文禄・慶長の役総合


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001 2011/04/06(水) 16:00:43 ID:qpFea/U0/M
戦国オールスターズが大陸へ打って出てドンパチやった大戦争、
文禄・慶長の役について自由に語ろう。

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201 2011/07/31(日) 00:11:01 ID:v6i6eVgMAc
>>199
軍目付か…
存在する意味はなかったんじゃないか?
だって、鼻を削ぐとかやったことを軍目付が咎めたとしても、
秀吉がそれを咎めて、武将に伝えて罰しない限り機能しないもんね。
実際、そういうことは行われたわけだし、民衆の鼻を削いだ雑兵が
打ち首になったなんて記録もないわけでしょ?

>>200
なるほど。
ありがとうございます。勉強になります。

あと、明側や朝鮮側の記録があって以下のようなんだが、これに関しては
どうですか?

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった

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202 2011/07/31(日) 03:22:36 ID:VrTzlqzVVE
>>201
なんで鼻削ぎ咎める必要あんのさ

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203 2011/07/31(日) 11:12:40 ID:u9YEJpKkBI
>>201
「宣祖修正実録」「懲秘録」のその記述はいずれも碧蹄館の戦いに関するものだね
ただ、この戦いで明軍に火器がなかったというのは誤り
天野源右衛門の「立花朝鮮記」には「敵大筒を打ちかけ、黒煙を立て喚いてかかる」
とあるし、「吉見家朝鮮陣日記」にも明軍の鉄砲についての記述がある
(画像の「三眼銃」のことと思われる)
朝鮮人が明軍を擁護するために「火器なく云々」などと筆を滑らせたと思われる
「明史」のそれは確か「明史・朝鮮伝」の記述だったと思う

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204 2011/08/01(月) 21:33:08 ID:FVI9obJCX6
>>202
だって、
>>199
が、略奪を咎める軍目付がいたから、略奪なんてできないって言うからさ。
残虐行為って意味では鼻を削ぐほうが残虐なんじゃないの?
やられる側も、食料を差し出したほうが、鼻を削がれるよりましでしょ?
自分の身に置き換えて考えてもそう思わない?
軍目付がいてその後に遺恨を残すと考えるなら、鼻削ぎはやめさせるでしょ。
秀吉は元軍が来襲した時の話を知っていたと思う。元は対馬の民衆の耳を
削いだらしいから、その仕返しの意味もあったと個人的には思っている。

>>203
そうか、日本側が大勝利した戦の話だったというわけだね。
でも、確か、各地の局地的な戦いでも、日本側は結構勝ってたらしいんだよね。
明側の正史に、「わが軍に勝算はなかった」ってのは控え目な記述であったと
考えても、明側の苦戦が推測できると思う。

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205 2011/08/01(月) 23:00:39 ID:CTxU1.ky4A
『戦国合戦の舞台裏/盛本昌広』を読んでるが参考まで。
兵糧の現地支給を行った先例としては、北条氏康が内藤廿騎衆にあてた
書状で、その例が認められる。
信長はおもに商人から兵糧を購入したが、大量に前線に輸送できた要因は
①尾張・三河・伊勢は以前から海上交通が盛んだった
②戦国期に船が大型化し、輸送を促進させた
③余剰米の発生により米市場が成立した
④財政基盤の直轄領を設定し、資金を吸い上げた
⑤金銀の流通が増え商人の活動が活発化していた
と言う点が挙げられてる。

武田家に圧迫された徳川家は積極的に敵地で苅田を行ってる模様。
麦苗薙により敵の補給を絶つ手法は信長自身も率先して行っている。
麦を掘り返し放火する「くろつち」、掘り返しを強調する「七尺返し」など
面白い表現が幾つかある。
馬の飼料は掠奪。これは秀吉も同じで青豆や稗を刈り取るのは許可している。
糠は亭主に断る、とされるが、実質上供出が強制された模様。

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206 2011/08/02(火) 22:55:19 ID:.SM0RUMEEI
>>204
反体制派に対する粛清と、異国の地で首を持ち帰る事が困難だという事で鼻とか耳とか削いだりしてたのであって
何も無差別にあっちこっちでやっとったわけじゃあない
米軍だってWW2やベトナムで似たような事やっとったしケルト人は殺した相手の首を軒に飾ったりしていた
要は撃墜マークみたいなもんだから残虐がどうこうとか言う事自体現代の価値観で見過ぎと言うかなんと言うか

軍目付は名前の通りの監視的役割よりも、前線と秀吉との橋渡し的な役割の方が強い
なので秀吉が軍を維持するための組織的な略奪を禁じているならば軍目付もそう動くわけだし
それを無視して動けば秀吉に情報が伝わって罰せられる
無論、「略奪」の範囲に入らない破壊工作も多々あったと思われるけど、他方で統治政策の試みもされていたわけだから
治安を乱す略奪行為は極力やらないが吉というだけ(つまりは>>195-196の流れ)

軍が維持出来なくなれば略奪に走るという発想だが、そもそも略奪出来る食料が雀の涙ぐらいしか無かったから
文禄の役では維持できる所まで撤退せざるを得なかった
これが全てだと思う
明と日本の収奪に耐え切れる程肥沃な土地というわけでもないしね

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207 2011/08/05(金) 21:56:07 ID:PO5ImNzXhU
>>205
う〜ん、成程としか言いようがないですな。
>>206
確かに、略奪できるほど朝鮮は肥沃ではないと
いう意見は納得できますわ。
というのも、朝鮮で温帯湿潤気候(稲作に適した気候)
は、朝鮮のほんの一部の南部だけ。
殆どの日本と中国の長江以下は温帯湿潤気候。
朝鮮って、北部は冷帯湿潤気候らしくて、多分当時は
(今は知らないが)稲作はまず無理。
小麦の生産も厳しいんじゃないかと思う。
略奪して進む、は確かに無理か・・・
まぁ、でも、兵糧の問題がなければ、引き分けというよりは
むしろ、戦闘に限って言えば圧勝では??

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208 2011/08/06(土) 23:21:32 ID:tZTYCfT1pQ
戦闘だけで言えばほとんど勝ってるから、数と補給の問題がどうにかなってりゃ歴史は変わってただろうね
半島を戦場にしないってのが最善なんだろうけど

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209 2011/08/08(月) 21:57:55 ID:FhiscBRy7w
【日本軍の給養・兵站】
兵糧準備として九州諸将所管の直轄地租米(蔵米)を海路で
兵站基地の名護屋へ輸送・集積。出征中糧米を準備しない者に
大しては米穀貸与。為替米法を定める。
古来、敵の糧食を分捕って味方の給養に充てるのは慣例。
小西行長が平壌城占領時に得た儲量10万余石、黒田長政が黄海道で
得た2万石、このほか各部隊の糧食が欠乏した場合、敵国民から
強制徴収したり、買い上げた例もある。

租米徴収の方法は、日本で実施していた四公六民の法が実施され、
四割の租米を二分して一半を従軍人員に応じて各部隊に給し、
残る一半は以降の作戦用に集積。
慶長の役の日本軍は全羅道・忠清道から前進、その糧食については特に
記録は無い。若干は集積物資、大半は地方物資に拠ったようである。
秋季に行動を開始したこともその理由に基づくものである。
行軍中の糧秣を敵側のものに求めたことは文禄の役の時と同様である。
(「朝鮮の役」旧参謀本部 第一篇)

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210 2011/08/08(月) 22:18:51 ID:FhiscBRy7w
当時日本が推定していた朝鮮各道の分米(租米)石高は、
少々誇大のきらいはあるが、次の通りであった(同上)。

慶尚道 70郡 280万7790石
全羅道 58郡 260万9379石
忠清道 56郡  98万7514石
京畿道 39郡  77万5003石
江原道 26郡  40万2299石
平安道 24郡 179万4086石
黄海道 42郡  72万8867石
咸鏡道 24郡 207万1028石
______________
計  339郡 1191万6088石

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211 2011/10/26(水) 00:32:47 ID:kguhq5VA0Y
ウィキペディアとかに載ってなくて、
あまり知られていない日本軍と明軍の戦いをまとめてみた。
ソースは壬辰戦乱史(の、下巻の参考文献原文)。


・第四次慶州城戦闘(1593年8月6日)
西生浦の加藤勢数千人が突如として慶州を襲撃し、
防衛にあたった明・朝鮮軍は大敗した。
なおも追撃してくる日本軍に明軍参将・駱尚志が
両手に矛戟を抱えて飛び込み、たちまち四人を突き伏せた。
これを見た日本軍は大いに驚き、深追いをやめて撤退していった。
明・朝鮮軍の戦死者は500人を超え、明将の一人が戦死した
(名前は不明)。 日本軍の目的は連合軍への牽制だったのか、
それとも単なる略奪だったのか不明。
明・朝鮮側の記録を見る限りかなり規模の大きい戦い。

・安康戦闘(1593年12月2日)
西生浦の加藤清正の手勢が安康で略奪を働き、
明・朝鮮軍との間で何度か小競り合いが行われた。
新人物往来社の「加藤清正のすべて」の年表にある
「安康において明将劉綎の大軍に大勝を博す」とは
この戦いを指すようだ。
明・朝鮮側の記録を見る限り単なる小競り合いに過ぎず、
大軍でも大勝でもない。

・報恩付近戦闘(1597年9月20日)
朝鮮軍が霧の中から加藤清正の軍勢に矢を射かけ、
数十人を倒した。清正は霧の向こうに伏兵があると考え追撃しなかった。
この後、退却していく加藤勢を参将・彭校徳らの明軍が
青山県のあたりで追撃したという。どちらも取るに足らない小競り合い。
なおこの戦い、無敵の加藤清正軍を朝鮮軍が大破した戦い(笑)
として朝鮮寄りの書籍で紹介されることがある。

・三嘉付近戦闘(1598年3月24日)
三嘉付近で略奪を働いていた島津勢と明・朝鮮軍の間で行われた小競り合い。

・茂朱の戦い(1598年4月8日)
沙斥駅付近で起きた島津勢と明・朝鮮軍の間の小競り合い。
こんな規模の小さい戦闘で明軍の副総兵・李寧が戦死してしまった。
島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。
なお、泗川の戦いで戦死した参将の李寧とは同姓同名の別人。

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212 2011/10/26(水) 21:00:06 ID:SAhmHl9st.
この当時おそらく全世界の火縄銃の半分以上は日本にあったと思われるので、正規戦で日本側がまけることは先ず無い。
近接戦もほぼ全て鍛造武器の日本側が有利と思われる。
下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが、加藤軍が兜だけは支給とかあったようだ
チャイナ側は大砲とロケットおよび榴弾の装備で一部有利、
結局のところ、明軍主力を捕捉撃滅しない限り現地調達がままならないので補給線を延ばせないといった状態で膠着したんだろうとおもわれる。
また当時は今より寒冷と思われるので冬季は越冬場所が必要であったと思われます。

水軍による補給妨害の損害はほぼゼロと思われます。といっても、沿岸域で前進するには当該地域の敵水軍を撃破しない限り局地的な補給の問題はある。

この当時の衛生状態と医療技術からして、遠征の損害はほとんど病死であったと思います。

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213 2011/10/26(水) 21:31:35 ID:kguhq5VA0Y
>>212
>下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが

簡素な御貸具足くらいならあったと思われ
大名家から支給されない場合でも
腹当とか腹巻、胴丸などを雑多に着ていたと思う

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214 2012/01/05(木) 11:28:21 ID:01rBnU6UsY
御貸具足でも古代の重装歩兵盾無し版程度の装備ではあるからな。

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215 2012/01/06(金) 09:38:38 ID:vWWL4nykAM
明代の武将の鎧

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216 2012/01/06(金) 09:41:54 ID:vWWL4nykAM
こちらも明代の武将
日本軍と戦った李如松や劉綎もこんな格好だったのかな
こういう上級武将の鎧は唐とか隋の時代とほとんど変わらないように見える

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217 2012/01/06(金) 11:20:52 ID:KgqfD63zH.
明代の軍装を記した絵画史料とか残ってないもんかね?
倭寇との戦いに活躍した戚継光は実戦に即した戦術や兵器を追求したようだが
どんな格好だったんだろうか?

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218 2012/01/12(木) 09:55:25 ID:h/zMgsa./U
「かの大明国の衆の服装は、表面は赤いとうめんをつけ、
裏はくろがねを二寸四方ほどに切ったものを鎖でつなぎ、
一見、道服のようである。兜もまたくろがねでこれを白くみがきあげている。
小手もくろがねで矢も立たなければ刀でも切れない」
・・・(吉見家朝鮮陣日記)

「漢南(明の南方の兵)は総じて赤し。兜は白みがき。
オランカイ(恐らく遼東兵)は総じて黒く、朝鮮人は総じて白なり。
いずれも三色のいでたちなり」
・・・(上山助右衛門蔚山陣覚書)

日本側の資料に書かれた明の軍装はこんな感じ
明の鎧は固くて刀が通用しないというのは「日本史」の記述とも一致するね
全体的に日本軍より重装備だったんだろうな

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219 2012/01/13(金) 11:38:22 ID:QNjiGY41Dk
こんな報告もあるからな。明軍の全部がそういう重装備ってわけでもなさそうだな。

柳成竜『懲鋆録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。

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220 2012/01/13(金) 17:54:23 ID:u2r36s7Em.
中国と日本の戦い歴史 
663年  白村江の戦い 日本完敗
1274年 文永の役   日本完勝
1281年 弘安の役   日本完勝
1592年 文禄の役   日中引き分け
1597年 慶長の役   日中引き分け
1894年 日清戦争   日本完勝
1937年 日中戦争   日本敗北

トータル戦績
日本 3勝2敗2分け
中国 2勝3敗2分け 

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221 2012/07/02(月) 00:21:38 ID:Gcj9GkS/j2:au
よく慶長の役は最初から形勢不利だったから
全裸道に留まったとされるがまったくの出鱈目。
前回は急いで戦線を拡大しすぎた反省から
秀吉の書状ではまずは全裸道周辺の平定に専念せよとあり
実際、その通りに武将たちは行動していた。
予定では1599年からは石田三成や徳川家康も大陸に渡る作戦だったようだが・・・。

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222 2012/07/02(月) 17:13:03 ID:nNtupD49DU
この戦争で日本側から朝鮮に永住した
「さやか」って根来の雑賀衆の一派なの?
昔、なんかの本で読んだことあるけど。

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223 2012/07/03(火) 11:19:38 ID:F5RcODxfwo
北島万次なんかは加藤清正の家臣で朝鮮軍に投降した
「岡本越後守」が沙也可だと言ってるな
この人物は蔚山城の戦いのとき日本側に降伏を勧告しに来たりしてる

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224 2012/08/01(水) 19:25:34 ID:uzB6yHvp76
秀吉が天下統一の勢いを駆って支那大陸まで侵略の手
を拡げたというのは表層だけを見た浅はかな見方でしか
ない。実際はスペインとの確執だった。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.htm...
「ねずさんのひとりごと」

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225 2012/08/01(水) 21:43:41 ID:CJFYb7RIvA
海賊禁止令を出した時に、海賊(倭寇)側の事情も
宗氏や村上氏なんぞに秀吉は聞いたと思うんだよね。
「お前等なんで、海賊なんぞするんじゃ?直ちにやめんか」
そうすると当然、元寇の時に酷い目にあったので
それに対する復讐であるということは聞いたハズだ。
その時、元寇に住民が耳をそがれた話も聞いたことは間違い
ないでしょう。
だから、仇打ち(武士の使命でもある)の意味もあって
鼻をそぐってことを認めたか命令したかしたんでしょう。
見事に辻褄が合う話じゃん。

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226 2012/08/09(木) 21:32:34 ID:6ldfyyVbRI
ちなみに、文禄慶長の役で
日本にある鼻を埋めた施設を「耳塚」というのはね、
まさに、耳を切られた対馬壱岐などの人を慰霊するために
鼻塚と言わず、「耳塚」というんです。
つまり、慰霊をしているのはまさに対馬壱岐の元寇の被害者
で、「仇をこの秀吉が打ちましたよ」という意味の慰霊の塚なんだよ。

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227 2013/01/26(土) 22:46:59 ID:eBbBAzMZjo
うん。

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228 2013/01/27(日) 12:08:59 ID:n8/xGqlz.s
>>224
電波というか妄想の歴史だなあw

>>当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
と書いてあるその後に
>>そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、
全く反対の事を書いてるしww

>>ペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら
その金をどこから出すんだろ・・レパントでさえ、連合軍2万を出すのがやっとなのに。

スペインが日本征服を狙っていたって・・・日本をおそれていたとかw
スペインの財政状況みれば一目でわかるんだけどなw
スペインは対トルコ&低地諸国対策一本だよ。

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229 2013/10/25(金) 01:43:59 ID:3vjsB2FI7I
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5g...

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230 2013/11/07(木) 14:55:38 ID:gN/kcxKZX.
>>196
緒戦に限らず、交渉期間中(1595-96)秀吉軍統治区に、
朝鮮人が流出したり、朝鮮商人が往来して、
市場が賑わっていて、李氏朝鮮政府が対応に苦慮している記録もあるね。

西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲鋆録巻四


六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、こ屋を建て農耕に従事する者が増えた。

これに対する備辺司の処置を見れば、先ず李永寿が一矢も報いずに
捕らえられたのは不当千万であるとし、晋州判官朴思斉を
巡察史軍営に呼び出し、笞刑を加えて見せしめにした。
宣祖実録巻六十四 六月甲子

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231 2013/12/27(金) 01:06:20 ID:Qt.U9Cmkzk
朝鮮人に首をと競れる朝鮮人↓

「従軍して敵軍の首一級を斬った者には、科挙及第を許可することになり、
 人々はこれを斬首及第と称した。
 それからというものは、飢餓にさいなまれていた百姓らに、もう一つの災難がふりかかり、
 いつどこで首を掻き取られるか分からぬ厄介な時世となった。
 同胞を殺して剃髪し敵軍の首と偽ってさし出す者あれば、敵軍兵の首であっても、
 他人から買い入れて提出する者もあり、時には売買のかけ値が問題となって訴訟に
 及ぶこともあった。ともあれ、こうして二三品の昇叙にありつくというしまつであった」

春坡堂日月録巻九

科挙とは役人になるための試験だが、戦乱であったため
敵の首をとれば試験をパスするという特別措置で朝鮮人の首をとって偽装した。

また明(中国)からの援軍、東征軍が、
虚偽の戦功を作るために朝鮮人の首をとっている。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcweybss...

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