文禄・慶長の役総合


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001 2011/04/06(水) 16:00:43 ID:qpFea/U0/M
戦国オールスターズが大陸へ打って出てドンパチやった大戦争、
文禄・慶長の役について自由に語ろう。

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※省略されてます すべて表示...
131 2011/05/08(日) 18:32:36 ID:hgPtvudIrM
みんな文禄・慶長の役の話しようぜ

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132 2011/05/09(月) 09:43:00 ID:BEk5RzH.1c
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133 2011/05/10(火) 11:11:23 ID:ZlrA081QkI
結局ララァは話を放棄したようだな

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134 2011/05/11(水) 19:21:59 ID:8BpSv9bYxM
しかし秀吉が長生きしてたとしても家康がそう簡単に半島に渡るとも思えないんだが・・

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135 2011/06/08(水) 13:54:37 ID:RoSvQDfFqw
>>90
>半ば焦土と化した半島で物資の調達が期待出来ない時点で補給問題は解決出来ねーだろって所をもっと突っ込んで欲しいんだけど
>補給線さえ維持できればって所で止まってて、そもそも遠征軍は武器弾薬以外の物資は基本現地調達って所を無視しすぎなのよね

半ば焦土って、別に農地はあるし、苦しい目見させるし人道的に今の感覚ではどうかと思うが、
荒れた占領地で搾取なんてのは、戦国時代の常道でいつもやってきたことだろ。
餓死で死ぬのは朝鮮の住民で、そのぶん兵士が生き延びるだけ。

何度も言うけど、対馬海峡の制海権押さえて、半島南部の倭城が成って、面としての支配ができた時点で
補給が続かないっていう状況ではない。
伊達、徳川の大群が九州で出撃待ちなわけで、全くまだ本隊が出撃の状況ですらない。
また朝鮮半島自体、言葉も通じない異民族の明軍にとってもアウェーで地の利の生かせない土地であるのを忘れてはならない。


>アルタン・ハーンぐらいしか知らんのだけど、文禄・慶長の頃にそんなん頻繁にあったっけ?
>全然知らんからソース的な物を出してくださいな

エセン・ハンも1449年に北京攻撃を行い、正統帝が捕虜になって賠償金という土木の変が起こってるし
次にダヤン・ハンの時代も何度も長城超えて攻め込んでおり、さらに滅亡目前のアルタン・ハンの件と、既に明の力はこの時代劣化しており、ヨワヨワってはなしです。
明中後期はこのように北虜南倭と言われ、しょっちゅう攻め込まれてるような状況。
これらは北京に遷都してから、まもなくからずーっと起こってることであり、北京はすぐ到達できる位置関係にあり脆弱な位置にある。

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136 2011/06/09(木) 00:55:04 ID:spdnDm1gAU
色々細かい事を考えたけど、多分水の掛け合いになるだけだからざっくりまとめるか

制海権・築城して南部を取れば補給線問題なし!→海挟んでる時点でそもそも物理的に分断されてっから輸送が天候に左右されがちって問題が解決されない
つーか昔の制海権って割とザルですから、完全に掌握するのは難しいって話ですよ

半島支配を進めて搾取!→領土獲得のための遠征軍が住民感情を悪化させるような事はまずやらない
文禄でそれをやらかしてしまったから支配地域の治安が悪化した

半島南部の支配が出来れば北京まで一気に行ける!→進軍ペース的に言えば秀吉にあと何年も生きながらえて貰わなくちゃ困る 無理
多分これが一番の問題

それと明軍だけじゃなくて朝鮮軍も加わってっから完全アウェーじゃねぇって事に気づけ

>>87で「朝鮮出兵の近い時期にも何度も北京はあっさりモンゴル人に囲まれて危機に陥っては、賠償金払って和睦してる」

などと言っておいて聞いてみれば高校の教科書に載ってるレベルでしかも時間間隔が50年とか100年とかの事件をもってくるなんてお前に聞いた俺が馬鹿だったよ
「滅亡目前のアルタン・ハンの件」って1550年が明滅亡目前とかwikipediaでいいからちょっと見直してくれよ
さすがにつっこむの飽きたわ

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137 2011/06/09(木) 11:00:56 ID:ZOeycDJ/Aw
いくら言っても無駄でしょ。
中国側の公式な記録である『明史』に、はっきりと
明と朝鮮には全く勝算はなく、秀吉の死によって辛くも助かった
…と書いてあるんだから、秀吉じゃ無理!無理!と連呼しても説得力無いわな

>制海権・築城して南部を取れば補給線問題なし!→海挟んでる時点でそもそも物理的に分断され
>てっから輸送が天候に左右されがちって問題が解決されない
>つーか昔の制海権って割とザルですから、完全に掌握するのは難しいって話ですよ

遣唐使の時代の話じゃないんですから(ワラ
普通に交易できてる時代で、倭寇だなんだと行き来しまくってる時代なんだから武装船団で余裕でしょ。
倭寇って数千人の軍馬の大船団とかが行き来してたわけで、もはや海賊というより軍隊だったわけですが、それが頻繁に行き来してて、渡航が難しいとか無理あんよ。
しかも敵海軍はもう壊滅してて、しかも南朝鮮押さえられては、組織だった補給線分断はできまい。制海権を掌握とはそういうことでしょ。


>半島支配を進めて搾取!→領土獲得のための遠征軍が住民感情を悪化させるような事はまずやらない
>文禄でそれをやらかしてしまったから支配地域の治安が悪化した

それは戦国時代の常道。異民族の地で情けなんかかけてもしゃーない。略奪でいいんだよ。
(人道的に今の道徳観念からいえばどうかってはなしだが)
まず餓死者続出は住民で、戦争とはそういうもの。軍が干上がるのはその先で、搾取できないなんてはなしじゃない。
最初は焦土化してるから現地調達できない!つってたのに、話また変わるし…なんなのキミ?

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138 2011/06/09(木) 11:01:10 ID:ZOeycDJ/Aw
>半島南部の支配が出来れば北京まで一気に行ける!→進軍ペース的に言えば秀吉にあと何年も生きながらえて貰わなくちゃ困る 無理
>多分これが一番の問題

面支配でなく、単に遊牧民的一時的攻撃なら、モンゴル軍が繰り返してたように可能だし
事実加藤清正は調査目的で、恒常支配を目的としない作戦では、
一気に明領オランカイまで攻め入って居る。
面支配の進軍ペースと、モンゴル軍のそれのような、略奪しながらの攻撃作戦での進軍速度を区別しないとかナニソレ?
ここで話してるのは、そういった戦意削ぎ、明朝を揺るがせるための嫌がらせ的な北京攻撃の可能性でしょう?
モンゴル軍に北京に迫られてはビビって賠償金の当時の明朝にこれが意味を成さないなんてまさか言わないよな?


>それと明軍だけじゃなくて朝鮮軍も加わってっから完全アウェーじゃねぇって事に気づけ

バカだね。朝鮮軍なんか壊滅同然じゃないか。
特に北方では役人と住民の折り合いが悪かったとされ、オランカイ進行なんかじゃ日本軍に加勢して共同作戦を取ってる。
明軍にとってはなおさらのアウェーという側面もあることを忘れてはならない。明軍自身略奪もしてるわけだし(もちろん朝鮮人も)
オランカイ進行でもそうだけど、このあたりはそもそも女真系の住民も朝鮮領内に多く、なおさらアウェーなのである。

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139 2011/06/09(木) 15:00:46 ID:RGYkTpHR7I
その壊滅した朝鮮軍のゲリラ戦法に苦戦したのはどこのどなたでしたっけ・・・

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140 2011/06/09(木) 16:40:08 ID:d6CUVWuZSE
秀吉は明征伐そのものは諦めてたんだろ?
講和条件も、南鮮四道の割譲と
伝統的な勘合貿易の復活、
明国皇女の降嫁を願った、っていう
当時の極東秩序からそうはずれていないものだし。

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141 2011/06/09(木) 17:19:41 ID:RBtBIhtzSk
朝鮮軍は露梁海戦するぐらい余力あんだから壊滅してねぇし制海権を完全に握れてないのはそういう海戦が発生してる時点で証明されてらぁな

>それは戦国時代の常道。異民族の地で情けなんかかけてもしゃーない。略奪でいいんだよ。

町は焦土だし農村部の治安は激悪なんだから、ちょっと突けば即反乱で調達出来ないっつーか現に出来てない
いいんだよ。グリーンだよ!ってなんて片付けられるわけがない
ブレてると言われるのは割と承知してたけど、現実に調達出来てなかったからその辺は否定する分には卑怯極まりないけどなんとでも言えるんですよねこれが
まぁ自分に都合悪い事言えば、当時半島の人口と日本の人口はほぼ同数とか言われてたから、理論的に出来る出来ないで言えば出来たのは間違いないね
ただ、慶長の時点で現地調達案は諦めてるから(戦前の『朝鮮戦役』って本にそんな記述がある)、土台無理な話ってだけ

>面支配の進軍ペースと、モンゴル軍のそれのような、略奪しながらの攻撃作戦での進軍速度を区別しないとかナニソレ?

それを言ったら騎馬民族の進軍と歩兵主体の軍の進軍の違いを区別してないでそんな事を言うのはどうなんだい
文禄のペースは無理との判断で着実な侵攻に切り替えたのに、半島南部押さえたからはいじゃあ文禄のペースに戻すねって
そんなにささっと都合よく戦略が切り替わるの?そんな用意を誰かしてたの?誰か言ってたの?
半島侵攻によって最終的に北京を攻撃する可能性はありえた話だけど、文禄が失敗した時点でたらればを語れるのは秀吉の寿命しかないんよ
文禄で足場固めをしっかりやってれば北京まで届いてたっつーんなら否定するこたぁないけど、そうじゃないんでしょ?
だから本隊が着てればーって言いたいんだろうけど、準備してる間に秀吉死ぬじゃん
例え進撃出来ても年単位で時間かかるんだから秀吉死ぬじゃん 無理じゃん

オランカイの話は上で既に言われてる話をララァの都合に合わせて変えただけじゃん
つーか「明領」オランカイってお前すげぇ馬鹿な事言うのな

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142 2011/06/09(木) 19:49:54 ID:W1G0fjIjY6
兵糧をほとんど国内から海路で運ばなきゃならないような状態で、
北京攻略なんてまず不可能だろうな。

しかも前田、徳川ら本隊まで渡海すれば
さらにそいつらの兵糧も運ばなきゃならずますます補給が困難になる
だから秀吉は既に半島南部割譲とかより現実的なものに目標を切り替えてたんだろ

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143 2011/06/09(木) 20:55:16 ID:.ExZ.FFRvI
>さらにそいつらの兵糧も運ばなきゃならずますます補給が困難になる

そう、正にその通り。
補給が最も大事なのに、それどころか秀吉渡海時に用意していた食糧さえ手をつけてるんだよね>先発組み
その状態でどうやって戦え、だよなw
この辺は「補給戦」を読めば理解できる。

「略奪しながらなら北京までいける」
それなんて牟田口?ww

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144 2011/06/09(木) 20:57:58 ID:.ExZ.FFRvI
>>143
ちょっと間違えた
×秀吉渡海時に用意していた
○秀吉が渡海した時のために用意していた

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145 2011/06/13(月) 13:45:09 ID:iE94DH5KGs
>>143
先発組みが手をつけてる、と書くと、先発組みが
ギンバエとかいけないことしてる響きなんで補足しとくぞ。
釜山の御蔵米は、第一次出兵の際の兵糧難であっても
厳重な管理下に置いてある。符管理者は早川長政・毛利重政。
のちに福島正則・毛利友重。
この御蔵米の拠出は、「新米との入れ替え」を名目に
在番将兵の兵糧として流用されてる。
どんな情況下でも、絶対に備蓄量を割り込ませるつもりは
無かったと思う。だから表向き「入れ替え」としたんだろう。

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146 2011/06/14(火) 21:36:00 ID:8cq/tPT0aw
馬はどうなんだろう?
日本の馬を連れて行っても、大陸じゃ使い物にならなさそう。
朝鮮半島じゃ調達は難しそうだし、いかに歩兵、鉄砲隊が優秀でも、優秀な騎馬隊が無いと、
中国本土への侵攻は難しそうだ。

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147 2011/06/14(火) 22:04:59 ID:iwzsuj2Dro
幕末の頃の写真で見ると、朝鮮の馬はどちらかと言うとロバに近いが日本の馬はサラブレッド程ではないものの体躯ががっしりしてるから、
大陸で使っても問題ないレベルなんじゃないかな。

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148 2011/06/14(火) 22:23:51 ID:bdkUhADzto
日本の在来馬はこれくらいかな
小さいけどずんぐりしてて頑丈、輸送に向いていたらしい
そういや明の遼東兵の馬は巨大だとかフロイスの「日本史」に書いてあったな

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149 2011/06/15(水) 11:17:20 ID:nwMqyiGOfg
おうまさんパカパカ

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150 2011/06/16(木) 11:47:14 ID:qF1vtj99Gs
ここでララァが一生懸命言ってる伊達・徳川の本隊とやらって何?

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151 2011/06/23(木) 13:01:33 ID:HctxJ9D9U.
結局ララァの無能っぷりを晒すだけの流れだったな

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152 2011/06/23(木) 17:09:37 ID:GGNMPeanmE
馬は大きければいいという考えはチョンと同等の知性しか持ち合わせていない。
サラブレットは脚が早い=戦争で使える、という発想と変わらないのだ。

日本の馬は蔑まれているほど小さくはない。むしろ乗り降りに支障のきたさない高さだ。
そして気性が太く、戦闘において非常に使い勝手がいい。古来から戦いに向いていることは日本では経験を交えて広く認識されていたことだ。
かつて大陸の東西で戦陣を走破したモンゴルの馬なども同じく比較的小型である。

サラブレットなどは気性が神経質すぎてまず戦いには出ることはできない。
大きな馬でいうなら、アラブなどはかつて重馬の名産地であった。
馬に鎧をきせてぶつかりに行くような方法としても使われた。

モンゴルの騎馬軍団が世界中のあらゆる軍団を討ち滅ぼしていったことを見れば、馬の大小よりも、気性やそしてそれにみあった運用方法というものが重要であることがわかる。

日本とモンゴルは同じ多様な馬を活用してきた民族だが、日本と戦闘してモンゴルが世界で初めて負けたというのは馬とはあまり関係ないだろう。

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153 2011/06/24(金) 20:13:42 ID:8wIlJEq0tk:au
モンゴルの馬は小さいんだ…
勉強になった。

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154 2011/06/24(金) 21:50:36 ID:KGhOQFr1lU
日本軍の本隊だったか知らんが、
徳川軍は、小牧長久手で豊臣に勝ってるし、
伊達軍は、東北の覇者で、結構な戦力だったとは
思う。その後、江戸幕府が正宗を随分警戒していた
ことを考えると、少なからず、徳川、伊達軍が
参加すれば、日本側に有利に働いたのは確かだろう。
単なる増派だけの意味ではないと思うが、たられば
の話だ。

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155 2011/06/25(土) 02:40:44 ID:048460tMg.
>>141
>>朝鮮軍は露梁海戦するぐらい余力あんだから壊滅してねぇし制海権を完全に握れてないのはそういう海戦が発生してる時点で証明されてらぁな

漆川梁海戦で壊滅してるよ、余力なんてないから撤退するまでまともな戦闘が出来なかった。
撤退してどんどん日本軍が減って行って(明とは戦争終了の取り決め結んでる)
油断してるところを李舜臣攻撃したけど撤退中の敵を攻撃してしかも急造の海軍の
島津に殺されちゃってるw

>>154
文禄の役では焦土作戦で荒廃して朝鮮半島の補給路確保が困難なため進軍が出来なかっただけであって戦闘ではほぼ圧勝。
慶長の役では補給路確保のため倭城を築いきながら進軍しようとしたが秀吉が死んで撤退しただけ、戦闘では文禄の役同様ほぼ圧勝で逆に蔚山、泗川、順天の戦いで完膚なきまで叩きのめされた明は何も出来ず引いて傍観するようになった。
徳川伊達が加われば更に強くなるが問題は倭城建設しながらの進軍で補給が確保できるかどうか?と朝鮮海軍壊滅したから水路での長距離補給が可能かどうかだ

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156 2011/06/25(土) 08:01:03 ID:W6mzZ5qd8A
実はあの時代、日本よりちょっと前に朝鮮にも宣教師がいってキリスト教があれしていたことって以外と知られてないよな。

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157 2011/06/25(土) 19:09:42 ID:EWN.XCfYqY
>>155
売り言葉に買い言葉で下手な方便を書いてしまっていた、失礼

一応撤退する豊臣軍を追撃戦するぐらいの余力はあった的な言い方でもさすがにこじつけに過ぎるか

>朝鮮海軍壊滅したから水路での長距離補給が可能かどうか

フロイス他そういった話が一切ないので海路や水路による長距離輸送は想定してなかったのかも
全羅道の掌握が前提と明(大した規模じゃないけど)の水軍と朝鮮水軍の残党を完膚なきまでに叩きのめして
海賊も駆逐して一帯の制海権を握らないとあの辺りは厳しいもんで

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158 2011/07/10(日) 22:00:19 ID:KegiUdOiA2
>>155
>徳川伊達が加われば更に強くなるが問題は倭城建設しながらの進軍で補給が確保できるかどうか?と朝鮮海軍壊滅したから水路での長距離補給が可能かどうかだ

そういうこと。
さらにいえば、モンゴル人なんかが得意の略奪しながらの焦土化移動で一気に北京潰しというのも、
文禄の役でやったように考えられるだろう。
当然九州から攻めあがるより、半島南部から攻めあがるほうが容易なわけだし。海路による補給もあろうし。

面での支配でなく、ある程度の位置まで陣地進めれば、北京を支配でなく潰すという遊牧民的な戦術もありうるだろう。
北京壊滅状態にでもすりゃ、勝手に南京に撤退とかして中央集権の全土の支配が崩壊するってのが中国王朝の構造に思うがね。
脅せば官僚どもが離散して首都から逃げ出すんだよ明って国は。

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159 2011/07/11(月) 00:55:53 ID:aQASlJB/9E
>>158
で、伊達徳川の本隊ってどこからの出典なのさ

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160 2011/07/12(火) 00:05:55 ID:Sk3Gw5Of1I
前田、徳川らは渡海予定はあったけど、別に本隊というわけじゃないだろうな

「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、 御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者可爲越度事。」
(立花文書 慶長二年二月二十一日の朱印状)

↑強いて言うならこの秀吉直属の馬廻衆が本隊に当たるんじゃない?

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161 2011/07/12(火) 01:05:43 ID:nFy5bR8oXQ
馬廻衆の規模で本隊なら先に上陸した14、5万の勢力は一体なんなんだろうなw
結局ララァが「俺がこう思うからこうだ」って言ってるだけで、何の資料的考察はなされないんだろうな

>北京壊滅状態にでもすりゃ、勝手に南京に撤退とかして中央集権の全土の支配が崩壊するってのが中国王朝の構造に思うがね。

首都が陥落したらその時点でその国が終わりっつーのは明に限った話じゃあないだろw

まぁそう考えると開封を落とされてもなお南に落ち延びて国の体裁を維持した南宋の高宗のカリスマ性は相当すごかったんだろうな

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162 2011/07/16(土) 09:56:37 ID:z703wPpyF2
いつから日本は遊牧民になったんだろ・・・
騎乗などの遊牧民的な技術がいつのまに日本人に備わってたんだろうな・・・
昨日まで農業で生きてきた人間で構成された軍隊で・・・

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163 2011/07/16(土) 12:32:27 ID:f/bWLPHfvY
>>162
マジレスすると
日本軍に占める馬上(騎兵)の割合はせいぜい1割りくらい
大部分が歩兵だぞ
農民から徴集された足軽は弓、槍、鉄砲による集団戦術を行うだけで
馬に乗ることはまず無い

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164 2011/07/16(土) 16:29:35 ID:xlcPpZ330Y
天正20年3月の陣立表一番、五嶋純玄(本役700名)の内訳を挙げてみよう。

騎馬  27
歩武者 40
足軽  120
小人  38
下夫  280
船頭水夫200
______
合計  705

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165 2011/07/16(土) 16:47:14 ID:xlcPpZ330Y
慶長元年12月、島津義弘の軍役

騎乗   262・・・2.1%
徒歩小侍 300・・・2.4%
無足衆  500・・・4.0%
御道具衆 665・・・5.3%
============
人数   4,806・・38.7%
夫丸   3,900・・31.4%
加子   2,000・・16.1%
_______
合計  12,433

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166 2011/07/16(土) 18:16:02 ID:ZHcAmBycww
>>164
この内、騎馬武者だけを抽出た部隊を作って、略奪しながら北京まで行けるの?
そもそも戦国の騎馬武者だけで戦えるのかな?
歩兵も必要なんじゃないの。

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167 2011/07/16(土) 19:26:15 ID:xlcPpZ330Y
>>166
無理だろ。数が少なすぎるし、朝鮮士民のゲリラ戦が危険。
騎馬武者ってのは領土を持つ身分以上の侍だから、
各部隊の上層指揮官に当る。徴用した下夫人足を置き去りにして、
それだけが突出して先行するとは思えん。ましてや異郷の地。
戦い方は日本国内での合戦とさほど変わらず、官僚的な軍しか
持たなかった朝鮮軍が一方的に押し捲られたと考えたほうが
いいんではないかな。緒戦においては。

4月12日に小西軍が上陸してから、5月2日時点で漢城を攻略してるが、
毛利輝元が家臣に宛てた書状で、「広すぎるんでこの軍勢では
足りない。言葉も通じないし、通事や朝鮮の事情に通じた人間が
必要。ことの他むずかしい」とボヤいてる。で、漢城会議を開いて、
朝鮮八道を諸将分遣で経略することになった。清正だけは忠実に
「すぐ明へ攻め入るべし」と言ったそうだが。

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168 2011/07/17(日) 00:55:57 ID:94wdfvHVwQ
そういえば釜山浦海戦のとき、陸地へ上がった日本軍を追撃しようという意見に対して
李舜臣はまず兵力的に劣ることを挙げ、さらには
「海よりは陸の上で彼ら(日本兵)は勇敢に戦える」
「彼らの中には馬に跨って縦横無尽に活躍する者もいる」
と言って上陸を思いとどまらせてるんだよね
この頃の日本軍はもともと少ない騎兵がさらに減少傾向だったようだが
馬上槍を振るって敵兵を蹴散らす猛者も結構残ってたんだろうな

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169 2011/07/18(月) 18:35:36 ID:t4wb91yPYc
その歩兵が強いんだろ?
なんせ、倭寇でも陰流の剣術を身につけてたってんだからさ。
それに、明軍は全くかなわなかったって話は明史?とかに乗ってる話なんだろ。

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170 2011/07/18(月) 22:12:29 ID:AR87qXYiUg
そんな強烈な連中の進撃を阻止した李如松はもっと評価されるべきだと思うんだけどなー

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171 2011/07/18(月) 22:28:35 ID:p19WlsR3D.
>>170
まあ李舜臣なんか比較にもならないほどの大活躍してるからな
文禄の役で全羅道が日本軍の制圧を免れたのも、結局は明軍来援のお陰だし
こんな言葉がある

「英雄譚や亀甲船があったとしても、朝鮮が生存するのに最も決定的な役割を果たした
軍事的要素は、中国の援助だったのである。」・・・ガリ・レッドヤード

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172 2011/07/19(火) 14:09:51 ID:E0Uo22ODh.
信長も秀吉も李氏朝鮮については イエズス会経由で
「西国の毛利氏」や「九州の島津」及び「四国の長宗我部」みたく
「朝鮮半島随一の戦国大名!?」っていう チョロい認識であったらしいよ?

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173 2011/07/19(火) 14:39:51 ID:gVscdP.35.
朱印状でも「国主参洛の儀」と表記してるから、
国郡制度下における「国」に近い概念だったのかねぇ。

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174 2011/07/20(水) 20:12:19 ID:tiZ45iLhlQ
[訂正]
幾つか書物を読んだ結果、>>140の極東秩序ウンヌンの書き込みは
撤回します。秀吉という人物の思惑が、極東秩序の埒内にあったことを
示すものが見られないため。すんません。

[日本軍の兵站・給養事情]
上陸当初は物資豊富。出征諸将中、糧米を準備しない者に対しては
大坂で米穀貸与。為替米の法を定め、運輸の日時・費用を省略。
緒戦の攻略で、朝鮮の各城から2000〜3000石の兵糧米を入手。
平壌攻略の際は儲量10余万石と言われる兵糧を入手。
各部隊の兵糧が欠乏した場合は敵国民から強制徴収または買い上げ。
また各道経略では、朝鮮民を日本の百姓と位置づけ、年貢上納の契約。
11月頃から兵糧問題が顕在化。翌3月、漢城保持がほぼ不可能な状態に
達した時点で、講和交渉に入る。

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175 2011/07/23(土) 15:08:04 ID:tLr7uzxBog
北京までいけないという意見が大半なんだが、
距離にするとそれほどでもないんだよね、世界地図見るとさ。
鴨緑江から北京までは、大体、江戸、博多くらい、
釜山から鴨緑江までもそれくらい。
江戸、博多間を往復するくらいで行ける。
補給が云々というが、これは漢城あたりから船を出して遼東半島
の先端に倭城を作れば北京は目と鼻の先だと思うんだが・・・
タラレバの話なんで、そうムキにならんでくれよ・・・

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176 2011/07/23(土) 18:55:13 ID:cNwSJfhzcc
>>175
なんで『鴨緑江から』なんだよw
それなら『肥前名護屋から』とするべきだろ。

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177 2011/07/24(日) 00:49:24 ID:sBiLiq8KCk
確か遼東方面から北京に至るまでの間に凄い鉄壁の城塞があって、
ヌルハチも結局そこを抜けずに死んだんじゃなかったっけ?
補給の問題もあるがこの城塞も厄介だな

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178 2011/07/24(日) 14:18:53 ID:ePJixQ2.Z.
>>176
肥前名護屋からでもいいと思うよ。
海が間にあるが、距離的にはほぼ一緒。
案外、近いんだよ。北京は。
>>177
そうかぁ、城壁があるのか。
どれくらいの城壁かしらないけど、
万里の長城って、匈奴の侵入に対して
殆ど機能しなかったらしいけど、
確かに、厄介だな。

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179 2011/07/24(日) 22:36:47 ID:sBiLiq8KCk
>>178
調べてみたらヌルハチを防いだ城塞って山海関のことらしいな。

ウィキによれば「明末はヌルハチ、ホンタイジによる満洲族の侵入を阻止し、守将であった呉三桂が清朝に帰順するまで不落の要塞だった」そうな

返信する

180 2011/07/24(日) 23:06:06 ID:abS9/G9WCo
>>178
朝鮮各城に、兵站維持のために兵を詰めておく必要がある。従って
侵攻軍の先頭には大兵力を置けず、先細りになるんではないかな。
水路侵攻に船舶を割けば、名護屋〜釜山間の海上交通が破綻する。

ヌルハチが攻めあぐねたのは寧遠城。
ただし築城されたのは慶長の役の後。
ポルトガル製の大砲を備えてる。

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181 2011/07/24(日) 23:41:32 ID:abS9/G9WCo
[訂正]
寧遠城の築城ではなく、増改築でした。
すんません。

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182 2011/07/26(火) 00:01:35 ID:c68rhtk8bA
山海関を落とすにはどれくらいの兵力が必要だろうか
城攻め上手の秀吉がどう攻めるのか見てみたい気もする

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183 2011/07/26(火) 00:46:45 ID:HPBAYpYpOI
>>182
強点をあえて攻めずとも、
内蒙の部族を懐柔して熱河方面から長城を越え、
河北省に侵入するほうが被害も少なくて済む。
実際、スレ・ハンはそうやって北京侵入を果たしてる。

もっとも、朝鮮半島維持でかなりの兵力を取られるし、
補給線が伸び切って不利だろう。明の政権の自壊は
秀吉の時代よりもう少し先なので、日本軍が侵攻しても
甘く見積もって膠着状態ではないかな。

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184 2011/07/26(火) 01:10:52 ID:c68rhtk8bA
まあ、内蒙の部族はゴリゴリの中華思想の朝鮮人よりも懐柔しやすそうだな

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185 2011/07/26(火) 20:53:20 ID:stMKUlK.pk
>>180
相当、詳しいね。
寧遠城とやらの攻略がカギのような気がするわ。
大阪の陣の時、徳川軍が大阪城に大筒を打ち込んだ
って話があるけど、それで、その城って攻略無理??
多分、秀吉でも入手可能だよね、大筒って。

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186 2011/07/27(水) 00:12:52 ID:z/r4IGzFqw
>>185
カンペ見ながらなので、そう詳しくはない。興味がある。
『世界の歴史14・明と清/三田村泰助著』
『日本の歴史15・織田豊臣政権/藤木久志』
『文禄・慶長の役/中野等』『朝鮮の役/旧参謀本部・桑田忠親・山岡壮八』
著作物の時代ごと、著者によって推測の仕方や論調も違うので
確度を持って書けるのは、進軍状況の推移くらいなもんだろうか。

寧遠城や山海関については攻城専門じゃないのでナンとも言えん。
ただ、正攻法に固執しても、あまりいいことは無いんじゃないかな。
補強工事前・ポルトガル式大砲装備前の寧遠城を攻めるとしても、
そこまでの道程で明側が何の抵抗もなく篭城するとは思えんし。
日本側は侵攻軍の先頭が先細りになり、補給でも苦労するだろう。
秀吉が入手可能とすれば3百匁玉の大筒。日本の城壁と違い、分厚い城壁を持つ
シナの城は簡単には破壊できないと思う。明軍には仏郎機砲(フランク砲)がある。
あと、散弾砲の霹靂砲、威遠砲、虎蹲砲などがある。

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187 2011/07/27(水) 02:32:47 ID:H6hA/RbG1M
文禄・慶長の役の研究については
未だに戦前の「日本戦史・朝鮮役」が最優良書であり続けているという現状

李舜臣が日本軍の補給路を寸断しただの、蔚山戦役は日本軍の惨敗だの
慶長の役で朝鮮・明軍の反攻により、半島南部から一歩も進むことができなかったとか
李舜臣のしょーもない海鮮ばかり取り上げておきながら
文禄の役における最大規模の激戦である碧蹄館の戦いをガン無視したり
戦後の書籍は九割クソの山だ

碧蹄館といえば、「秀吉の野望と誤算」はよかった
碧蹄館の戦いの詳しい推移や戦闘描写が書かれた本としては
戦後でほとんど唯一と言っていいんじゃないか?

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188 2011/07/27(水) 02:40:06 ID:uCXkvXnoZ.
総括すると結局朝鮮支配まであと一歩のところで
秀吉死去で戦争終結。
まー引き分けなんじゃなかろうか

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189 2011/07/27(水) 19:52:46 ID:6lPpgKc4fs
>>186
うーん、明側の装備がよくて、城壁が石造りで堅牢か。
なるほど。確かに困難なのは確かだ。
>>188
結論はそうだろうね。それを言っちゃうとそれで終わりですw
しかし、強引に引っ張ると、(すまん)
上の方でチラホラ言われている・・・
朝鮮の民衆のゲリラ的な反抗が秀吉軍の進軍を阻むとかは無理だと思うんだ。
武器もなく戦闘経験もない民衆が軍隊に向かってゲリラ的な闘いをするなんて、
殆ど無理。第二次大戦のフランスのレジスタンスだって連発式の銃がある時代
でも、あまり意味がなかった。
戦国時代の日本農民は、隣国が攻めてきたら、逃げて身を隠してたらしいし。
戦時に民衆がとる行動は普通は常識的に考えてそんなものだろうと思う。
補給に関しては、最初は基本的に秋に進軍し現地からの略奪しかないだろうと。
略奪しながら進む。冬は築城して籠城。
で、支配できたら支配地から租税を徴収する。(そう簡単ではないのは
確か)
制海権、これも結構困難だけど、朝鮮の亀甲船が威力を発揮したのなら、
村上水軍と戦った時に信長が用いた、大型の鉄船って行けると思うんだけど…

まぁ、いつもの通りのタラレバ…

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190 2011/07/27(水) 20:38:52 ID:ubtDO7EVHM
ゲリラとかレジスタンスとかは情報収集と輜重隊の襲撃が中心で、普通正面きって戦わない
簡単に略奪なんて言うけど、禍根は残るし治安は悪くなるし最悪反乱起こされるし自分達で物資かき集めなきゃいけないしで
ものっすごい非効率な行動だから、支配を前提にしてんなら基本的にご法度
モンゴルがどうたらと考える人もいるだろうけど、モンゴル帝国だって攻める前に協力するか死ぬかを事前に通告して無駄な事を避けてたから
選択肢として考えるのは止めといた方がいいと思うよ

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191 2011/07/27(水) 20:57:53 ID:6lPpgKc4fs
>>190
その通りだけど、日本での戦国時代、略奪は当たり前だったんだよね。
しかし、その後は統治した。こういうことが成立したのは、武力がまかり通る
時代だったからだと思う。有無を言わさぬ強権政治だった。すぐ殺されちゃう時代。
そんな、怖い連中に命がけで反抗できるかな??
略奪なんて、今の常識では確かに無理だ。
でも、それが成立したのは歴史が語る通り。
日本国内がそうだったからと言って、外国でもそれが通じるとは言えない。
でも、中国人や、朝鮮人は、日本の農民と違うのかな?
中国は元や清に支配されたし、朝鮮はまぁ、朝貢の国。
日本もアメリカに負けた時、相当悔しかったろうけど、武力で負けて、武力での反抗
は一切できなかった。心理的に反米であっても。

民衆のゲリラ戦はまずあり得ないというのは同意して貰える?
モンゴルに関しては案外真摯だったのは分かる。

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192 2011/07/27(水) 21:33:24 ID:7OeQLfG5Wg
>>191
仏郎機砲などについてだが、明軍にそういう火砲類が「ある」という話であって、
実戦における有効性は別らしい。明軍の火砲のうち、幾つかは運用性能と効果で
問題があり、使い物にならない火砲もあったとある。ただし、明軍のどの火砲が、
どのように使えないかの記述は得ていないんで、詳細は分からない。
歩兵用の銃火器は、明軍は仏郎機銃(3本銃身、3人で操作する)があるだけで、
日本軍の火縄銃(当時の日本は世界最大の銃保有国)に利がある。

朝鮮人民の制圧だが、たとえば島津軍による全羅道海南経略では、一般民衆と上官との
切り離し工作をやってる。民衆には居邑への還住を促し、上官を探し出して誅戮する。
この結果、両班・士大夫と一般民衆との離間が生じ、恭順と密告が相次ぎ、
日本式の軍政と徴税関係が成り立つ。大きな問題は、朝鮮人民の日本兵に対する遺恨、
そして事大主義(中華属邦意識)。特に事大主義は根強いから、台湾のように3世代
くらいに亘って再教育を施さないと、対日反感の芽がいつまでも残るだろう。
従って、恭順しない民衆の粛清・鼻削ぎが続くことになる。

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193 2011/07/28(木) 00:16:07 ID:6oKXgwps6A
>>191
>略奪は当たり前だったんだよね

当時の農村では隣国からの侵攻があった場合、侵攻部隊に対して使者を出して「協力はするから略奪はしないでね」って
約束を取り付けて(約束状の名前は失念した)やり過ごしてた事実もあるので、思ってる程危険だったわけでもないよ
信長流を受け継いでた秀吉が略奪を意図してやるかなーって感じ

>民衆のゲリラ戦はまずあり得ないというのは同意して貰える?

どこまでをゲリラ戦の範疇にするのかで変わるけど、正面から向かってくるなんてことはないだろうね

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194 2011/07/29(金) 00:41:17 ID:l1fXA9mUas
敵の戦意を挫き、経済基盤を叩く最良の手段は放火と略奪。
特に後者の場合、士気が大いに高まる利点があり、武将は略奪の
期間を区切って黙認した。(中略)
畿内に勢力を拡大した織田家は一銭斬りで軍紀を厳格にしたが、
こと合戦での略奪となると、一定条件下にこれが許された。
(【絵解き】「雑兵足軽たちの戦い/東郷隆」一部抜粋)

織田と言えば放火だが、焼働き・焼き捨てなどは下級兵士(徴集兵)の
役目で、ほとんど戦功の中に数えられず、田畑を潰す行為も足軽軍(いくさ)
の内に含まれるので、あまり言及されないのだろう。

朝鮮役での略奪の模様は幾つかあるが、豊後臼杵の太田飛騨守一吉に従った
真言僧慶念が朝鮮士民の拘引・売買、殺戮について書き表してる。
同じ陣中の大河内秀元も、下級兵士たちが山や谷間に分け入って略奪・生捕などを
行ってる様子を従軍記に書き残してる。日本の地方では、政治的動機より略奪行為
そのものが合戦目的となっていたこともあったので、部隊によりその慣習が
そのまま現れたのだろう。

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195 2011/07/29(金) 17:45:38 ID:elTiZIkRSw
略奪の事実云々についてはそりゃその通りだけど、自分が言いたいのはそれを軍事作戦上の名目として秀吉がやるかどうかでして
武田や上杉や島津に至っては軍事的行動として略奪乱取りの類をしまくってはいたけど、信長は上洛以後は表向きでは禁止させているし
秀吉に関して言えば中国攻めで信長の命で見せしめの虐殺をやっちゃったが為に播州に反乱の種を撒いちゃった過去があるから
指揮系統の末端が部下に対する報酬として暗黙の了解の上での略奪行為を働く事はあっても
部隊の進軍を確保するために組織的な略奪・陵辱を秀吉が指示するというのはちょっと想像がつかない

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196 2011/07/29(金) 19:01:03 ID:Dx4arl6JwQ
>>195
信長や秀吉が、軍事行動の目的として人取りを挙げた例は
寡聞にして聞かんな。あえて御触れで出すような真似はしないだろ。
領土獲得という戦略目的である以上、彼らが優先させるのは現地の安定化
だろうし、そのための禁制だ。ただし、信長が禁裏周辺での狼藉を取り締まった
ことは事実だろうが、反抗的だった上京は焼いてる。京と言っても
すべての地域で静謐を許したわけじゃない。

朝鮮侵攻により、人取りが横行したものの、秀吉は彼らについては
本来の居所へ戻すよう命じてるそうだ(「文禄慶長の役/中野等、49頁)。
徴集兵はやるだろうし、秀吉もそうした慣習は承知の上だったろう。
人取りを行った者に対する処罰もまた聞かないし、現地での人買い業者を
取り締まったという記録も見ない。俺が知らんだけかも分からんが。
侵攻緒戦では、朝鮮民衆の抑圧された心理が朝鮮官僚側へ向かい、
むしろ日本側の占領政策が功を奏しているように伝えられてる。
従って、士気高揚の点から、一時的な狼藉や人取りは、現地指揮官の黙認という
形である程度放置したのだろう。

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197 2011/07/29(金) 19:44:54 ID:elTiZIkRSw
そう考えるとやっぱ略奪しながらの進軍なんて無茶はあり得ないよなぁ
ってことでどうだい>>189

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198 2011/07/30(土) 20:43:37 ID:.BGYQ9QoXE
>>197
上記の意見を、一通り読んだ。
略奪しながら進む。結局、兵糧の話で、戦闘が行われている段階ではやむ終えない
ってことじゃないか?戦争の指導者が直接命令をしなくても、軍隊の維持の為に
食糧が不足したら、現地の司令官は略奪に走ると思う。
それを、戦争指導をしてる秀吉がとがめることが出来ないのはむしろ当たり前では?
しかし、その土地の支配を確立すれば、どこの政権でも、略奪何ぞしなくていい。
租税の徴収で支配できる。
と、思うんだけどな。
抵抗があれば弾圧するのも、どこの国のどんな政権でも同じだろうと…
あと、大砲の話だけど、清が明を滅ぼしたのは1644年、
慶長の役が1597年、50年の期間があるわけで、50年って大した時間だよ。
ラジオが薄型テレビに進化するくらい。
明の要塞が装備してた西洋の大砲って、慶長の役のころにあったの?

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199 2011/07/30(土) 23:37:21 ID:.D/39bpNEM
>戦争の指導者が直接命令をしなくても、軍隊の維持の為に
食糧が不足したら、現地の司令官は略奪に走ると思う

それじゃあ軍目付がいる意味がないじゃないですか

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200 2011/07/31(日) 00:00:12 ID:u9YEJpKkBI
>>198
>明の要塞が装備してた西洋の大砲って、慶長の役のころにあったの?

文禄・慶長のころまだ旧式の仏郎機(フランキ)砲だろうね
清軍相手に活躍したポルトガル製の紅夷砲はまだ配備されてないと思う

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201 2011/07/31(日) 00:11:01 ID:v6i6eVgMAc
>>199
軍目付か…
存在する意味はなかったんじゃないか?
だって、鼻を削ぐとかやったことを軍目付が咎めたとしても、
秀吉がそれを咎めて、武将に伝えて罰しない限り機能しないもんね。
実際、そういうことは行われたわけだし、民衆の鼻を削いだ雑兵が
打ち首になったなんて記録もないわけでしょ?

>>200
なるほど。
ありがとうございます。勉強になります。

あと、明側や朝鮮側の記録があって以下のようなんだが、これに関しては
どうですか?

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった

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202 2011/07/31(日) 03:22:36 ID:VrTzlqzVVE
>>201
なんで鼻削ぎ咎める必要あんのさ

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203 2011/07/31(日) 11:12:40 ID:u9YEJpKkBI
>>201
「宣祖修正実録」「懲秘録」のその記述はいずれも碧蹄館の戦いに関するものだね
ただ、この戦いで明軍に火器がなかったというのは誤り
天野源右衛門の「立花朝鮮記」には「敵大筒を打ちかけ、黒煙を立て喚いてかかる」
とあるし、「吉見家朝鮮陣日記」にも明軍の鉄砲についての記述がある
(画像の「三眼銃」のことと思われる)
朝鮮人が明軍を擁護するために「火器なく云々」などと筆を滑らせたと思われる
「明史」のそれは確か「明史・朝鮮伝」の記述だったと思う

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204 2011/08/01(月) 21:33:08 ID:FVI9obJCX6
>>202
だって、
>>199
が、略奪を咎める軍目付がいたから、略奪なんてできないって言うからさ。
残虐行為って意味では鼻を削ぐほうが残虐なんじゃないの?
やられる側も、食料を差し出したほうが、鼻を削がれるよりましでしょ?
自分の身に置き換えて考えてもそう思わない?
軍目付がいてその後に遺恨を残すと考えるなら、鼻削ぎはやめさせるでしょ。
秀吉は元軍が来襲した時の話を知っていたと思う。元は対馬の民衆の耳を
削いだらしいから、その仕返しの意味もあったと個人的には思っている。

>>203
そうか、日本側が大勝利した戦の話だったというわけだね。
でも、確か、各地の局地的な戦いでも、日本側は結構勝ってたらしいんだよね。
明側の正史に、「わが軍に勝算はなかった」ってのは控え目な記述であったと
考えても、明側の苦戦が推測できると思う。

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205 2011/08/01(月) 23:00:39 ID:CTxU1.ky4A
『戦国合戦の舞台裏/盛本昌広』を読んでるが参考まで。
兵糧の現地支給を行った先例としては、北条氏康が内藤廿騎衆にあてた
書状で、その例が認められる。
信長はおもに商人から兵糧を購入したが、大量に前線に輸送できた要因は
①尾張・三河・伊勢は以前から海上交通が盛んだった
②戦国期に船が大型化し、輸送を促進させた
③余剰米の発生により米市場が成立した
④財政基盤の直轄領を設定し、資金を吸い上げた
⑤金銀の流通が増え商人の活動が活発化していた
と言う点が挙げられてる。

武田家に圧迫された徳川家は積極的に敵地で苅田を行ってる模様。
麦苗薙により敵の補給を絶つ手法は信長自身も率先して行っている。
麦を掘り返し放火する「くろつち」、掘り返しを強調する「七尺返し」など
面白い表現が幾つかある。
馬の飼料は掠奪。これは秀吉も同じで青豆や稗を刈り取るのは許可している。
糠は亭主に断る、とされるが、実質上供出が強制された模様。

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206 2011/08/02(火) 22:55:19 ID:.SM0RUMEEI
>>204
反体制派に対する粛清と、異国の地で首を持ち帰る事が困難だという事で鼻とか耳とか削いだりしてたのであって
何も無差別にあっちこっちでやっとったわけじゃあない
米軍だってWW2やベトナムで似たような事やっとったしケルト人は殺した相手の首を軒に飾ったりしていた
要は撃墜マークみたいなもんだから残虐がどうこうとか言う事自体現代の価値観で見過ぎと言うかなんと言うか

軍目付は名前の通りの監視的役割よりも、前線と秀吉との橋渡し的な役割の方が強い
なので秀吉が軍を維持するための組織的な略奪を禁じているならば軍目付もそう動くわけだし
それを無視して動けば秀吉に情報が伝わって罰せられる
無論、「略奪」の範囲に入らない破壊工作も多々あったと思われるけど、他方で統治政策の試みもされていたわけだから
治安を乱す略奪行為は極力やらないが吉というだけ(つまりは>>195-196の流れ)

軍が維持出来なくなれば略奪に走るという発想だが、そもそも略奪出来る食料が雀の涙ぐらいしか無かったから
文禄の役では維持できる所まで撤退せざるを得なかった
これが全てだと思う
明と日本の収奪に耐え切れる程肥沃な土地というわけでもないしね

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207 2011/08/05(金) 21:56:07 ID:PO5ImNzXhU
>>205
う〜ん、成程としか言いようがないですな。
>>206
確かに、略奪できるほど朝鮮は肥沃ではないと
いう意見は納得できますわ。
というのも、朝鮮で温帯湿潤気候(稲作に適した気候)
は、朝鮮のほんの一部の南部だけ。
殆どの日本と中国の長江以下は温帯湿潤気候。
朝鮮って、北部は冷帯湿潤気候らしくて、多分当時は
(今は知らないが)稲作はまず無理。
小麦の生産も厳しいんじゃないかと思う。
略奪して進む、は確かに無理か・・・
まぁ、でも、兵糧の問題がなければ、引き分けというよりは
むしろ、戦闘に限って言えば圧勝では??

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208 2011/08/06(土) 23:21:32 ID:tZTYCfT1pQ
戦闘だけで言えばほとんど勝ってるから、数と補給の問題がどうにかなってりゃ歴史は変わってただろうね
半島を戦場にしないってのが最善なんだろうけど

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209 2011/08/08(月) 21:57:55 ID:FhiscBRy7w
【日本軍の給養・兵站】
兵糧準備として九州諸将所管の直轄地租米(蔵米)を海路で
兵站基地の名護屋へ輸送・集積。出征中糧米を準備しない者に
大しては米穀貸与。為替米法を定める。
古来、敵の糧食を分捕って味方の給養に充てるのは慣例。
小西行長が平壌城占領時に得た儲量10万余石、黒田長政が黄海道で
得た2万石、このほか各部隊の糧食が欠乏した場合、敵国民から
強制徴収したり、買い上げた例もある。

租米徴収の方法は、日本で実施していた四公六民の法が実施され、
四割の租米を二分して一半を従軍人員に応じて各部隊に給し、
残る一半は以降の作戦用に集積。
慶長の役の日本軍は全羅道・忠清道から前進、その糧食については特に
記録は無い。若干は集積物資、大半は地方物資に拠ったようである。
秋季に行動を開始したこともその理由に基づくものである。
行軍中の糧秣を敵側のものに求めたことは文禄の役の時と同様である。
(「朝鮮の役」旧参謀本部 第一篇)

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210 2011/08/08(月) 22:18:51 ID:FhiscBRy7w
当時日本が推定していた朝鮮各道の分米(租米)石高は、
少々誇大のきらいはあるが、次の通りであった(同上)。

慶尚道 70郡 280万7790石
全羅道 58郡 260万9379石
忠清道 56郡  98万7514石
京畿道 39郡  77万5003石
江原道 26郡  40万2299石
平安道 24郡 179万4086石
黄海道 42郡  72万8867石
咸鏡道 24郡 207万1028石
______________
計  339郡 1191万6088石

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211 2011/10/26(水) 00:32:47 ID:kguhq5VA0Y
ウィキペディアとかに載ってなくて、
あまり知られていない日本軍と明軍の戦いをまとめてみた。
ソースは壬辰戦乱史(の、下巻の参考文献原文)。


・第四次慶州城戦闘(1593年8月6日)
西生浦の加藤勢数千人が突如として慶州を襲撃し、
防衛にあたった明・朝鮮軍は大敗した。
なおも追撃してくる日本軍に明軍参将・駱尚志が
両手に矛戟を抱えて飛び込み、たちまち四人を突き伏せた。
これを見た日本軍は大いに驚き、深追いをやめて撤退していった。
明・朝鮮軍の戦死者は500人を超え、明将の一人が戦死した
(名前は不明)。 日本軍の目的は連合軍への牽制だったのか、
それとも単なる略奪だったのか不明。
明・朝鮮側の記録を見る限りかなり規模の大きい戦い。

・安康戦闘(1593年12月2日)
西生浦の加藤清正の手勢が安康で略奪を働き、
明・朝鮮軍との間で何度か小競り合いが行われた。
新人物往来社の「加藤清正のすべて」の年表にある
「安康において明将劉綎の大軍に大勝を博す」とは
この戦いを指すようだ。
明・朝鮮側の記録を見る限り単なる小競り合いに過ぎず、
大軍でも大勝でもない。

・報恩付近戦闘(1597年9月20日)
朝鮮軍が霧の中から加藤清正の軍勢に矢を射かけ、
数十人を倒した。清正は霧の向こうに伏兵があると考え追撃しなかった。
この後、退却していく加藤勢を参将・彭校徳らの明軍が
青山県のあたりで追撃したという。どちらも取るに足らない小競り合い。
なおこの戦い、無敵の加藤清正軍を朝鮮軍が大破した戦い(笑)
として朝鮮寄りの書籍で紹介されることがある。

・三嘉付近戦闘(1598年3月24日)
三嘉付近で略奪を働いていた島津勢と明・朝鮮軍の間で行われた小競り合い。

・茂朱の戦い(1598年4月8日)
沙斥駅付近で起きた島津勢と明・朝鮮軍の間の小競り合い。
こんな規模の小さい戦闘で明軍の副総兵・李寧が戦死してしまった。
島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。
なお、泗川の戦いで戦死した参将の李寧とは同姓同名の別人。

返信する

212 2011/10/26(水) 21:00:06 ID:SAhmHl9st.
この当時おそらく全世界の火縄銃の半分以上は日本にあったと思われるので、正規戦で日本側がまけることは先ず無い。
近接戦もほぼ全て鍛造武器の日本側が有利と思われる。
下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが、加藤軍が兜だけは支給とかあったようだ
チャイナ側は大砲とロケットおよび榴弾の装備で一部有利、
結局のところ、明軍主力を捕捉撃滅しない限り現地調達がままならないので補給線を延ばせないといった状態で膠着したんだろうとおもわれる。
また当時は今より寒冷と思われるので冬季は越冬場所が必要であったと思われます。

水軍による補給妨害の損害はほぼゼロと思われます。といっても、沿岸域で前進するには当該地域の敵水軍を撃破しない限り局地的な補給の問題はある。

この当時の衛生状態と医療技術からして、遠征の損害はほとんど病死であったと思います。

返信する

213 2011/10/26(水) 21:31:35 ID:kguhq5VA0Y
>>212
>下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが

簡素な御貸具足くらいならあったと思われ
大名家から支給されない場合でも
腹当とか腹巻、胴丸などを雑多に着ていたと思う

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214 2012/01/05(木) 11:28:21 ID:01rBnU6UsY
御貸具足でも古代の重装歩兵盾無し版程度の装備ではあるからな。

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215 2012/01/06(金) 09:38:38 ID:vWWL4nykAM
明代の武将の鎧

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216 2012/01/06(金) 09:41:54 ID:vWWL4nykAM
こちらも明代の武将
日本軍と戦った李如松や劉綎もこんな格好だったのかな
こういう上級武将の鎧は唐とか隋の時代とほとんど変わらないように見える

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217 2012/01/06(金) 11:20:52 ID:KgqfD63zH.
明代の軍装を記した絵画史料とか残ってないもんかね?
倭寇との戦いに活躍した戚継光は実戦に即した戦術や兵器を追求したようだが
どんな格好だったんだろうか?

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218 2012/01/12(木) 09:55:25 ID:h/zMgsa./U
「かの大明国の衆の服装は、表面は赤いとうめんをつけ、
裏はくろがねを二寸四方ほどに切ったものを鎖でつなぎ、
一見、道服のようである。兜もまたくろがねでこれを白くみがきあげている。
小手もくろがねで矢も立たなければ刀でも切れない」
・・・(吉見家朝鮮陣日記)

「漢南(明の南方の兵)は総じて赤し。兜は白みがき。
オランカイ(恐らく遼東兵)は総じて黒く、朝鮮人は総じて白なり。
いずれも三色のいでたちなり」
・・・(上山助右衛門蔚山陣覚書)

日本側の資料に書かれた明の軍装はこんな感じ
明の鎧は固くて刀が通用しないというのは「日本史」の記述とも一致するね
全体的に日本軍より重装備だったんだろうな

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219 2012/01/13(金) 11:38:22 ID:QNjiGY41Dk
こんな報告もあるからな。明軍の全部がそういう重装備ってわけでもなさそうだな。

柳成竜『懲鋆録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。

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220 2012/01/13(金) 17:54:23 ID:u2r36s7Em.
中国と日本の戦い歴史 
663年  白村江の戦い 日本完敗
1274年 文永の役   日本完勝
1281年 弘安の役   日本完勝
1592年 文禄の役   日中引き分け
1597年 慶長の役   日中引き分け
1894年 日清戦争   日本完勝
1937年 日中戦争   日本敗北

トータル戦績
日本 3勝2敗2分け
中国 2勝3敗2分け 

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221 2012/07/02(月) 00:21:38 ID:Gcj9GkS/j2:au
よく慶長の役は最初から形勢不利だったから
全裸道に留まったとされるがまったくの出鱈目。
前回は急いで戦線を拡大しすぎた反省から
秀吉の書状ではまずは全裸道周辺の平定に専念せよとあり
実際、その通りに武将たちは行動していた。
予定では1599年からは石田三成や徳川家康も大陸に渡る作戦だったようだが・・・。

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222 2012/07/02(月) 17:13:03 ID:nNtupD49DU
この戦争で日本側から朝鮮に永住した
「さやか」って根来の雑賀衆の一派なの?
昔、なんかの本で読んだことあるけど。

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223 2012/07/03(火) 11:19:38 ID:F5RcODxfwo
北島万次なんかは加藤清正の家臣で朝鮮軍に投降した
「岡本越後守」が沙也可だと言ってるな
この人物は蔚山城の戦いのとき日本側に降伏を勧告しに来たりしてる

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224 2012/08/01(水) 19:25:34 ID:uzB6yHvp76
秀吉が天下統一の勢いを駆って支那大陸まで侵略の手
を拡げたというのは表層だけを見た浅はかな見方でしか
ない。実際はスペインとの確執だった。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.htm...
「ねずさんのひとりごと」

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225 2012/08/01(水) 21:43:41 ID:CJFYb7RIvA
海賊禁止令を出した時に、海賊(倭寇)側の事情も
宗氏や村上氏なんぞに秀吉は聞いたと思うんだよね。
「お前等なんで、海賊なんぞするんじゃ?直ちにやめんか」
そうすると当然、元寇の時に酷い目にあったので
それに対する復讐であるということは聞いたハズだ。
その時、元寇に住民が耳をそがれた話も聞いたことは間違い
ないでしょう。
だから、仇打ち(武士の使命でもある)の意味もあって
鼻をそぐってことを認めたか命令したかしたんでしょう。
見事に辻褄が合う話じゃん。

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226 2012/08/09(木) 21:32:34 ID:6ldfyyVbRI
ちなみに、文禄慶長の役で
日本にある鼻を埋めた施設を「耳塚」というのはね、
まさに、耳を切られた対馬壱岐などの人を慰霊するために
鼻塚と言わず、「耳塚」というんです。
つまり、慰霊をしているのはまさに対馬壱岐の元寇の被害者
で、「仇をこの秀吉が打ちましたよ」という意味の慰霊の塚なんだよ。

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227 2013/01/26(土) 22:46:59 ID:eBbBAzMZjo
うん。

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228 2013/01/27(日) 12:08:59 ID:n8/xGqlz.s
>>224
電波というか妄想の歴史だなあw

>>当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
と書いてあるその後に
>>そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、
全く反対の事を書いてるしww

>>ペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら
その金をどこから出すんだろ・・レパントでさえ、連合軍2万を出すのがやっとなのに。

スペインが日本征服を狙っていたって・・・日本をおそれていたとかw
スペインの財政状況みれば一目でわかるんだけどなw
スペインは対トルコ&低地諸国対策一本だよ。

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229 2013/10/25(金) 01:43:59 ID:3vjsB2FI7I
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5g...

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230 2013/11/07(木) 14:55:38 ID:gN/kcxKZX.
>>196
緒戦に限らず、交渉期間中(1595-96)秀吉軍統治区に、
朝鮮人が流出したり、朝鮮商人が往来して、
市場が賑わっていて、李氏朝鮮政府が対応に苦慮している記録もあるね。

西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲鋆録巻四


六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、こ屋を建て農耕に従事する者が増えた。

これに対する備辺司の処置を見れば、先ず李永寿が一矢も報いずに
捕らえられたのは不当千万であるとし、晋州判官朴思斉を
巡察史軍営に呼び出し、笞刑を加えて見せしめにした。
宣祖実録巻六十四 六月甲子

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