>>20 君はあくまでも国内の権力争いで思考停止している様だけど
朝鮮征伐はヨーロッパ列強に対する牽制の色が強い
それは、秀吉がマニラ総督に宛てた書状や、キリシタンの弾圧など
残された史料で如実に窺い知る事が出来る
秀吉があと十年長生きしていれば、秀吉のマニラ上陸も夢ではなかったし
秀吉は本気でそうする気だったんだろう
>また朝鮮征伐をするなら先ず東国、とりわけ徳川の財力兵力を減らすべく画策するべきだろう?
>西国の方が近いので脅威を感じていたのかも知れないが…。
一々反論するのもめんどいけど、豊政権下においては
戦場に近い大名が真っ先に動員される事になっていたのよ
例えば、小田原討伐の時はすでに朝鮮遠征が決まっていた事もあり
西国の大名は動員を免除されている
あと上にも書いたが、徳川などの大名も明軍との決戦要員として
秀吉と一緒に渡航する予定だった。
君が主張する東国大名の兵力を削ぐ事も、秀吉があと少し長生きしていれば可能だったわけだ
繰り返すが、最悪のタイミングで秀吉が死んだだけだよ
>豊臣家の安泰の為の方策
国内統治に勤めれば多少の延命は可能だったろうが、どの道滅んでいただろう
秀吉に実子が十何人もいて、
秀吉の晩年に成人している跡継ぎがいれば
秀吉も豊政権の存続を第一に考えただろうがあの状況じゃ難しい
秀頼は幼児、秀長が死んで、頼みの利家も老体、三成には人望がない、豊家の直轄領が少なすぎる
政権の存続は四面楚歌と言っていい状況だろう
賢明な秀吉がその事に気付かなかったとは思えない
そして、その秀吉の心境は辞世の句に良く表れている
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
一応補足しておくけど、浪速(大阪の意)のこととは、
大阪を本拠地とする豊政権のこと
秀吉はこのタイミングで自分が死ねば、
豊政権は滅亡すると確信していたと思うよ
日本史上、空前絶後の足跡を残した男が
我が子可愛さのあまりに、絶対に無理だと悟りながら
家臣に泣いて縋った気持ちを思うとなぁ・・・
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