011/04/12(火) 08:46:59 ID:a1iT7wHwAQ
明だけじゃない
インドの征服も目標だったぞ

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047 2011/04/12(火) 10:03:15 ID:SEhMJi/p5U
>>40
だから。倭城に、制海権にと、きちんとそうならないように、二度目はやっていってるわけじゃん。
何言ってんだよ、おまえは。

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048 2011/04/12(火) 10:30:58 ID:kRI5ljqR2M
たとえ倭城や制海権(日本海、黄海)を確保できても、朝鮮半島の様な細長い地域なら補給路の確保は出来ても、
中国東北部などの平地に出た場合線の確保だけではなく面の確保をしなければ、補給路はゲリラ化した反日本の勢力に寸断されなくても、維持にかなりの力を向けなければならなくなる。
その場合、日中戦争の日本軍は300万の人員と航空機や戦車、輸送車両を使って戦線を維持したけれど、
戦国時代にはさらに多くの人員が必要になるだろうけど、当時の日本ではそんな近代兵器はないので全て人夫と牛馬と大八車だろうから到底戦線を維持できなかったと思うね。

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049 2011/04/12(火) 14:49:43 ID:fQOtr1zEyA
>>45-46
その辺がイメージ先行になってて、いつの間にか都合よく明の征服をゴールに据えてる気がすんだよね
諸将の独断専行や対馬藩の情報改竄とか、外交戦略的に見るとあまりにもお粗末過ぎてどうも信用ならない
太平洋戦争だって陸軍と海軍の思惑が別だったにせよ、早期講和を狙う流れがあったことは理解出来るが
文禄慶長の役は着地点が最初っから最後までぼんやりしたまま終結した感じがあって、歴史家もその辺を
勘合貿易の復活や諸将の不満解消、又は有力武将の戦力削減と半島への左遷とか複合的に捉え過ぎてて
一体何が主目的だったのかいまいちはっきりしない
補給線についてはこれまでの話の通りで物資を本国から海上輸送する方法に頼らざるを得ない事から無理の塊だし
長期に渡って謀略と戦争を繰り広げてきたそれまでの流れを考えると、どうも「らしく」ないんだよね

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050 2011/04/12(火) 17:15:23 ID:WehuBkodQs
>>37
おっしゃるとおりだと思うけど明にはそのようなデカイ口叩いたのに加藤清正が引き返した後南下して攻撃してこなかったことを考えると結局ビビッてじゃないかな?
また進軍して攻められかもしれないのにね。

慶長の役では朝鮮海軍壊滅(文禄の役でも水路はちゃんと確保している)し、朝鮮半島の壊滅的な荒廃による食料難も倭城建築で中継地点を確保し進軍。
戦争中に城の建築は困難だけどきっちり実現してる。
加藤清正、島津義弘、小西行長と倭城建築中の戦闘で明の10万以上の大群に打ち勝った。
有利な状況と数的絶対有利な条件での敗北は明軍とってかなりショックで戦意喪失している。

泗川の戦い
島津義弘がたった7000弱の兵で明軍約4万を壊滅(敵軍の勢力は10万以上の説もある)
島津強すぎwww

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051 2011/04/12(火) 18:25:09 ID:fQOtr1zEyA
>加藤清正が引き返した後南下して攻撃してこなかったことを考えると結局ビビッてじゃないかな?

その見方は正しくない
威力偵察としてオランカイ侵攻した後、野人女真の度重なる襲撃と満州経由の侵入が難しいとの判断で撤退したわけだけど
女真サイドからすれば清正を追い返すことに成功したわけだから、改めて南下をする必要はない

あと基本的に時間は日本に対して味方しない
秀吉の死をターニングポイントと考えるなら、慶長の進軍ペースでは秀吉が何年生きながらえても時間が足りない
また、築城そのもので補給線の問題は解決出来ない
シベリア出兵でさえボリシェビキの協力があって補給が出来ていたわけで、日本単体で海を挟んで補給というのは無茶な話でしかない
結局現地の協力が無い時点で遅かれ早かれ撤退することにはなっていただろう

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052 2011/04/12(火) 20:51:40 ID:Gqoj38e0g6
>>47
おまえこそ何言ってんだ
倭城に、制海権ってそれは日本から近いからできただけ
半島までならなんとかなってもその後が無理って言ってんだよ
実際、冬になったからとかいって倭城まで撤退してるし

兵は強くても、半島でもたついてるんだから
明到達なんて無理無理

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053 2011/04/13(水) 03:38:56 ID:BEJzWRwdF2
>>51
満州経由なんて鼻から考えてないでしょ、2万の内1万を置いオランカイへ威力偵察しに行ったのにたった1万で満州経由で明へは有り得ない。
時間については同意、秀吉の最大の失敗は後継者問題このことで家康に持ってかれた。

>>築城そのもので補給線の問題は解決出来ない
確かに一番の問題は北京へ陸路のみでしか補給ができない(水路があればベストなんだけど
北京は無理、小田原城攻め時25万の兵糧は水路があってこそだと思う)

>>52
>>倭城に、制海権ってそれは日本から近いからできただけ
倭城建築を黙って見ていたのではなく大群で攻めてるよ(軍勢は諸説あり10万〜25万)
それでもフルボコ、更に強い諸大名(家康など)がまだ後ろに控えている。
>>兵は強くても、半島でもたついてるんだから
半島が荒廃してるので現地調達が不可能なのに急いでそのまま進軍したら文禄の役と一緒w
中継地点を築くしかない、問題はこの中継点できっちり補給路が確保できたかどうかが議論の中心で見方色々あります。
それと当時北京の城の防衛力と兵力がどれほどあるのか自分は知りたいですね
秀吉軍へ優秀な部隊を送り出しフルボコにされてるので首都には後どの程度兵力があったのか?
明史では明の方が勝ち目がなかったと書いてますけどね。

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054 2011/04/13(水) 07:50:41 ID:fIZL4.SvyQ
>>54
確かに、補給路が陸路だけでは補給がままならなかっただろうね。
明は広大な国土から民衆をかき集めて日本に対抗するだろうけど、その分農地が放置され
収穫が落ち込むし、反明の勢力を国内に生むことになるだろうから
日本としては時間がかかっても着実に地歩を固めて進軍できれば明崩壊を成し遂げられたかもしれない。
つまり、時間が問題だけど秀吉には寿命が来てたし、家康は秀吉が命令しても出兵したかどうか…
家康を関東にやらず、九州にやっとけば先発にできなかったかな?

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055 2011/04/13(水) 12:13:20 ID:Ttdpod6cbQ
>>53
>満州経由なんて鼻から考えてないでしょ

「満州は半島よりも広く食料の調達が難しいために満州経由の侵攻は無理」って報告書を出してるから、模索はしてたんだろうけどね

そもそもの明の動員可能戦力としては京軍12万と、予備部隊14万、辺境部隊7〜8万とあとは寡兵がいくらかプラスされて総勢40〜50万ぐらい
そのほとんどを長城付近で失うとして、実際に北京防衛にあてられるのは十分の一いかないぐらい
豊臣軍のキルレシオの高さから言って全然数が足りないんだけど、北京ほどの城塞を落とすなら最低でも月単位の包囲は必要だから結構粘れると思う

まぁ朝鮮出兵は開戦前の段階でベストな方向の話をした方が面白いと思うよ
開戦した時点で限界が見えてる分妄想を語るにしても同様に限界がある

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056 2011/04/13(水) 19:04:54 ID:/nOXI4vUU2
比較的豊かな朝鮮南部を確保してから
黄海を横断して山東半島あたりに上陸する
これだな

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057 2011/04/14(木) 20:39:19 ID:BYnpI4Fjf2
日明両軍の一大決戦となった碧蹄館の戦いは
川中島の戦いなどより評価されてもいいと思う

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058 2011/04/15(金) 11:45:12 ID:WqZV2yUkQQ
面での占領前提じゃなくていいでしょに。とりあえず北京潰したら統制ぐちゃぐちゃになるんだし。
あと、朝鮮半島は明にとっても外国であって、補給で続かないところがある。だからこそ略奪だなんだで補給してたわけで、半島という地の感覚がちょっと違うんでないか?
んでその明にとっても思うようにいかない半島から、目と鼻の先に北京なんて皇帝の居城があってしまうってんだから、防衛上欠陥がある。
ヌルハチなんかにあっさり潰された原因のひとつに北京のあまりにも無防備な位置というのがある。

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059 2011/04/15(金) 12:46:47 ID:Waly4I2nbk
半島は明にとっては半分ホームで日本にとっては完全にアウェイ
感覚がどうこうと言っても全体を通して見れば明は歓迎されてるし、日本は歓迎されていない
「半島」・「長城」・「中華の動員力」の三つが揃って北京防衛が成立してるわけだから別に欠陥はない
後金が北京包囲を成功させたのは呉三桂の裏切りと朝鮮の服属で上記の内の二つを失ったからであって、防衛上の欠陥を突いて成功させたわけではない
それとヌルハチは北京を落としていない、やったのはホンタイジだ
その辺の歴史をまるで知らんくせに知った風な事を言うんじゃない

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060 2011/04/15(金) 12:52:04 ID:Waly4I2nbk
ってここまで啖呵きっといて何がホンタイジやねん
順治帝だろうがw

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061 2011/04/15(金) 16:11:39 ID:DHCSJFjwLY
てか明征伐ってどう考えても国家的戦略のなかでやったってより
殿様から百姓にいたるまで、100年の騒乱の世に慣れてしまって力持て余した日本が
なんの計画もなしにとりあえず太閤から明に攻めるよう命令でてるけど、俺達としては別にいやじゃないし、とりあえずやっとかきゃみたいな感じで、戦いにしたっていつものノリで攻め込んで暴れ回ったって感じのほうが強い。

-以下実録資料-
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

日本人はよく刀槍を用いる。
我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。
そこで厚鉄を用い全身鎧を作り
この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。
取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、
これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。

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062 2011/04/15(金) 18:33:48 ID:U2r2.//I.E
>>55
なるほど勉強になりました。

>>58、59
女真族は東アジアの中では少数民族のほうでその割には結構強かったと思いますが
明を滅ぼしたのは運もあったと思います。
寧遼城、万里の長城と攻め倦んでいたけど結局明の内部腐敗、内乱、寝返りなど発生してあっさり北京を落としました。
平地では明10万に打ち勝ったけど城攻めは苦戦してますね。
女真族の支配によって朝鮮は王様が土下座させられて石碑まで建てられてしまったが、明(漢民族)は辮髪(簡潔に言えばモンゴルマン)させられてしまいました。
朝鮮は石碑が残ってるので永遠に恥をさらし、漢民族は支配された期間恥をさらした。
どっちがいいのかなw?
>>61
秀吉が一番底辺から一国の頂点まで登りつめることが出来たのはあらゆる才能に長けていた
からでしょう。
突然おかしくなったなんて言ってるのは秀吉の偉大さを知らない無知な人では?
自分は明を狙ったのは当時日本に来ていたスペインの影響ではないかと見てます。
信長、秀吉とも外国人の渡来によって当時普通の日本人とは別の世界観と尺度で見ていたと思います。

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063 2011/04/15(金) 18:51:44 ID:fks/gghtng
盛り上がってるな・・・

好きな人が結構いるんだねぇ〜
しかし、否定派が多いよ・・・
まぁ、ヨーロッパの百年戦争みたいなもので、
確かに、大陸に面した島国が大陸に進出するのは
難しいのかもしれんね・・・
でも、面白いので、秀吉がその後長く生きたとしたら、
ある程度の占領は出来たと思いたいね。
その方が、仮定の話として面白いじゃん・・・

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064 2011/04/16(土) 21:29:03 ID:awC7BojXxI
「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった

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065 2011/04/17(日) 20:27:28 ID:KCeC3BYveI
>>63
>まぁ、ヨーロッパの百年戦争みたいなもので、
>確かに、大陸に面した島国が大陸に進出するのは

英仏戦争の事か?それならあれは「フランス王 vs フランス諸侯」だよw
英が大陸領を失ったのはひとえに、代々の仏王が国内/軍事改革を進めてた結果だ。
どこぞの独裁者が作った、5奉行5大老()なんていう酋長会議と一緒にはしないようにね。

>>64
ヒント:明史は誰が作ったでしょうか

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066 2011/04/17(日) 20:52:39 ID:rejwvkHaH2
>>65
何を言っているのかよくわからないな・・・
イギリスとフランスの戦争で、イギリスが
結果として負けたのは、フランスが国内軍事改革を
進めた結果??

軍事改革って具体的に説明してくれ・・・
軍事的な常識として、「上陸作戦」が一番困難なのは
周知の事実。補給するのも大変な手間がかかる。
イラク戦争でも、米軍は陸軍を進めることに多大な
心配をしいていた・・・
そのことを言ってるだけなんだが・・・
海を挟んで責めるのは不利、なのは当たり前でしょ。
城の籠城戦でも、川や堀があるだけで攻めるのが
途端に難しくなるんだから・・・

イギリスは、ナポレオンのように大陸を支配した歴史的
事実がないことを言いたかっただけなんだが・・・

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067 2011/04/17(日) 21:58:53 ID:rejwvkHaH2
明史を編纂を命じたのは清朝らしいが、
実務は役人で、漢民族(明時代の人と同じ民族)、
明時代から残っている明の歴史書を集めて編纂
したらしいが、

何か??

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068 2011/04/17(日) 22:23:31 ID:Pylmo3PDPU
>>65
もっと議論を楽しめよ

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069 2011/04/17(日) 23:39:47 ID:KCeC3BYveI
>>66
>イギリスは、ナポレオンのように大陸を支配した歴史的
>事実がないことを言いたかっただけなんだが・・・

大陸の支配=強者じゃなだろw
シーパワーについて勉強してくれよ。

>軍事的な常識として、「上陸作戦」が一番困難なのは
>周知の事実。

それは近代の話だろw
当時の傭兵軍で沿岸防衛をしろと?財政破綻しますがなw
当時は補給の概念なんて無く、略奪でしたが何か?
それを米軍と比べられても・・・()

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070 2011/04/18(月) 00:05:43 ID:Ivrj.iGf6Y
>>65
明史は清の時代に書かれてますがどのような問題があるのでしょうか?
明は実際の戦闘でフルボコでして戦闘で勝つ見込みは全くないように思えますが
明史でもそのように書いてあって間違いがないと思います。

>>軍事的な常識として、「上陸作戦」が一番困難なのは周知の事実
近代はレーダー、通信、インフラ、移動用車両航空機列車の発達で困難ですが
昔は全く逆です。
陸続きの国は隣国の警戒を怠らず警戒してますので敵国が戦闘準備すればほぼ間違いなくばれます。
ですので防衛側は敵の進軍ルート上に砦を築き待ち伏せ出来ます。
よって攻撃側はその砦を突破しないといけないので防衛側より多数の兵力が要りこのことにより準備が大規模化し隣国にばれてしまい待ち伏せされてしまいますので陸続きの国での侵略は非常に困難です。
日本のような島国は何時何処から奇襲攻撃されるかわからないので防衛するのは困難です。
沿岸全てに防衛線をはるのは常識的に不可能なため。

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071 2011/04/18(月) 08:12:23 ID:MAalKZLsGk
昔も上陸作戦は難しいでしょ。
攻撃側は大兵力を一度に揚陸できるわけではない。
上陸海岸は砂浜が適してるけれど、小船しか接岸できない。
戦国時代は大型船は座礁するから沖で小船に乗り換え、上陸するわけだけど、
そんな時間があれば、防衛側は兵力を集中できるし。

上陸兵力が無傷ですむのは防衛側が小兵力すぎて、沿岸で防衛せず、砦に篭っての
防衛に専念したためでしょ。

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072 2011/04/18(月) 14:12:52 ID:KOO9eZY.ww
昔は上陸とか簡単だよ。
長大な沿岸地帯に見張りを置いても、見張りが敵を見つけて本陣に伝えるまでの時間と、本陣が敵の上陸点に到達するまでの時間
この往復時間に相当な時間がかかる。
騎馬兵だけの大軍団なんて世界的にもまず無い。歩兵や輸送班や色々な役目を持つものが組織化して一体となって動くから初めて戦闘ができるわけ。
上陸するほうは、敵の拠点や布陣状況をさぐりながら適当な無人地帯を選んで上陸すればいいだけ。
大軍で上陸するなら少数で迎える辺境警備の敵など相手にならない。

事実、朝鮮半島を例にだせば、沿岸地帯を倭寇に蹂躙されていた歴史がある。
倭寇の被害が深刻化し、それなりに備えをしていたにもかかわらず、少数の軍団である倭寇は、無人地帯でもない港湾都市を荒らしまわっていた。

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073 2011/04/18(月) 21:05:11 ID:RUXF8Qeo8U

秀吉以外にも日本を統一した人間はいたのになぜ大陸に出兵しなかったんだろう?

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074 2011/04/19(火) 20:12:53 ID:nHry4SfQ36
>>72
ではどうして元は日本に橋頭堡を築けなかったのか?

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075 2011/04/19(火) 22:59:56 ID:ac3Al7CMd6
>>74
ん? 別に橋頭堡が絶対必要ってわけじゃないし。。。
アホ?
もしかして女の子を落すにはまず薔薇の花を贈るみたいな人ですかね。

ま、元も普通に上陸してるし、博多だけじゃなくて長崎あたりまで一帯は侵入されてるよ。
知らないんだろうね。
物凄い数の船でやってきた元軍は、地形自体がちょうど大きな波止場のようになっていた博多湾をうめつくし、海の上を野営地のようにしていた。
日本がそれでも防衛ラインである筑紫野城より攻め入らせなかったのは、単純に当時の日本の軍事面がよく統制されていてしかも強かったとしかいいようがない。

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076 2011/04/19(火) 23:57:18 ID:Chlelz4Qsc
>>75
文永、弘安の役で3万と14万で攻めてるので橋頭堡なくして上陸作戦の成功なし。
じゃあ何故絶対必要か?
何万もの兵士の食料は大型船で運搬可能だけど問題は「飲み水」現在みたいに
ペットボトルがないので水にばい菌が増えて飲めなくなってしまうので上陸して
橋頭堡を確保し飲み水を確保しないと兵士が死んでしまう。

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077 2011/04/20(水) 05:52:04 ID:GuNvVTIAfI
漢民族の歴史は周辺民族に支配されまくりの歴史
日本が支配できた可能性は十分にあったんじゃ?

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078 2011/04/20(水) 21:41:31 ID:XIOA010EsQ
>>76

船に乗ってる間はどうなってるんだよ笑

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079 2011/04/21(木) 00:57:56 ID:HCcYzyfkwU
>>78
一瞬で飲めなくなるわけないだろw
時間とともに不衛生になるから上陸して水を確保しないといけないけど
弘安の役では上陸できず逃げ回ってたので病気が蔓延した。

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080 2011/04/21(木) 21:06:46 ID:dR2cdKE/GE
>>79
違う違う
船に乗ってる日数は数日〜数週間だろう?
それと比べて橋頭堡をだけを確保している時間はどれくらいだと思う?

明らかに、上陸して橋頭堡のみ維持している時間が少ないんだよ
後詰が上陸していって占領地を広げていくか、敗退して撤退していくかはすぐ決まる

それなのに水資源だけが原因で橋頭堡ってのは無理がある

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081 2011/04/23(土) 20:03:27 ID:oOsZIo2Mkc
>>80
>>後詰が上陸していって占領地を広げていくか、敗退して撤退していくかはすぐ決まる
旅行に行ってるのではなく戦争してるんだよ。
1回目4万、2回目14万の大群で侵略して安全な上陸場所(橋頭堡)なくしてどうして占領、撤退ができるのかね?

上陸成功そして更に進行する場合
兵士、物資の輸送上安全な上陸場所がないと4万更に14万といった大群は一気に上陸できない上陸場所によっては数日かかる場合もある。

上陸成功するが敗退して撤退する場合
大群で撤退する場合当然時間がかかるので敵はここぞとばかり攻めてくるから当然安全な上陸場所である橋頭堡(砦を築き防御にあたる)がないと全滅。

文永の役は浜辺をこえて少し進軍したら1000いるかいないかの武士に苦戦して1泊もせず夜逃げ、橋頭堡築くどころではなかった。
弘安の役は浜辺の防塁を1日攻めてフルボコでにされ小島を転々として逃げて平戸島に集結して嵐で逃げる船すらなくなり壊滅。橋頭堡どころか浜辺しか進軍できず。

>>水資源だけが原因で橋頭堡ってのは無理がある
水だけでなく戦略上絶対必要、水だけと思われたのなら自分の書き間違いです。

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082 2011/04/23(土) 21:28:59 ID:Ikqs3cbOHc
スレ違いで悪いが
文永の役の日本軍は推定で五千から一万人くらいじゃなかったっけ?

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083 2011/04/29(金) 23:26:13 ID:e6hq.kXpvI
なんだ、結局ララァは逃げたのか

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084 2011/04/30(土) 17:05:04 ID:rDrX6m/66A
ララァは超基本的なことすら勉強せずに電波を飛ばしてかまってもらおうと必死なアルバイト中年だから相手していると話が進まないから放置で良いよ

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085 2011/04/30(土) 17:38:24 ID:4VgVS5QVYU
なんか久々に来たら、どっかのスレで俺に潰されたアンチがわいてんな(ワラ

>>58
>半島は明にとっては半分ホームで日本にとっては完全にアウェイ
>感覚がどうこうと言っても全体を通して見れば明は歓迎されてるし、日本は歓迎されていない

違うから、補給も足りず明が略奪しまくってんだろに。
明にとって朝鮮半島への遠征は同じく補給線確保に苦しむ「遠征」ですよ

>「半島」・「長城」・「中華の動員力」の三つが揃って北京防衛が成立してるわけだから別に欠陥はない

あくまでそれは匈奴なりの勢力への防衛力でしかない。
重火器備えた最新式の軍隊への防備ではないよ。

>それとヌルハチは北京を落としていない、やったのはホンタイジだ

そうですか。

で、女真程度の軍備で落とせる北京が、秀吉軍に落とせないとは思えないがね。
あくまで補給線の問題で、軍事力で中国軍や北京が日本軍の猛威から守れたとは
対戦成績や中国側の記録見る限り無いでしょう。

で、問題の補給線だけど、長安落とせ!といわれたら困るけど、北京という位置は
あまりにも無防備な位置である。女真もそうだし、すぐ周辺は異民族の居住地に隣接で、
中国の国土で厚く覆われた地ではない。
で、倭城地道に築いて、徐々に着実に攻め入る戦略に切り替えて、それが一定の成果収めつつあったわけだから
半島中部くらいまでを磐石にまでいければ、一気に北京に攻撃なんてのも十分遠征ありうるでしょ。

当時の各民族の居住地でモノ考えると分かりやすいよ。中国語話す漢民族の地のうち、異民族隣接地が当時の北京。
永楽帝の都合で北京に遷都になったが、その後も何度もモンゴル軍に北京包囲されてはカネ払って和睦してる。
当時の明はヨワヨワですよ。あんまり過大評価するもんじゃないと思う。

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086 2011/04/30(土) 21:28:55 ID:dQqOoS9Vfg
反論しているようで自分から無理だと暗に言っているような、そんな感じだの

結局補給の問題をどう解決するのかまったく触れない時点で何言ってもうんこ
築城すりゃ万事OK!って何を根拠に言ってるのかさっぱりですね
大方物資集積所とかそういう話なんでしょうけど、そもそも現地で食料の調達が難しい時点で
何やったって補給が間に合うわきゃねぇっての

>半島中部くらいまでを磐石にまでいければ、一気に北京に攻撃なんてのも十分遠征ありうるでしょ

根拠が「ここまで行ったらいけるはず」っていう希望的観測だから絵に描いた餅に過ぎませんなぁ
一気にって言うけど実際は年単位の時間がかかるわけだから、んな甘い話ではない

それに騎馬民族がどういう規模や頻度で侵入していたかを知らない人が「女真程度」と言ったって説得力ありませんがな

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087 2011/05/01(日) 18:47:21 ID:9hP/gzE.02
>>86
>結局補給の問題をどう解決するのかまったく触れない時点で何言ってもうんこ

制海権握りうる状況になって、南部に倭城で面での支配が成り立てば、補給はいけるだろ。
触れてるじゃん。バカなの?文章読めないの?

伊達・徳川のはるかに上の大軍が九州で出撃待ちなわけで、半島南部の恒常的な面支配は十分可能な情勢でしょ。
で、そこまでいけば、北京を制圧でなくとも、略奪破壊という明王朝破壊の遠征作戦は十分成り立つ位置に北京って首都はある。

朝鮮出兵の近い時期にも何度も北京はあっさりモンゴル人に囲まれて危機に陥っては、賠償金払って和睦してる。
そういうもんなわけで、城攻めは当時の遊牧民より確実に日本軍は得意とするところであろうし北京潰して明崩壊or明の首都を南京に撤退させるみたいなことは
十分可能性のあるシナリオに思います。実際明側が秀吉死んでなけりゃ滅びてたと言ってんだし。

北京到達だけなら、より補給の無い文禄ですら明領にあっさり進入できてるくらいで、南部を面支配できてりゃ当然破壊目的の嫌がらせ遠征は当然可能。
北京までの土地は、漢民族の優位な土地でなく。北京は異民族の地に隣接した極めて脆弱な位置の首都なんです。

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088 2011/05/01(日) 19:01:29 ID:CR9AsXVn/w
ララァの言うことも間違っていないとは思うが
ヌルハチが北京落としたと思ってる時点で説得力がないんだよな・・・・
結局、知識が浅いのを弁でカバーしてるとしか思えない

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089 2011/05/01(日) 21:22:18 ID:5EZsEovnkQ
ところで秀吉は明切り取って何したかったんだ?
あんまりメリットなくね?
やっぱ、武士が増加したための雇用対策として始めたという背景もあるのかね?

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090 2011/05/01(日) 22:12:52 ID:KU5xwh1Nl2
>>87
面白い具合に話がかみ合ってないな

半ば焦土と化した半島で物資の調達が期待出来ない時点で補給問題は解決出来ねーだろって所をもっと突っ込んで欲しいんだけど
補給線さえ維持できればって所で止まってて、そもそも遠征軍は武器弾薬以外の物資は基本現地調達って所を無視しすぎなのよね

>朝鮮出兵の近い時期にも何度も北京はあっさりモンゴル人に囲まれて危機に陥っては、賠償金払って和睦してる

アルタン・ハーンぐらいしか知らんのだけど、文禄・慶長の頃にそんなん頻繁にあったっけ?
全然知らんからソース的な物を出してくださいな

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091 2011/05/01(日) 22:18:26 ID:dB2w8fVZDc
いかな理由があろうとも、究極的な望みがないと動機には至らない。
日本の覇者となった秀吉は、その圧倒的武力を背景に明の制圧も目論んだ部分はあるだろう。
いまでこそ中国とえいば漢民族の国という概念があるが、もともと中国大陸は異民族の決闘舞台のようなものだった。
うまくいっていれば本当に中国の歴史の一部に歴代国家の一つとして日本という国号が刻まれていた可能性がある。
明の軍隊が弱小だったとは言わないが、しかし日本軍のほうが地理的、食糧的、軍勢的にも劣勢であったにも関わらず遂に明は日本軍にとどめをさすことができなかった。
秀吉の母が他界していなければ、征伐のノウハウも集約されてきて、渡海を命ぜられる武将が増えれば進攻の足取りがより本格化していただろう。
※笑府の注釈には日本軍襲来の報が北京を不安に陥れていたとある。
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092 2011/05/02(月) 01:22:36 ID:rOaTo8P6WA
日本人なのに、日本人の武将と軍隊を弱いと思い込み、
実際、文献でしか読んだことのない中国軍を強いと
思ってる、「古代中国礼賛バカ」が多すぎる・・・

そんなに中国(明)が強いなら、なんで清に負けるんだよ・・
それに宋もモンゴル人の元に占領されとるやろが!!!
中国史オタクは阿呆な中国の自画自賛ファンタジーに洗脳
されすぎだろ・・・・

バカじゃないの?

「古代中国礼賛バカ」!!!

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093 2011/05/02(月) 10:37:23 ID:yimdQKBIEk
>>92
日本の武将や軍隊が弱いなんて思ってる奴なんていない
よく読んでみな、誰も弱いなんて一言も書いてない
当時の日本軍の強さは世界でも最高レベルだろう
明も強いとは思ってない
戦争は強ければそれだけで勝てるもんでもない
地の利、人の利、運、時間、距離、等その他いろいろな要素を考えて
明の征服は難しいっていう「意見」なんだ

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094 2011/05/02(月) 23:54:10 ID:AKSfiv3t8.
難しいというか「行ける行ける」って言う人の考え方が胡散臭いからツッコミが入ってるって感じ

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095 2011/05/03(火) 12:19:26 ID:nVT55XKgwY
当時の日本軍は寒さ対策が出来てなかったでしょ?
満州の入り口、朝鮮北部でも、冬場には凍傷で指を落とす兵が続出。
鉄砲を撃てなくなったとか。
数万人分の毛皮の着物を作る技術も思想も無かっただろうから、もっと寒い満州や北京に進むのは難しいと思う。

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096 2011/05/03(火) 12:45:32 ID:iHyJgY.OKI
>>95
ん?そんな話は聞いたことがない。
どこから拾って来たのか参考資料をよろしく。じゃなきゃただの憶測の嘘。
寒さ対策とかマイナス10度とかなら日本でもいくわけで
シベリアあたりまで行かない限り大げさな話にはならない。
大陸は体感温度が寒いと言われるだけで、日本より寒いというわけではない。
その体感温度差は湿気の高低が原因ってだけ。
実際北京や朝鮮北部の貧しい民でも普通に生活していたわけで。
頭悪いんじゃね?って感じ。

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097 2011/05/03(火) 13:45:09 ID:xr2OJp8aP.
フロイスの「日本史」でも凍死者続出の話は出てくるし
北島万次の「加藤清正 朝鮮侵略の実像」なんか読めばわかるけど
清正も凍傷で戦えない兵士が多いとかいう書状を残してるよ

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098 2011/05/03(火) 14:50:55 ID:iHyJgY.OKI
つまり朝鮮満州北京に特化した話ではないってことだね。
だとするとそれが致命的な足かせにはならないってことにやはりなる。

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099 2011/05/03(火) 16:08:57 ID:xr2OJp8aP.
まあ、この時代の戦争じゃ戦死者よりも餓死、凍死者の方がずっと多いのが普通だな
朝鮮で凍死者が多かったのは温暖な西日本出身の兵士が多かったからかな

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100 2011/05/03(火) 16:59:17 ID:iHyJgY.OKI
冬を避け、新春から晩秋までの大体9か月ほどでやっちまえってことか。
中朝国境たりまで攻めのぼってずたぼろにしたらとりあえず南部まで引き返して基盤整えながら越冬。
翌年の新春からいよいよ明攻めへというのがベストだな。

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101 2011/05/03(火) 19:36:49 ID:uoksqYxvuQ
半島が戦場になると強制的に焦土戦術状態にさせられるから、ベストとは言えないんじゃないかな
外交交渉で半島の服属を狙うのがよりベターかもしれない
まぁこの辺は対馬藩がきちんと仕事してくれてりゃもっと違う局面が見られたと思われるが

返信する

102 2011/05/03(火) 20:01:38 ID:iHyJgY.OKI
焦土になるからおかげで越冬後 明国境まですぐ出直せるじゃん。
何言ってんの状態。

返信する

103 2011/05/03(火) 20:13:46 ID:b9C6HdUQ0U
あれ??
ウリは?
ねぇ、ウリは?
ねぇったら、ねぇ、ウリは?
仮にも朝鮮出兵ってのに、ウリのこと、無視し過ぎだろ!!

無視すんなやぁああああ!!

ウリを・・・

返信する

104 2011/05/03(火) 22:26:23 ID:iHyJgY.OKI
そもそも明征伐のつもりが朝鮮地域までの進攻で終わったから、表現的には朝鮮征伐とか朝鮮出兵になってるだけ。
それでただでさえ自意識過剰のウリ君達を勘違いさせている。
秀吉は朝鮮などまったく意に介しておらず、もともと傍若無人なところがあったが、大阪城で秀吉に謁見した朝鮮の使い相手にそれがもろにでた。よほど朝鮮の使いの者はこれに自尊心を折られたようで、日記に恨みたらしく悪口を書き連ねている。
日本の貿易時代に入っていたわけで、感覚的には世界で勃興を繰り返していた各国の競争時代に後れをとってはいないだろう。
秀吉が己の絶対権力の領有域拡大を望んで軍勢を大陸に上陸させたことは言うまでもない。

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105 2011/05/03(火) 22:34:31 ID:uoksqYxvuQ
>>102
だから焦土になったら物資の現地調達が出来ないから進軍出来ないって話だよ
治安の悪化も手伝ってインフラが完全に駄目になるのに「すぐ」とか「一気に」とか行けるわけねーじゃん
独ソ戦とはわけが違うのよ

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106 2011/05/03(火) 23:31:21 ID:nVT55XKgwY
『九州を征伐したら、上様から九州の年貢を1年分だけいただいて、それで朝鮮を征伐いたします。
朝鮮を征伐したら1年分だけ年貢を頂いて、それで大明国を征伐いたします』
(うろ覚えだけど、司馬遼太郎の小説の一節)

秀吉の大ボラに、信長は笑ったというけど、瓢箪から駒が出るように朝鮮出兵につながっちゃったんだね。

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107 2011/05/03(火) 23:45:06 ID:b9C6HdUQ0U

プッw
司馬遼太郎www

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108 2011/05/03(火) 23:48:53 ID:iHyJgY.OKI
司馬はしょせん小説。
ここのところを読者は忘れがち。

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109 2011/05/04(水) 22:41:29 ID:Ee6MuSV7/g
信長・秀吉なんてロスチャ○ルドの手先だろ。
奴らは明を植民地にしたかったから、日本を使ってダメージを与えたかった。
家康はそれに気付いて鎖国したけど。

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110 2011/05/04(水) 22:52:05 ID:EgmVDTIQPY
>>109
しょーもねえ釣りだな

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111 2011/05/04(水) 23:48:10 ID:LDXGS0UMZA
とりあえずこの戦役のMVPは

日本 加藤清正
明  李如松
朝鮮 李舜臣

でおk?

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112 2011/05/05(木) 02:08:38 ID:odJ4WJ/f6Q

>>109
が釣りかどうかはともかく、信長・秀吉なんて虐殺しまくったクソだろ。
家康はそういうのはせずに、長期的な視点を持ってたよな。

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113 2011/05/05(木) 11:22:25 ID:NRoa.00gIk
家康は長い年月、百姓を苦しめたクソじゃん

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114 2011/05/06(金) 08:26:55 ID:2b1g9ueu5Q
家康は自分の血筋の安泰のためだけに専念したクソ。
おかげで日本には独特の文化がさらに独特化したが
別にそれは進歩的でも発展的独特化でもなかった。

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115 2011/05/06(金) 13:43:51 ID:yHVLni.F4Q
歴史上の偉人をクソ呼ばわりするとは
さぞご立派な方々なんでしょうなあ

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116 2011/05/06(金) 13:48:15 ID:93leUeDGt.
ナイチンゲールとかなら偉人だと思うが
戦国武将は偉人とはちょっと違うな
たしかに優れた人物なんだろうけど
人を殺してのし上った奴ばかりだから
クソ呼ばわりもいいんじゃないかい

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117 2011/05/06(金) 21:55:53 ID:oY55qpu8oA

イギリスの歴史家はクロムウェルのことを
偉大な英雄というし、ドイツ軍のロンメルも
偉大な軍人と評価している。
あんたの言い分では、今の軍隊も全部
悪辣な人殺しになっちまうじゃないか・・・
内戦の時代に、日本を統一して内戦を
終わらせるという意識はどの戦国武将
にもあったはず!!

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118 2011/05/06(金) 23:16:18 ID:93leUeDGt.
勝てば英雄
同じ意識を持っていても負けたら英雄とは言わない
「偉大」であっても「偉人」ではない

日本を統一して内戦を終わらせるのなら秀吉はなぜ朝鮮に出兵した?
戦争を終わらせても、農民を生かさず殺さずみたいな過酷な生活を強いた
家康を英雄と呼べるのか?

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119 2011/05/07(土) 00:04:14 ID:iEem2J6r3s
歴史上の敗者である楠木正成も真田幸村も新撰組も
今じゃみんな立派な英雄・偉人ですけどね

>農民を生かさず殺さずみたいな過酷な生活を強いた
教科書の記述を鵜呑みにし過ぎ

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120 2011/05/07(土) 00:23:44 ID:3YLwcK8UQQ
新選組は英雄でも偉人でもない。
人殺し集団。
だから好きなんだ。

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121 2011/05/07(土) 00:55:17 ID:AT3LvGwbc.
朝鮮半島を焦土化する意味がないってのに気づけ

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122 2011/05/07(土) 02:47:54 ID:nkItabba7k
半島が戦場になった時点で終わりっちゅー話よね

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123 2011/05/07(土) 02:55:57 ID:V6zeAPo1wQ
>>117 >内戦の時代に、日本を統一して内戦を
終わらせるという意識はどの戦国武将
にもあったはず!!

ないないw 自分らさえよければ良くてやりたい放題やってた地方の豪族とか多いよ
乱獲りと言ってレイプや虐殺は当たり前、奴隷や人身売買も・・・
君の好きなあの武将もやっていたかもしれん。

>農民を生かさず殺さずみたいな過酷な生活を強いた
教科書の記述を鵜呑みにし過ぎ

徳川の治世が日本全国にまで及んだわけじゃない。
実際はそれぞれ大名(藩)が統治していて年貢も違う。
戦が無くなり武士から帰農した人も多いし、中には広大な土地持ってたり庄屋見たいのも居たのさ。農民にもピンからキリまであってね。一揆や餓死者を多く出すような地域は藩の責任だよ

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124 2011/05/07(土) 20:21:28 ID:nG0gDEkvz6
>>123
内戦の時代に戦乱を終わらせる気がなかったって
なぜ言える??

根拠は??

秀吉が、天下統一直前に、正宗に戦争ふっかけるな
んじゃねぇって脅迫してるだろ!!
信長の天下布武の意味分るか??(こんな程度のこと
しか書けない俺はちょっと浅すぎるけど)
信玄だって、人は石垣人は城、情けは味方
仇は敵なり、ちゅうとるやろが!!!
謙信は何のために何度も関東遠征したんじゃ??

昔の人は、仏教にも理解が深く、あんたが考えてるほど
バカじゃないんだよ・・・

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125 2011/05/07(土) 21:05:52 ID:4KCePoGH2g
>>123とは別人ですが
戦乱が終わるといいなぁと考えた人はたくさんいるだろうけど
自分が天下統一して戦乱を終わらせるなんて考えた人は少ないんじゃないか?

>謙信は何のために何度も関東遠征したんじゃ??
生き残るためじゃないのか?

領土を守り戦国時代を生き残ることを目標としていた大名がほとんどで
天下統一を目標として戦い続けた人なんて信長とかそういう例外を除いて少ないんじゃないの?

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126 2011/05/07(土) 21:17:09 ID:rhgz3CgIwg
>>119
楠木正成と真田幸村は立派な人物だが
新撰組はゴロツキの集まりだろうが

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127 2011/05/07(土) 21:54:40 ID:nG0gDEkvz6
>>125
あ、そう思うの・・・
あんたは当時の一般の人が殺し合いを嫌ってるだろうと思うのに、
なぜ、サムライだけ殺し合いしたがる連中だと
思うのか理解できないね・・・・
人間、いつの時代でも好きで殺し合いなんぞしたくないんだよ・・・
感覚として分るでしょ、そんなこと・・・
極端な話、かつての日本帝国軍が殺し合いの戦争をしたくてしてた
と思うのかよ??
アメリカ軍は何のために存在する?
まず第一は、自国民の平和を守るのが義務でしょ・・・
戦国大名だって、地方自治体のトップだろ。
部下の紛争の仲裁をするのも重要な仕事だったような武家の人たちが、
なんの理想も大義もなく戦えるわけないでしょ・・・
そんなんじゃ、人はいつの時代もついてこない!!!!

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128 2011/05/07(土) 22:26:13 ID:rhgz3CgIwg
ほとんどの戦国武将は自分の領地を守るので精一杯だろうな
戦乱を終わらせようと思うにはよほどの武力がなければそこまで思わんでしょ

一兵卒だって、「いつかは一国一城の主になってやる」って夢を持つわけで
「戦乱の世を終わらせてやる」っていうのもいるだろうけど少数派だろうな

当時は自分の命を出世のために賭けていたわけで
殺し合いというものに対するとらえかたは今とは違うしね

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129 2011/05/08(日) 00:12:06 ID:hgPtvudIrM
>>126
ただのゴロツキなら戊辰戦争が始まったとき真っ先にトンズラしてるよ
確かに新撰組は野蛮で荒々しい連中だったろうが、単なる人殺しではないと思う

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130 2011/05/08(日) 00:33:39 ID:Rqif72zhMA
>>127
おいおい、しっかり文章読んでくれよw
別人だって書いてあるだろ…
っていうか、サムライだけ殺し合いしたがる連中なんて書いてねーしw

天下統一して日本に平和をもたらすってどういう意味か分かってる?
バンバン人殺して、バンバン戦争やって、バンバン領土拡大しなきゃいけないわけよ。
それには自分の命もかけなきゃいけないし、部下の命もかけなきゃいけない。
戦争には金がかかる。
お百姓の年貢は高くしなきゃいけない。
それでも戦争で勝てるとは限らないわけよ。
結果、自分の領土は疲弊する。
信長みたいに才能や運に恵まれた人は少ないし、いつの時代でもたいていの人は現実が見えてる。
常識的に考えれば弱いやつは強いやつにひれ伏し、その強いやつも更に強いやつにひれ伏す。
自分の命、家族、領土、部下、領民を守らなきゃいけないからな!
君は戦国時代の大名全てが理想、大義で戦争やってると思ってるの?
大義、理想のために(たいていの大名が)見込みのない夢に自分の命かけると思ってるの?

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131 2011/05/08(日) 18:32:36 ID:hgPtvudIrM
みんな文禄・慶長の役の話しようぜ

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132 2011/05/09(月) 09:43:00 ID:BEk5RzH.1c
削除(by投稿者)

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133 2011/05/10(火) 11:11:23 ID:ZlrA081QkI
結局ララァは話を放棄したようだな

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134 2011/05/11(水) 19:21:59 ID:8BpSv9bYxM
しかし秀吉が長生きしてたとしても家康がそう簡単に半島に渡るとも思えないんだが・・

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135 2011/06/08(水) 13:54:37 ID:RoSvQDfFqw
>>90
>半ば焦土と化した半島で物資の調達が期待出来ない時点で補給問題は解決出来ねーだろって所をもっと突っ込んで欲しいんだけど
>補給線さえ維持できればって所で止まってて、そもそも遠征軍は武器弾薬以外の物資は基本現地調達って所を無視しすぎなのよね

半ば焦土って、別に農地はあるし、苦しい目見させるし人道的に今の感覚ではどうかと思うが、
荒れた占領地で搾取なんてのは、戦国時代の常道でいつもやってきたことだろ。
餓死で死ぬのは朝鮮の住民で、そのぶん兵士が生き延びるだけ。

何度も言うけど、対馬海峡の制海権押さえて、半島南部の倭城が成って、面としての支配ができた時点で
補給が続かないっていう状況ではない。
伊達、徳川の大群が九州で出撃待ちなわけで、全くまだ本隊が出撃の状況ですらない。
また朝鮮半島自体、言葉も通じない異民族の明軍にとってもアウェーで地の利の生かせない土地であるのを忘れてはならない。


>アルタン・ハーンぐらいしか知らんのだけど、文禄・慶長の頃にそんなん頻繁にあったっけ?
>全然知らんからソース的な物を出してくださいな

エセン・ハンも1449年に北京攻撃を行い、正統帝が捕虜になって賠償金という土木の変が起こってるし
次にダヤン・ハンの時代も何度も長城超えて攻め込んでおり、さらに滅亡目前のアルタン・ハンの件と、既に明の力はこの時代劣化しており、ヨワヨワってはなしです。
明中後期はこのように北虜南倭と言われ、しょっちゅう攻め込まれてるような状況。
これらは北京に遷都してから、まもなくからずーっと起こってることであり、北京はすぐ到達できる位置関係にあり脆弱な位置にある。

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136 2011/06/09(木) 00:55:04 ID:spdnDm1gAU
色々細かい事を考えたけど、多分水の掛け合いになるだけだからざっくりまとめるか

制海権・築城して南部を取れば補給線問題なし!→海挟んでる時点でそもそも物理的に分断されてっから輸送が天候に左右されがちって問題が解決されない
つーか昔の制海権って割とザルですから、完全に掌握するのは難しいって話ですよ

半島支配を進めて搾取!→領土獲得のための遠征軍が住民感情を悪化させるような事はまずやらない
文禄でそれをやらかしてしまったから支配地域の治安が悪化した

半島南部の支配が出来れば北京まで一気に行ける!→進軍ペース的に言えば秀吉にあと何年も生きながらえて貰わなくちゃ困る 無理
多分これが一番の問題

それと明軍だけじゃなくて朝鮮軍も加わってっから完全アウェーじゃねぇって事に気づけ

>>87で「朝鮮出兵の近い時期にも何度も北京はあっさりモンゴル人に囲まれて危機に陥っては、賠償金払って和睦してる」

などと言っておいて聞いてみれば高校の教科書に載ってるレベルでしかも時間間隔が50年とか100年とかの事件をもってくるなんてお前に聞いた俺が馬鹿だったよ
「滅亡目前のアルタン・ハンの件」って1550年が明滅亡目前とかwikipediaでいいからちょっと見直してくれよ
さすがにつっこむの飽きたわ

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137 2011/06/09(木) 11:00:56 ID:ZOeycDJ/Aw
いくら言っても無駄でしょ。
中国側の公式な記録である『明史』に、はっきりと
明と朝鮮には全く勝算はなく、秀吉の死によって辛くも助かった
…と書いてあるんだから、秀吉じゃ無理!無理!と連呼しても説得力無いわな

>制海権・築城して南部を取れば補給線問題なし!→海挟んでる時点でそもそも物理的に分断され
>てっから輸送が天候に左右されがちって問題が解決されない
>つーか昔の制海権って割とザルですから、完全に掌握するのは難しいって話ですよ

遣唐使の時代の話じゃないんですから(ワラ
普通に交易できてる時代で、倭寇だなんだと行き来しまくってる時代なんだから武装船団で余裕でしょ。
倭寇って数千人の軍馬の大船団とかが行き来してたわけで、もはや海賊というより軍隊だったわけですが、それが頻繁に行き来してて、渡航が難しいとか無理あんよ。
しかも敵海軍はもう壊滅してて、しかも南朝鮮押さえられては、組織だった補給線分断はできまい。制海権を掌握とはそういうことでしょ。


>半島支配を進めて搾取!→領土獲得のための遠征軍が住民感情を悪化させるような事はまずやらない
>文禄でそれをやらかしてしまったから支配地域の治安が悪化した

それは戦国時代の常道。異民族の地で情けなんかかけてもしゃーない。略奪でいいんだよ。
(人道的に今の道徳観念からいえばどうかってはなしだが)
まず餓死者続出は住民で、戦争とはそういうもの。軍が干上がるのはその先で、搾取できないなんてはなしじゃない。
最初は焦土化してるから現地調達できない!つってたのに、話また変わるし…なんなのキミ?

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138 2011/06/09(木) 11:01:10 ID:ZOeycDJ/Aw
>半島南部の支配が出来れば北京まで一気に行ける!→進軍ペース的に言えば秀吉にあと何年も生きながらえて貰わなくちゃ困る 無理
>多分これが一番の問題

面支配でなく、単に遊牧民的一時的攻撃なら、モンゴル軍が繰り返してたように可能だし
事実加藤清正は調査目的で、恒常支配を目的としない作戦では、
一気に明領オランカイまで攻め入って居る。
面支配の進軍ペースと、モンゴル軍のそれのような、略奪しながらの攻撃作戦での進軍速度を区別しないとかナニソレ?
ここで話してるのは、そういった戦意削ぎ、明朝を揺るがせるための嫌がらせ的な北京攻撃の可能性でしょう?
モンゴル軍に北京に迫られてはビビって賠償金の当時の明朝にこれが意味を成さないなんてまさか言わないよな?


>それと明軍だけじゃなくて朝鮮軍も加わってっから完全アウェーじゃねぇって事に気づけ

バカだね。朝鮮軍なんか壊滅同然じゃないか。
特に北方では役人と住民の折り合いが悪かったとされ、オランカイ進行なんかじゃ日本軍に加勢して共同作戦を取ってる。
明軍にとってはなおさらのアウェーという側面もあることを忘れてはならない。明軍自身略奪もしてるわけだし(もちろん朝鮮人も)
オランカイ進行でもそうだけど、このあたりはそもそも女真系の住民も朝鮮領内に多く、なおさらアウェーなのである。

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139 2011/06/09(木) 15:00:46 ID:RGYkTpHR7I
その壊滅した朝鮮軍のゲリラ戦法に苦戦したのはどこのどなたでしたっけ・・・

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140 2011/06/09(木) 16:40:08 ID:d6CUVWuZSE
秀吉は明征伐そのものは諦めてたんだろ?
講和条件も、南鮮四道の割譲と
伝統的な勘合貿易の復活、
明国皇女の降嫁を願った、っていう
当時の極東秩序からそうはずれていないものだし。

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141 2011/06/09(木) 17:19:41 ID:RBtBIhtzSk
朝鮮軍は露梁海戦するぐらい余力あんだから壊滅してねぇし制海権を完全に握れてないのはそういう海戦が発生してる時点で証明されてらぁな

>それは戦国時代の常道。異民族の地で情けなんかかけてもしゃーない。略奪でいいんだよ。

町は焦土だし農村部の治安は激悪なんだから、ちょっと突けば即反乱で調達出来ないっつーか現に出来てない
いいんだよ。グリーンだよ!ってなんて片付けられるわけがない
ブレてると言われるのは割と承知してたけど、現実に調達出来てなかったからその辺は否定する分には卑怯極まりないけどなんとでも言えるんですよねこれが
まぁ自分に都合悪い事言えば、当時半島の人口と日本の人口はほぼ同数とか言われてたから、理論的に出来る出来ないで言えば出来たのは間違いないね
ただ、慶長の時点で現地調達案は諦めてるから(戦前の『朝鮮戦役』って本にそんな記述がある)、土台無理な話ってだけ

>面支配の進軍ペースと、モンゴル軍のそれのような、略奪しながらの攻撃作戦での進軍速度を区別しないとかナニソレ?

それを言ったら騎馬民族の進軍と歩兵主体の軍の進軍の違いを区別してないでそんな事を言うのはどうなんだい
文禄のペースは無理との判断で着実な侵攻に切り替えたのに、半島南部押さえたからはいじゃあ文禄のペースに戻すねって
そんなにささっと都合よく戦略が切り替わるの?そんな用意を誰かしてたの?誰か言ってたの?
半島侵攻によって最終的に北京を攻撃する可能性はありえた話だけど、文禄が失敗した時点でたらればを語れるのは秀吉の寿命しかないんよ
文禄で足場固めをしっかりやってれば北京まで届いてたっつーんなら否定するこたぁないけど、そうじゃないんでしょ?
だから本隊が着てればーって言いたいんだろうけど、準備してる間に秀吉死ぬじゃん
例え進撃出来ても年単位で時間かかるんだから秀吉死ぬじゃん 無理じゃん

オランカイの話は上で既に言われてる話をララァの都合に合わせて変えただけじゃん
つーか「明領」オランカイってお前すげぇ馬鹿な事言うのな

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142 2011/06/09(木) 19:49:54 ID:W1G0fjIjY6
兵糧をほとんど国内から海路で運ばなきゃならないような状態で、
北京攻略なんてまず不可能だろうな。

しかも前田、徳川ら本隊まで渡海すれば
さらにそいつらの兵糧も運ばなきゃならずますます補給が困難になる
だから秀吉は既に半島南部割譲とかより現実的なものに目標を切り替えてたんだろ

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143 2011/06/09(木) 20:55:16 ID:.ExZ.FFRvI
>さらにそいつらの兵糧も運ばなきゃならずますます補給が困難になる

そう、正にその通り。
補給が最も大事なのに、それどころか秀吉渡海時に用意していた食糧さえ手をつけてるんだよね>先発組み
その状態でどうやって戦え、だよなw
この辺は「補給戦」を読めば理解できる。

「略奪しながらなら北京までいける」
それなんて牟田口?ww

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144 2011/06/09(木) 20:57:58 ID:.ExZ.FFRvI
>>143
ちょっと間違えた
×秀吉渡海時に用意していた
○秀吉が渡海した時のために用意していた

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145 2011/06/13(月) 13:45:09 ID:iE94DH5KGs
>>143
先発組みが手をつけてる、と書くと、先発組みが
ギンバエとかいけないことしてる響きなんで補足しとくぞ。
釜山の御蔵米は、第一次出兵の際の兵糧難であっても
厳重な管理下に置いてある。符管理者は早川長政・毛利重政。
のちに福島正則・毛利友重。
この御蔵米の拠出は、「新米との入れ替え」を名目に
在番将兵の兵糧として流用されてる。
どんな情況下でも、絶対に備蓄量を割り込ませるつもりは
無かったと思う。だから表向き「入れ替え」としたんだろう。

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146 2011/06/14(火) 21:36:00 ID:8cq/tPT0aw
馬はどうなんだろう?
日本の馬を連れて行っても、大陸じゃ使い物にならなさそう。
朝鮮半島じゃ調達は難しそうだし、いかに歩兵、鉄砲隊が優秀でも、優秀な騎馬隊が無いと、
中国本土への侵攻は難しそうだ。

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147 2011/06/14(火) 22:04:59 ID:iwzsuj2Dro
幕末の頃の写真で見ると、朝鮮の馬はどちらかと言うとロバに近いが日本の馬はサラブレッド程ではないものの体躯ががっしりしてるから、
大陸で使っても問題ないレベルなんじゃないかな。

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148 2011/06/14(火) 22:23:51 ID:bdkUhADzto
日本の在来馬はこれくらいかな
小さいけどずんぐりしてて頑丈、輸送に向いていたらしい
そういや明の遼東兵の馬は巨大だとかフロイスの「日本史」に書いてあったな

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149 2011/06/15(水) 11:17:20 ID:nwMqyiGOfg
おうまさんパカパカ

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150 2011/06/16(木) 11:47:14 ID:qF1vtj99Gs
ここでララァが一生懸命言ってる伊達・徳川の本隊とやらって何?

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151 2011/06/23(木) 13:01:33 ID:HctxJ9D9U.
結局ララァの無能っぷりを晒すだけの流れだったな

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152 2011/06/23(木) 17:09:37 ID:GGNMPeanmE
馬は大きければいいという考えはチョンと同等の知性しか持ち合わせていない。
サラブレットは脚が早い=戦争で使える、という発想と変わらないのだ。

日本の馬は蔑まれているほど小さくはない。むしろ乗り降りに支障のきたさない高さだ。
そして気性が太く、戦闘において非常に使い勝手がいい。古来から戦いに向いていることは日本では経験を交えて広く認識されていたことだ。
かつて大陸の東西で戦陣を走破したモンゴルの馬なども同じく比較的小型である。

サラブレットなどは気性が神経質すぎてまず戦いには出ることはできない。
大きな馬でいうなら、アラブなどはかつて重馬の名産地であった。
馬に鎧をきせてぶつかりに行くような方法としても使われた。

モンゴルの騎馬軍団が世界中のあらゆる軍団を討ち滅ぼしていったことを見れば、馬の大小よりも、気性やそしてそれにみあった運用方法というものが重要であることがわかる。

日本とモンゴルは同じ多様な馬を活用してきた民族だが、日本と戦闘してモンゴルが世界で初めて負けたというのは馬とはあまり関係ないだろう。

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153 2011/06/24(金) 20:13:42 ID:8wIlJEq0tk:au
モンゴルの馬は小さいんだ…
勉強になった。

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154 2011/06/24(金) 21:50:36 ID:KGhOQFr1lU
日本軍の本隊だったか知らんが、
徳川軍は、小牧長久手で豊臣に勝ってるし、
伊達軍は、東北の覇者で、結構な戦力だったとは
思う。その後、江戸幕府が正宗を随分警戒していた
ことを考えると、少なからず、徳川、伊達軍が
参加すれば、日本側に有利に働いたのは確かだろう。
単なる増派だけの意味ではないと思うが、たられば
の話だ。

返信する

155 2011/06/25(土) 02:40:44 ID:048460tMg.
>>141
>>朝鮮軍は露梁海戦するぐらい余力あんだから壊滅してねぇし制海権を完全に握れてないのはそういう海戦が発生してる時点で証明されてらぁな

漆川梁海戦で壊滅してるよ、余力なんてないから撤退するまでまともな戦闘が出来なかった。
撤退してどんどん日本軍が減って行って(明とは戦争終了の取り決め結んでる)
油断してるところを李舜臣攻撃したけど撤退中の敵を攻撃してしかも急造の海軍の
島津に殺されちゃってるw

>>154
文禄の役では焦土作戦で荒廃して朝鮮半島の補給路確保が困難なため進軍が出来なかっただけであって戦闘ではほぼ圧勝。
慶長の役では補給路確保のため倭城を築いきながら進軍しようとしたが秀吉が死んで撤退しただけ、戦闘では文禄の役同様ほぼ圧勝で逆に蔚山、泗川、順天の戦いで完膚なきまで叩きのめされた明は何も出来ず引いて傍観するようになった。
徳川伊達が加われば更に強くなるが問題は倭城建設しながらの進軍で補給が確保できるかどうか?と朝鮮海軍壊滅したから水路での長距離補給が可能かどうかだ

返信する

156 2011/06/25(土) 08:01:03 ID:W6mzZ5qd8A
実はあの時代、日本よりちょっと前に朝鮮にも宣教師がいってキリスト教があれしていたことって以外と知られてないよな。

返信する

157 2011/06/25(土) 19:09:42 ID:EWN.XCfYqY
>>155
売り言葉に買い言葉で下手な方便を書いてしまっていた、失礼

一応撤退する豊臣軍を追撃戦するぐらいの余力はあった的な言い方でもさすがにこじつけに過ぎるか

>朝鮮海軍壊滅したから水路での長距離補給が可能かどうか

フロイス他そういった話が一切ないので海路や水路による長距離輸送は想定してなかったのかも
全羅道の掌握が前提と明(大した規模じゃないけど)の水軍と朝鮮水軍の残党を完膚なきまでに叩きのめして
海賊も駆逐して一帯の制海権を握らないとあの辺りは厳しいもんで

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158 2011/07/10(日) 22:00:19 ID:KegiUdOiA2
>>155
>徳川伊達が加われば更に強くなるが問題は倭城建設しながらの進軍で補給が確保できるかどうか?と朝鮮海軍壊滅したから水路での長距離補給が可能かどうかだ

そういうこと。
さらにいえば、モンゴル人なんかが得意の略奪しながらの焦土化移動で一気に北京潰しというのも、
文禄の役でやったように考えられるだろう。
当然九州から攻めあがるより、半島南部から攻めあがるほうが容易なわけだし。海路による補給もあろうし。

面での支配でなく、ある程度の位置まで陣地進めれば、北京を支配でなく潰すという遊牧民的な戦術もありうるだろう。
北京壊滅状態にでもすりゃ、勝手に南京に撤退とかして中央集権の全土の支配が崩壊するってのが中国王朝の構造に思うがね。
脅せば官僚どもが離散して首都から逃げ出すんだよ明って国は。

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159 2011/07/11(月) 00:55:53 ID:aQASlJB/9E
>>158
で、伊達徳川の本隊ってどこからの出典なのさ

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160 2011/07/12(火) 00:05:55 ID:Sk3Gw5Of1I
前田、徳川らは渡海予定はあったけど、別に本隊というわけじゃないだろうな

「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、 御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者可爲越度事。」
(立花文書 慶長二年二月二十一日の朱印状)

↑強いて言うならこの秀吉直属の馬廻衆が本隊に当たるんじゃない?

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161 2011/07/12(火) 01:05:43 ID:nFy5bR8oXQ
馬廻衆の規模で本隊なら先に上陸した14、5万の勢力は一体なんなんだろうなw
結局ララァが「俺がこう思うからこうだ」って言ってるだけで、何の資料的考察はなされないんだろうな

>北京壊滅状態にでもすりゃ、勝手に南京に撤退とかして中央集権の全土の支配が崩壊するってのが中国王朝の構造に思うがね。

首都が陥落したらその時点でその国が終わりっつーのは明に限った話じゃあないだろw

まぁそう考えると開封を落とされてもなお南に落ち延びて国の体裁を維持した南宋の高宗のカリスマ性は相当すごかったんだろうな

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162 2011/07/16(土) 09:56:37 ID:z703wPpyF2
いつから日本は遊牧民になったんだろ・・・
騎乗などの遊牧民的な技術がいつのまに日本人に備わってたんだろうな・・・
昨日まで農業で生きてきた人間で構成された軍隊で・・・

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163 2011/07/16(土) 12:32:27 ID:f/bWLPHfvY
>>162
マジレスすると
日本軍に占める馬上(騎兵)の割合はせいぜい1割りくらい
大部分が歩兵だぞ
農民から徴集された足軽は弓、槍、鉄砲による集団戦術を行うだけで
馬に乗ることはまず無い

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164 2011/07/16(土) 16:29:35 ID:xlcPpZ330Y
天正20年3月の陣立表一番、五嶋純玄(本役700名)の内訳を挙げてみよう。

騎馬  27
歩武者 40
足軽  120
小人  38
下夫  280
船頭水夫200
______
合計  705

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165 2011/07/16(土) 16:47:14 ID:xlcPpZ330Y
慶長元年12月、島津義弘の軍役

騎乗   262・・・2.1%
徒歩小侍 300・・・2.4%
無足衆  500・・・4.0%
御道具衆 665・・・5.3%
============
人数   4,806・・38.7%
夫丸   3,900・・31.4%
加子   2,000・・16.1%
_______
合計  12,433

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166 2011/07/16(土) 18:16:02 ID:ZHcAmBycww
>>164
この内、騎馬武者だけを抽出た部隊を作って、略奪しながら北京まで行けるの?
そもそも戦国の騎馬武者だけで戦えるのかな?
歩兵も必要なんじゃないの。

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167 2011/07/16(土) 19:26:15 ID:xlcPpZ330Y
>>166
無理だろ。数が少なすぎるし、朝鮮士民のゲリラ戦が危険。
騎馬武者ってのは領土を持つ身分以上の侍だから、
各部隊の上層指揮官に当る。徴用した下夫人足を置き去りにして、
それだけが突出して先行するとは思えん。ましてや異郷の地。
戦い方は日本国内での合戦とさほど変わらず、官僚的な軍しか
持たなかった朝鮮軍が一方的に押し捲られたと考えたほうが
いいんではないかな。緒戦においては。

4月12日に小西軍が上陸してから、5月2日時点で漢城を攻略してるが、
毛利輝元が家臣に宛てた書状で、「広すぎるんでこの軍勢では
足りない。言葉も通じないし、通事や朝鮮の事情に通じた人間が
必要。ことの他むずかしい」とボヤいてる。で、漢城会議を開いて、
朝鮮八道を諸将分遣で経略することになった。清正だけは忠実に
「すぐ明へ攻め入るべし」と言ったそうだが。

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168 2011/07/17(日) 00:55:57 ID:94wdfvHVwQ
そういえば釜山浦海戦のとき、陸地へ上がった日本軍を追撃しようという意見に対して
李舜臣はまず兵力的に劣ることを挙げ、さらには
「海よりは陸の上で彼ら(日本兵)は勇敢に戦える」
「彼らの中には馬に跨って縦横無尽に活躍する者もいる」
と言って上陸を思いとどまらせてるんだよね
この頃の日本軍はもともと少ない騎兵がさらに減少傾向だったようだが
馬上槍を振るって敵兵を蹴散らす猛者も結構残ってたんだろうな

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169 2011/07/18(月) 18:35:36 ID:t4wb91yPYc
その歩兵が強いんだろ?
なんせ、倭寇でも陰流の剣術を身につけてたってんだからさ。
それに、明軍は全くかなわなかったって話は明史?とかに乗ってる話なんだろ。

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170 2011/07/18(月) 22:12:29 ID:AR87qXYiUg
そんな強烈な連中の進撃を阻止した李如松はもっと評価されるべきだと思うんだけどなー

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171 2011/07/18(月) 22:28:35 ID:p19WlsR3D.
>>170
まあ李舜臣なんか比較にもならないほどの大活躍してるからな
文禄の役で全羅道が日本軍の制圧を免れたのも、結局は明軍来援のお陰だし
こんな言葉がある

「英雄譚や亀甲船があったとしても、朝鮮が生存するのに最も決定的な役割を果たした
軍事的要素は、中国の援助だったのである。」・・・ガリ・レッドヤード

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172 2011/07/19(火) 14:09:51 ID:E0Uo22ODh.
信長も秀吉も李氏朝鮮については イエズス会経由で
「西国の毛利氏」や「九州の島津」及び「四国の長宗我部」みたく
「朝鮮半島随一の戦国大名!?」っていう チョロい認識であったらしいよ?

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173 2011/07/19(火) 14:39:51 ID:gVscdP.35.
朱印状でも「国主参洛の儀」と表記してるから、
国郡制度下における「国」に近い概念だったのかねぇ。

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174 2011/07/20(水) 20:12:19 ID:tiZ45iLhlQ
[訂正]
幾つか書物を読んだ結果、>>140の極東秩序ウンヌンの書き込みは
撤回します。秀吉という人物の思惑が、極東秩序の埒内にあったことを
示すものが見られないため。すんません。

[日本軍の兵站・給養事情]
上陸当初は物資豊富。出征諸将中、糧米を準備しない者に対しては
大坂で米穀貸与。為替米の法を定め、運輸の日時・費用を省略。
緒戦の攻略で、朝鮮の各城から2000〜3000石の兵糧米を入手。
平壌攻略の際は儲量10余万石と言われる兵糧を入手。
各部隊の兵糧が欠乏した場合は敵国民から強制徴収または買い上げ。
また各道経略では、朝鮮民を日本の百姓と位置づけ、年貢上納の契約。
11月頃から兵糧問題が顕在化。翌3月、漢城保持がほぼ不可能な状態に
達した時点で、講和交渉に入る。

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175 2011/07/23(土) 15:08:04 ID:tLr7uzxBog
北京までいけないという意見が大半なんだが、
距離にするとそれほどでもないんだよね、世界地図見るとさ。
鴨緑江から北京までは、大体、江戸、博多くらい、
釜山から鴨緑江までもそれくらい。
江戸、博多間を往復するくらいで行ける。
補給が云々というが、これは漢城あたりから船を出して遼東半島
の先端に倭城を作れば北京は目と鼻の先だと思うんだが・・・
タラレバの話なんで、そうムキにならんでくれよ・・・

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176 2011/07/23(土) 18:55:13 ID:cNwSJfhzcc
>>175
なんで『鴨緑江から』なんだよw
それなら『肥前名護屋から』とするべきだろ。

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177 2011/07/24(日) 00:49:24 ID:sBiLiq8KCk
確か遼東方面から北京に至るまでの間に凄い鉄壁の城塞があって、
ヌルハチも結局そこを抜けずに死んだんじゃなかったっけ?
補給の問題もあるがこの城塞も厄介だな

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178 2011/07/24(日) 14:18:53 ID:ePJixQ2.Z.
>>176
肥前名護屋からでもいいと思うよ。
海が間にあるが、距離的にはほぼ一緒。
案外、近いんだよ。北京は。
>>177
そうかぁ、城壁があるのか。
どれくらいの城壁かしらないけど、
万里の長城って、匈奴の侵入に対して
殆ど機能しなかったらしいけど、
確かに、厄介だな。

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179 2011/07/24(日) 22:36:47 ID:sBiLiq8KCk
>>178
調べてみたらヌルハチを防いだ城塞って山海関のことらしいな。

ウィキによれば「明末はヌルハチ、ホンタイジによる満洲族の侵入を阻止し、守将であった呉三桂が清朝に帰順するまで不落の要塞だった」そうな

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180 2011/07/24(日) 23:06:06 ID:abS9/G9WCo
>>178
朝鮮各城に、兵站維持のために兵を詰めておく必要がある。従って
侵攻軍の先頭には大兵力を置けず、先細りになるんではないかな。
水路侵攻に船舶を割けば、名護屋〜釜山間の海上交通が破綻する。

ヌルハチが攻めあぐねたのは寧遠城。
ただし築城されたのは慶長の役の後。
ポルトガル製の大砲を備えてる。

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181 2011/07/24(日) 23:41:32 ID:abS9/G9WCo
[訂正]
寧遠城の築城ではなく、増改築でした。
すんません。

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182 2011/07/26(火) 00:01:35 ID:c68rhtk8bA
山海関を落とすにはどれくらいの兵力が必要だろうか
城攻め上手の秀吉がどう攻めるのか見てみたい気もする

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183 2011/07/26(火) 00:46:45 ID:HPBAYpYpOI
>>182
強点をあえて攻めずとも、
内蒙の部族を懐柔して熱河方面から長城を越え、
河北省に侵入するほうが被害も少なくて済む。
実際、スレ・ハンはそうやって北京侵入を果たしてる。

もっとも、朝鮮半島維持でかなりの兵力を取られるし、
補給線が伸び切って不利だろう。明の政権の自壊は
秀吉の時代よりもう少し先なので、日本軍が侵攻しても
甘く見積もって膠着状態ではないかな。

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184 2011/07/26(火) 01:10:52 ID:c68rhtk8bA
まあ、内蒙の部族はゴリゴリの中華思想の朝鮮人よりも懐柔しやすそうだな

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185 2011/07/26(火) 20:53:20 ID:stMKUlK.pk
>>180
相当、詳しいね。
寧遠城とやらの攻略がカギのような気がするわ。
大阪の陣の時、徳川軍が大阪城に大筒を打ち込んだ
って話があるけど、それで、その城って攻略無理??
多分、秀吉でも入手可能だよね、大筒って。

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186 2011/07/27(水) 00:12:52 ID:z/r4IGzFqw
>>185
カンペ見ながらなので、そう詳しくはない。興味がある。
『世界の歴史14・明と清/三田村泰助著』
『日本の歴史15・織田豊臣政権/藤木久志』
『文禄・慶長の役/中野等』『朝鮮の役/旧参謀本部・桑田忠親・山岡壮八』
著作物の時代ごと、著者によって推測の仕方や論調も違うので
確度を持って書けるのは、進軍状況の推移くらいなもんだろうか。

寧遠城や山海関については攻城専門じゃないのでナンとも言えん。
ただ、正攻法に固執しても、あまりいいことは無いんじゃないかな。
補強工事前・ポルトガル式大砲装備前の寧遠城を攻めるとしても、
そこまでの道程で明側が何の抵抗もなく篭城するとは思えんし。
日本側は侵攻軍の先頭が先細りになり、補給でも苦労するだろう。
秀吉が入手可能とすれば3百匁玉の大筒。日本の城壁と違い、分厚い城壁を持つ
シナの城は簡単には破壊できないと思う。明軍には仏郎機砲(フランク砲)がある。
あと、散弾砲の霹靂砲、威遠砲、虎蹲砲などがある。

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187 2011/07/27(水) 02:32:47 ID:H6hA/RbG1M
文禄・慶長の役の研究については
未だに戦前の「日本戦史・朝鮮役」が最優良書であり続けているという現状

李舜臣が日本軍の補給路を寸断しただの、蔚山戦役は日本軍の惨敗だの
慶長の役で朝鮮・明軍の反攻により、半島南部から一歩も進むことができなかったとか
李舜臣のしょーもない海鮮ばかり取り上げておきながら
文禄の役における最大規模の激戦である碧蹄館の戦いをガン無視したり
戦後の書籍は九割クソの山だ

碧蹄館といえば、「秀吉の野望と誤算」はよかった
碧蹄館の戦いの詳しい推移や戦闘描写が書かれた本としては
戦後でほとんど唯一と言っていいんじゃないか?

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188 2011/07/27(水) 02:40:06 ID:uCXkvXnoZ.
総括すると結局朝鮮支配まであと一歩のところで
秀吉死去で戦争終結。
まー引き分けなんじゃなかろうか

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189 2011/07/27(水) 19:52:46 ID:6lPpgKc4fs
>>186
うーん、明側の装備がよくて、城壁が石造りで堅牢か。
なるほど。確かに困難なのは確かだ。
>>188
結論はそうだろうね。それを言っちゃうとそれで終わりですw
しかし、強引に引っ張ると、(すまん)
上の方でチラホラ言われている・・・
朝鮮の民衆のゲリラ的な反抗が秀吉軍の進軍を阻むとかは無理だと思うんだ。
武器もなく戦闘経験もない民衆が軍隊に向かってゲリラ的な闘いをするなんて、
殆ど無理。第二次大戦のフランスのレジスタンスだって連発式の銃がある時代
でも、あまり意味がなかった。
戦国時代の日本農民は、隣国が攻めてきたら、逃げて身を隠してたらしいし。
戦時に民衆がとる行動は普通は常識的に考えてそんなものだろうと思う。
補給に関しては、最初は基本的に秋に進軍し現地からの略奪しかないだろうと。
略奪しながら進む。冬は築城して籠城。
で、支配できたら支配地から租税を徴収する。(そう簡単ではないのは
確か)
制海権、これも結構困難だけど、朝鮮の亀甲船が威力を発揮したのなら、
村上水軍と戦った時に信長が用いた、大型の鉄船って行けると思うんだけど…

まぁ、いつもの通りのタラレバ…

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190 2011/07/27(水) 20:38:52 ID:ubtDO7EVHM
ゲリラとかレジスタンスとかは情報収集と輜重隊の襲撃が中心で、普通正面きって戦わない
簡単に略奪なんて言うけど、禍根は残るし治安は悪くなるし最悪反乱起こされるし自分達で物資かき集めなきゃいけないしで
ものっすごい非効率な行動だから、支配を前提にしてんなら基本的にご法度
モンゴルがどうたらと考える人もいるだろうけど、モンゴル帝国だって攻める前に協力するか死ぬかを事前に通告して無駄な事を避けてたから
選択肢として考えるのは止めといた方がいいと思うよ

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191 2011/07/27(水) 20:57:53 ID:6lPpgKc4fs
>>190
その通りだけど、日本での戦国時代、略奪は当たり前だったんだよね。
しかし、その後は統治した。こういうことが成立したのは、武力がまかり通る
時代だったからだと思う。有無を言わさぬ強権政治だった。すぐ殺されちゃう時代。
そんな、怖い連中に命がけで反抗できるかな??
略奪なんて、今の常識では確かに無理だ。
でも、それが成立したのは歴史が語る通り。
日本国内がそうだったからと言って、外国でもそれが通じるとは言えない。
でも、中国人や、朝鮮人は、日本の農民と違うのかな?
中国は元や清に支配されたし、朝鮮はまぁ、朝貢の国。
日本もアメリカに負けた時、相当悔しかったろうけど、武力で負けて、武力での反抗
は一切できなかった。心理的に反米であっても。

民衆のゲリラ戦はまずあり得ないというのは同意して貰える?
モンゴルに関しては案外真摯だったのは分かる。

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192 2011/07/27(水) 21:33:24 ID:7OeQLfG5Wg
>>191
仏郎機砲などについてだが、明軍にそういう火砲類が「ある」という話であって、
実戦における有効性は別らしい。明軍の火砲のうち、幾つかは運用性能と効果で
問題があり、使い物にならない火砲もあったとある。ただし、明軍のどの火砲が、
どのように使えないかの記述は得ていないんで、詳細は分からない。
歩兵用の銃火器は、明軍は仏郎機銃(3本銃身、3人で操作する)があるだけで、
日本軍の火縄銃(当時の日本は世界最大の銃保有国)に利がある。

朝鮮人民の制圧だが、たとえば島津軍による全羅道海南経略では、一般民衆と上官との
切り離し工作をやってる。民衆には居邑への還住を促し、上官を探し出して誅戮する。
この結果、両班・士大夫と一般民衆との離間が生じ、恭順と密告が相次ぎ、
日本式の軍政と徴税関係が成り立つ。大きな問題は、朝鮮人民の日本兵に対する遺恨、
そして事大主義(中華属邦意識)。特に事大主義は根強いから、台湾のように3世代
くらいに亘って再教育を施さないと、対日反感の芽がいつまでも残るだろう。
従って、恭順しない民衆の粛清・鼻削ぎが続くことになる。

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193 2011/07/28(木) 00:16:07 ID:6oKXgwps6A
>>191
>略奪は当たり前だったんだよね

当時の農村では隣国からの侵攻があった場合、侵攻部隊に対して使者を出して「協力はするから略奪はしないでね」って
約束を取り付けて(約束状の名前は失念した)やり過ごしてた事実もあるので、思ってる程危険だったわけでもないよ
信長流を受け継いでた秀吉が略奪を意図してやるかなーって感じ

>民衆のゲリラ戦はまずあり得ないというのは同意して貰える?

どこまでをゲリラ戦の範疇にするのかで変わるけど、正面から向かってくるなんてことはないだろうね

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194 2011/07/29(金) 00:41:17 ID:l1fXA9mUas
敵の戦意を挫き、経済基盤を叩く最良の手段は放火と略奪。
特に後者の場合、士気が大いに高まる利点があり、武将は略奪の
期間を区切って黙認した。(中略)
畿内に勢力を拡大した織田家は一銭斬りで軍紀を厳格にしたが、
こと合戦での略奪となると、一定条件下にこれが許された。
(【絵解き】「雑兵足軽たちの戦い/東郷隆」一部抜粋)

織田と言えば放火だが、焼働き・焼き捨てなどは下級兵士(徴集兵)の
役目で、ほとんど戦功の中に数えられず、田畑を潰す行為も足軽軍(いくさ)
の内に含まれるので、あまり言及されないのだろう。

朝鮮役での略奪の模様は幾つかあるが、豊後臼杵の太田飛騨守一吉に従った
真言僧慶念が朝鮮士民の拘引・売買、殺戮について書き表してる。
同じ陣中の大河内秀元も、下級兵士たちが山や谷間に分け入って略奪・生捕などを
行ってる様子を従軍記に書き残してる。日本の地方では、政治的動機より略奪行為
そのものが合戦目的となっていたこともあったので、部隊によりその慣習が
そのまま現れたのだろう。

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195 2011/07/29(金) 17:45:38 ID:elTiZIkRSw
略奪の事実云々についてはそりゃその通りだけど、自分が言いたいのはそれを軍事作戦上の名目として秀吉がやるかどうかでして
武田や上杉や島津に至っては軍事的行動として略奪乱取りの類をしまくってはいたけど、信長は上洛以後は表向きでは禁止させているし
秀吉に関して言えば中国攻めで信長の命で見せしめの虐殺をやっちゃったが為に播州に反乱の種を撒いちゃった過去があるから
指揮系統の末端が部下に対する報酬として暗黙の了解の上での略奪行為を働く事はあっても
部隊の進軍を確保するために組織的な略奪・陵辱を秀吉が指示するというのはちょっと想像がつかない

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196 2011/07/29(金) 19:01:03 ID:Dx4arl6JwQ
>>195
信長や秀吉が、軍事行動の目的として人取りを挙げた例は
寡聞にして聞かんな。あえて御触れで出すような真似はしないだろ。
領土獲得という戦略目的である以上、彼らが優先させるのは現地の安定化
だろうし、そのための禁制だ。ただし、信長が禁裏周辺での狼藉を取り締まった
ことは事実だろうが、反抗的だった上京は焼いてる。京と言っても
すべての地域で静謐を許したわけじゃない。

朝鮮侵攻により、人取りが横行したものの、秀吉は彼らについては
本来の居所へ戻すよう命じてるそうだ(「文禄慶長の役/中野等、49頁)。
徴集兵はやるだろうし、秀吉もそうした慣習は承知の上だったろう。
人取りを行った者に対する処罰もまた聞かないし、現地での人買い業者を
取り締まったという記録も見ない。俺が知らんだけかも分からんが。
侵攻緒戦では、朝鮮民衆の抑圧された心理が朝鮮官僚側へ向かい、
むしろ日本側の占領政策が功を奏しているように伝えられてる。
従って、士気高揚の点から、一時的な狼藉や人取りは、現地指揮官の黙認という
形である程度放置したのだろう。

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197 2011/07/29(金) 19:44:54 ID:elTiZIkRSw
そう考えるとやっぱ略奪しながらの進軍なんて無茶はあり得ないよなぁ
ってことでどうだい>>189

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198 2011/07/30(土) 20:43:37 ID:.BGYQ9QoXE
>>197
上記の意見を、一通り読んだ。
略奪しながら進む。結局、兵糧の話で、戦闘が行われている段階ではやむ終えない
ってことじゃないか?戦争の指導者が直接命令をしなくても、軍隊の維持の為に
食糧が不足したら、現地の司令官は略奪に走ると思う。
それを、戦争指導をしてる秀吉がとがめることが出来ないのはむしろ当たり前では?
しかし、その土地の支配を確立すれば、どこの政権でも、略奪何ぞしなくていい。
租税の徴収で支配できる。
と、思うんだけどな。
抵抗があれば弾圧するのも、どこの国のどんな政権でも同じだろうと…
あと、大砲の話だけど、清が明を滅ぼしたのは1644年、
慶長の役が1597年、50年の期間があるわけで、50年って大した時間だよ。
ラジオが薄型テレビに進化するくらい。
明の要塞が装備してた西洋の大砲って、慶長の役のころにあったの?

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199 2011/07/30(土) 23:37:21 ID:.D/39bpNEM
>戦争の指導者が直接命令をしなくても、軍隊の維持の為に
食糧が不足したら、現地の司令官は略奪に走ると思う

それじゃあ軍目付がいる意味がないじゃないですか

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200 2011/07/31(日) 00:00:12 ID:u9YEJpKkBI
>>198
>明の要塞が装備してた西洋の大砲って、慶長の役のころにあったの?

文禄・慶長のころまだ旧式の仏郎機(フランキ)砲だろうね
清軍相手に活躍したポルトガル製の紅夷砲はまだ配備されてないと思う

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201 2011/07/31(日) 00:11:01 ID:v6i6eVgMAc
>>199
軍目付か…
存在する意味はなかったんじゃないか?
だって、鼻を削ぐとかやったことを軍目付が咎めたとしても、
秀吉がそれを咎めて、武将に伝えて罰しない限り機能しないもんね。
実際、そういうことは行われたわけだし、民衆の鼻を削いだ雑兵が
打ち首になったなんて記録もないわけでしょ?

>>200
なるほど。
ありがとうございます。勉強になります。

あと、明側や朝鮮側の記録があって以下のようなんだが、これに関しては
どうですか?

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった

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202 2011/07/31(日) 03:22:36 ID:VrTzlqzVVE
>>201
なんで鼻削ぎ咎める必要あんのさ

返信する

203 2011/07/31(日) 11:12:40 ID:u9YEJpKkBI
>>201
「宣祖修正実録」「懲秘録」のその記述はいずれも碧蹄館の戦いに関するものだね
ただ、この戦いで明軍に火器がなかったというのは誤り
天野源右衛門の「立花朝鮮記」には「敵大筒を打ちかけ、黒煙を立て喚いてかかる」
とあるし、「吉見家朝鮮陣日記」にも明軍の鉄砲についての記述がある
(画像の「三眼銃」のことと思われる)
朝鮮人が明軍を擁護するために「火器なく云々」などと筆を滑らせたと思われる
「明史」のそれは確か「明史・朝鮮伝」の記述だったと思う

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204 2011/08/01(月) 21:33:08 ID:FVI9obJCX6
>>202
だって、
>>199
が、略奪を咎める軍目付がいたから、略奪なんてできないって言うからさ。
残虐行為って意味では鼻を削ぐほうが残虐なんじゃないの?
やられる側も、食料を差し出したほうが、鼻を削がれるよりましでしょ?
自分の身に置き換えて考えてもそう思わない?
軍目付がいてその後に遺恨を残すと考えるなら、鼻削ぎはやめさせるでしょ。
秀吉は元軍が来襲した時の話を知っていたと思う。元は対馬の民衆の耳を
削いだらしいから、その仕返しの意味もあったと個人的には思っている。

>>203
そうか、日本側が大勝利した戦の話だったというわけだね。
でも、確か、各地の局地的な戦いでも、日本側は結構勝ってたらしいんだよね。
明側の正史に、「わが軍に勝算はなかった」ってのは控え目な記述であったと
考えても、明側の苦戦が推測できると思う。

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205 2011/08/01(月) 23:00:39 ID:CTxU1.ky4A
『戦国合戦の舞台裏/盛本昌広』を読んでるが参考まで。
兵糧の現地支給を行った先例としては、北条氏康が内藤廿騎衆にあてた
書状で、その例が認められる。
信長はおもに商人から兵糧を購入したが、大量に前線に輸送できた要因は
①尾張・三河・伊勢は以前から海上交通が盛んだった
②戦国期に船が大型化し、輸送を促進させた
③余剰米の発生により米市場が成立した
④財政基盤の直轄領を設定し、資金を吸い上げた
⑤金銀の流通が増え商人の活動が活発化していた
と言う点が挙げられてる。

武田家に圧迫された徳川家は積極的に敵地で苅田を行ってる模様。
麦苗薙により敵の補給を絶つ手法は信長自身も率先して行っている。
麦を掘り返し放火する「くろつち」、掘り返しを強調する「七尺返し」など
面白い表現が幾つかある。
馬の飼料は掠奪。これは秀吉も同じで青豆や稗を刈り取るのは許可している。
糠は亭主に断る、とされるが、実質上供出が強制された模様。

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206 2011/08/02(火) 22:55:19 ID:.SM0RUMEEI
>>204
反体制派に対する粛清と、異国の地で首を持ち帰る事が困難だという事で鼻とか耳とか削いだりしてたのであって
何も無差別にあっちこっちでやっとったわけじゃあない
米軍だってWW2やベトナムで似たような事やっとったしケルト人は殺した相手の首を軒に飾ったりしていた
要は撃墜マークみたいなもんだから残虐がどうこうとか言う事自体現代の価値観で見過ぎと言うかなんと言うか

軍目付は名前の通りの監視的役割よりも、前線と秀吉との橋渡し的な役割の方が強い
なので秀吉が軍を維持するための組織的な略奪を禁じているならば軍目付もそう動くわけだし
それを無視して動けば秀吉に情報が伝わって罰せられる
無論、「略奪」の範囲に入らない破壊工作も多々あったと思われるけど、他方で統治政策の試みもされていたわけだから
治安を乱す略奪行為は極力やらないが吉というだけ(つまりは>>195-196の流れ)

軍が維持出来なくなれば略奪に走るという発想だが、そもそも略奪出来る食料が雀の涙ぐらいしか無かったから
文禄の役では維持できる所まで撤退せざるを得なかった
これが全てだと思う
明と日本の収奪に耐え切れる程肥沃な土地というわけでもないしね

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207 2011/08/05(金) 21:56:07 ID:PO5ImNzXhU
>>205
う〜ん、成程としか言いようがないですな。
>>206
確かに、略奪できるほど朝鮮は肥沃ではないと
いう意見は納得できますわ。
というのも、朝鮮で温帯湿潤気候(稲作に適した気候)
は、朝鮮のほんの一部の南部だけ。
殆どの日本と中国の長江以下は温帯湿潤気候。
朝鮮って、北部は冷帯湿潤気候らしくて、多分当時は
(今は知らないが)稲作はまず無理。
小麦の生産も厳しいんじゃないかと思う。
略奪して進む、は確かに無理か・・・
まぁ、でも、兵糧の問題がなければ、引き分けというよりは
むしろ、戦闘に限って言えば圧勝では??

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208 2011/08/06(土) 23:21:32 ID:tZTYCfT1pQ
戦闘だけで言えばほとんど勝ってるから、数と補給の問題がどうにかなってりゃ歴史は変わってただろうね
半島を戦場にしないってのが最善なんだろうけど

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209 2011/08/08(月) 21:57:55 ID:FhiscBRy7w
【日本軍の給養・兵站】
兵糧準備として九州諸将所管の直轄地租米(蔵米)を海路で
兵站基地の名護屋へ輸送・集積。出征中糧米を準備しない者に
大しては米穀貸与。為替米法を定める。
古来、敵の糧食を分捕って味方の給養に充てるのは慣例。
小西行長が平壌城占領時に得た儲量10万余石、黒田長政が黄海道で
得た2万石、このほか各部隊の糧食が欠乏した場合、敵国民から
強制徴収したり、買い上げた例もある。

租米徴収の方法は、日本で実施していた四公六民の法が実施され、
四割の租米を二分して一半を従軍人員に応じて各部隊に給し、
残る一半は以降の作戦用に集積。
慶長の役の日本軍は全羅道・忠清道から前進、その糧食については特に
記録は無い。若干は集積物資、大半は地方物資に拠ったようである。
秋季に行動を開始したこともその理由に基づくものである。
行軍中の糧秣を敵側のものに求めたことは文禄の役の時と同様である。
(「朝鮮の役」旧参謀本部 第一篇)

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210 2011/08/08(月) 22:18:51 ID:FhiscBRy7w
当時日本が推定していた朝鮮各道の分米(租米)石高は、
少々誇大のきらいはあるが、次の通りであった(同上)。

慶尚道 70郡 280万7790石
全羅道 58郡 260万9379石
忠清道 56郡  98万7514石
京畿道 39郡  77万5003石
江原道 26郡  40万2299石
平安道 24郡 179万4086石
黄海道 42郡  72万8867石
咸鏡道 24郡 207万1028石
______________
計  339郡 1191万6088石

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211 2011/10/26(水) 00:32:47 ID:kguhq5VA0Y
ウィキペディアとかに載ってなくて、
あまり知られていない日本軍と明軍の戦いをまとめてみた。
ソースは壬辰戦乱史(の、下巻の参考文献原文)。


・第四次慶州城戦闘(1593年8月6日)
西生浦の加藤勢数千人が突如として慶州を襲撃し、
防衛にあたった明・朝鮮軍は大敗した。
なおも追撃してくる日本軍に明軍参将・駱尚志が
両手に矛戟を抱えて飛び込み、たちまち四人を突き伏せた。
これを見た日本軍は大いに驚き、深追いをやめて撤退していった。
明・朝鮮軍の戦死者は500人を超え、明将の一人が戦死した
(名前は不明)。 日本軍の目的は連合軍への牽制だったのか、
それとも単なる略奪だったのか不明。
明・朝鮮側の記録を見る限りかなり規模の大きい戦い。

・安康戦闘(1593年12月2日)
西生浦の加藤清正の手勢が安康で略奪を働き、
明・朝鮮軍との間で何度か小競り合いが行われた。
新人物往来社の「加藤清正のすべて」の年表にある
「安康において明将劉綎の大軍に大勝を博す」とは
この戦いを指すようだ。
明・朝鮮側の記録を見る限り単なる小競り合いに過ぎず、
大軍でも大勝でもない。

・報恩付近戦闘(1597年9月20日)
朝鮮軍が霧の中から加藤清正の軍勢に矢を射かけ、
数十人を倒した。清正は霧の向こうに伏兵があると考え追撃しなかった。
この後、退却していく加藤勢を参将・彭校徳らの明軍が
青山県のあたりで追撃したという。どちらも取るに足らない小競り合い。
なおこの戦い、無敵の加藤清正軍を朝鮮軍が大破した戦い(笑)
として朝鮮寄りの書籍で紹介されることがある。

・三嘉付近戦闘(1598年3月24日)
三嘉付近で略奪を働いていた島津勢と明・朝鮮軍の間で行われた小競り合い。

・茂朱の戦い(1598年4月8日)
沙斥駅付近で起きた島津勢と明・朝鮮軍の間の小競り合い。
こんな規模の小さい戦闘で明軍の副総兵・李寧が戦死してしまった。
島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。
なお、泗川の戦いで戦死した参将の李寧とは同姓同名の別人。

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212 2011/10/26(水) 21:00:06 ID:SAhmHl9st.
この当時おそらく全世界の火縄銃の半分以上は日本にあったと思われるので、正規戦で日本側がまけることは先ず無い。
近接戦もほぼ全て鍛造武器の日本側が有利と思われる。
下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが、加藤軍が兜だけは支給とかあったようだ
チャイナ側は大砲とロケットおよび榴弾の装備で一部有利、
結局のところ、明軍主力を捕捉撃滅しない限り現地調達がままならないので補給線を延ばせないといった状態で膠着したんだろうとおもわれる。
また当時は今より寒冷と思われるので冬季は越冬場所が必要であったと思われます。

水軍による補給妨害の損害はほぼゼロと思われます。といっても、沿岸域で前進するには当該地域の敵水軍を撃破しない限り局地的な補給の問題はある。

この当時の衛生状態と医療技術からして、遠征の損害はほとんど病死であったと思います。

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213 2011/10/26(水) 21:31:35 ID:kguhq5VA0Y
>>212
>下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが

簡素な御貸具足くらいならあったと思われ
大名家から支給されない場合でも
腹当とか腹巻、胴丸などを雑多に着ていたと思う

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214 2012/01/05(木) 11:28:21 ID:01rBnU6UsY
御貸具足でも古代の重装歩兵盾無し版程度の装備ではあるからな。

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215 2012/01/06(金) 09:38:38 ID:vWWL4nykAM
明代の武将の鎧

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216 2012/01/06(金) 09:41:54 ID:vWWL4nykAM
こちらも明代の武将
日本軍と戦った李如松や劉綎もこんな格好だったのかな
こういう上級武将の鎧は唐とか隋の時代とほとんど変わらないように見える

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217 2012/01/06(金) 11:20:52 ID:KgqfD63zH.
明代の軍装を記した絵画史料とか残ってないもんかね?
倭寇との戦いに活躍した戚継光は実戦に即した戦術や兵器を追求したようだが
どんな格好だったんだろうか?

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218 2012/01/12(木) 09:55:25 ID:h/zMgsa./U
「かの大明国の衆の服装は、表面は赤いとうめんをつけ、
裏はくろがねを二寸四方ほどに切ったものを鎖でつなぎ、
一見、道服のようである。兜もまたくろがねでこれを白くみがきあげている。
小手もくろがねで矢も立たなければ刀でも切れない」
・・・(吉見家朝鮮陣日記)

「漢南(明の南方の兵)は総じて赤し。兜は白みがき。
オランカイ(恐らく遼東兵)は総じて黒く、朝鮮人は総じて白なり。
いずれも三色のいでたちなり」
・・・(上山助右衛門蔚山陣覚書)

日本側の資料に書かれた明の軍装はこんな感じ
明の鎧は固くて刀が通用しないというのは「日本史」の記述とも一致するね
全体的に日本軍より重装備だったんだろうな

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219 2012/01/13(金) 11:38:22 ID:QNjiGY41Dk
こんな報告もあるからな。明軍の全部がそういう重装備ってわけでもなさそうだな。

柳成竜『懲鋆録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。

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220 2012/01/13(金) 17:54:23 ID:u2r36s7Em.
中国と日本の戦い歴史 
663年  白村江の戦い 日本完敗
1274年 文永の役   日本完勝
1281年 弘安の役   日本完勝
1592年 文禄の役   日中引き分け
1597年 慶長の役   日中引き分け
1894年 日清戦争   日本完勝
1937年 日中戦争   日本敗北

トータル戦績
日本 3勝2敗2分け
中国 2勝3敗2分け 

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221 2012/07/02(月) 00:21:38 ID:Gcj9GkS/j2:au
よく慶長の役は最初から形勢不利だったから
全裸道に留まったとされるがまったくの出鱈目。
前回は急いで戦線を拡大しすぎた反省から
秀吉の書状ではまずは全裸道周辺の平定に専念せよとあり
実際、その通りに武将たちは行動していた。
予定では1599年からは石田三成や徳川家康も大陸に渡る作戦だったようだが・・・。

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222 2012/07/02(月) 17:13:03 ID:nNtupD49DU
この戦争で日本側から朝鮮に永住した
「さやか」って根来の雑賀衆の一派なの?
昔、なんかの本で読んだことあるけど。

返信する

223 2012/07/03(火) 11:19:38 ID:F5RcODxfwo
北島万次なんかは加藤清正の家臣で朝鮮軍に投降した
「岡本越後守」が沙也可だと言ってるな
この人物は蔚山城の戦いのとき日本側に降伏を勧告しに来たりしてる

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224 2012/08/01(水) 19:25:34 ID:uzB6yHvp76
秀吉が天下統一の勢いを駆って支那大陸まで侵略の手
を拡げたというのは表層だけを見た浅はかな見方でしか
ない。実際はスペインとの確執だった。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.htm...
「ねずさんのひとりごと」

返信する

225 2012/08/01(水) 21:43:41 ID:CJFYb7RIvA
海賊禁止令を出した時に、海賊(倭寇)側の事情も
宗氏や村上氏なんぞに秀吉は聞いたと思うんだよね。
「お前等なんで、海賊なんぞするんじゃ?直ちにやめんか」
そうすると当然、元寇の時に酷い目にあったので
それに対する復讐であるということは聞いたハズだ。
その時、元寇に住民が耳をそがれた話も聞いたことは間違い
ないでしょう。
だから、仇打ち(武士の使命でもある)の意味もあって
鼻をそぐってことを認めたか命令したかしたんでしょう。
見事に辻褄が合う話じゃん。

返信する

226 2012/08/09(木) 21:32:34 ID:6ldfyyVbRI
ちなみに、文禄慶長の役で
日本にある鼻を埋めた施設を「耳塚」というのはね、
まさに、耳を切られた対馬壱岐などの人を慰霊するために
鼻塚と言わず、「耳塚」というんです。
つまり、慰霊をしているのはまさに対馬壱岐の元寇の被害者
で、「仇をこの秀吉が打ちましたよ」という意味の慰霊の塚なんだよ。

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227 2013/01/26(土) 22:46:59 ID:eBbBAzMZjo
うん。

返信する

228 2013/01/27(日) 12:08:59 ID:n8/xGqlz.s
>>224
電波というか妄想の歴史だなあw

>>当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
と書いてあるその後に
>>そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、
全く反対の事を書いてるしww

>>ペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら
その金をどこから出すんだろ・・レパントでさえ、連合軍2万を出すのがやっとなのに。

スペインが日本征服を狙っていたって・・・日本をおそれていたとかw
スペインの財政状況みれば一目でわかるんだけどなw
スペインは対トルコ&低地諸国対策一本だよ。

返信する

229 2013/10/25(金) 01:43:59 ID:3vjsB2FI7I
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5g...

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230 2013/11/07(木) 14:55:38 ID:gN/kcxKZX.
>>196
緒戦に限らず、交渉期間中(1595-96)秀吉軍統治区に、
朝鮮人が流出したり、朝鮮商人が往来して、
市場が賑わっていて、李氏朝鮮政府が対応に苦慮している記録もあるね。

西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲鋆録巻四


六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、こ屋を建て農耕に従事する者が増えた。

これに対する備辺司の処置を見れば、先ず李永寿が一矢も報いずに
捕らえられたのは不当千万であるとし、晋州判官朴思斉を
巡察史軍営に呼び出し、笞刑を加えて見せしめにした。
宣祖実録巻六十四 六月甲子

返信する

231 2013/12/27(金) 01:06:20 ID:Qt.U9Cmkzk
朝鮮人に首をと競れる朝鮮人↓

「従軍して敵軍の首一級を斬った者には、科挙及第を許可することになり、
 人々はこれを斬首及第と称した。
 それからというものは、飢餓にさいなまれていた百姓らに、もう一つの災難がふりかかり、
 いつどこで首を掻き取られるか分からぬ厄介な時世となった。
 同胞を殺して剃髪し敵軍の首と偽ってさし出す者あれば、敵軍兵の首であっても、
 他人から買い入れて提出する者もあり、時には売買のかけ値が問題となって訴訟に
 及ぶこともあった。ともあれ、こうして二三品の昇叙にありつくというしまつであった」

春坡堂日月録巻九

科挙とは役人になるための試験だが、戦乱であったため
敵の首をとれば試験をパスするという特別措置で朝鮮人の首をとって偽装した。

また明(中国)からの援軍、東征軍が、
虚偽の戦功を作るために朝鮮人の首をとっている。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcweybss...

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