文禄・慶長の役総合


▼ページ最下部
001 2011/04/06(水) 16:00:43 ID:qpFea/U0/M
戦国オールスターズが大陸へ打って出てドンパチやった大戦争、
文禄・慶長の役について自由に語ろう。

返信する

※省略されてます すべて表示...
213 2011/10/26(水) 21:31:35 ID:kguhq5VA0Y
>>212
>下級兵の鎧装備はほとんど無きに等しいが

簡素な御貸具足くらいならあったと思われ
大名家から支給されない場合でも
腹当とか腹巻、胴丸などを雑多に着ていたと思う

返信する

214 2012/01/05(木) 11:28:21 ID:01rBnU6UsY
御貸具足でも古代の重装歩兵盾無し版程度の装備ではあるからな。

返信する

215 2012/01/06(金) 09:38:38 ID:vWWL4nykAM
明代の武将の鎧

返信する

216 2012/01/06(金) 09:41:54 ID:vWWL4nykAM
こちらも明代の武将
日本軍と戦った李如松や劉綎もこんな格好だったのかな
こういう上級武将の鎧は唐とか隋の時代とほとんど変わらないように見える

返信する

217 2012/01/06(金) 11:20:52 ID:KgqfD63zH.
明代の軍装を記した絵画史料とか残ってないもんかね?
倭寇との戦いに活躍した戚継光は実戦に即した戦術や兵器を追求したようだが
どんな格好だったんだろうか?

返信する

218 2012/01/12(木) 09:55:25 ID:h/zMgsa./U
「かの大明国の衆の服装は、表面は赤いとうめんをつけ、
裏はくろがねを二寸四方ほどに切ったものを鎖でつなぎ、
一見、道服のようである。兜もまたくろがねでこれを白くみがきあげている。
小手もくろがねで矢も立たなければ刀でも切れない」
・・・(吉見家朝鮮陣日記)

「漢南(明の南方の兵)は総じて赤し。兜は白みがき。
オランカイ(恐らく遼東兵)は総じて黒く、朝鮮人は総じて白なり。
いずれも三色のいでたちなり」
・・・(上山助右衛門蔚山陣覚書)

日本側の資料に書かれた明の軍装はこんな感じ
明の鎧は固くて刀が通用しないというのは「日本史」の記述とも一致するね
全体的に日本軍より重装備だったんだろうな

返信する

219 2012/01/13(金) 11:38:22 ID:QNjiGY41Dk
こんな報告もあるからな。明軍の全部がそういう重装備ってわけでもなさそうだな。

柳成竜『懲鋆録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。

返信する

220 2012/01/13(金) 17:54:23 ID:u2r36s7Em.
中国と日本の戦い歴史 
663年  白村江の戦い 日本完敗
1274年 文永の役   日本完勝
1281年 弘安の役   日本完勝
1592年 文禄の役   日中引き分け
1597年 慶長の役   日中引き分け
1894年 日清戦争   日本完勝
1937年 日中戦争   日本敗北

トータル戦績
日本 3勝2敗2分け
中国 2勝3敗2分け 

返信する

221 2012/07/02(月) 00:21:38 ID:Gcj9GkS/j2:au
よく慶長の役は最初から形勢不利だったから
全裸道に留まったとされるがまったくの出鱈目。
前回は急いで戦線を拡大しすぎた反省から
秀吉の書状ではまずは全裸道周辺の平定に専念せよとあり
実際、その通りに武将たちは行動していた。
予定では1599年からは石田三成や徳川家康も大陸に渡る作戦だったようだが・・・。

返信する

222 2012/07/02(月) 17:13:03 ID:nNtupD49DU
この戦争で日本側から朝鮮に永住した
「さやか」って根来の雑賀衆の一派なの?
昔、なんかの本で読んだことあるけど。

返信する

223 2012/07/03(火) 11:19:38 ID:F5RcODxfwo
北島万次なんかは加藤清正の家臣で朝鮮軍に投降した
「岡本越後守」が沙也可だと言ってるな
この人物は蔚山城の戦いのとき日本側に降伏を勧告しに来たりしてる

返信する

224 2012/08/01(水) 19:25:34 ID:uzB6yHvp76
秀吉が天下統一の勢いを駆って支那大陸まで侵略の手
を拡げたというのは表層だけを見た浅はかな見方でしか
ない。実際はスペインとの確執だった。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.htm...
「ねずさんのひとりごと」

返信する

225 2012/08/01(水) 21:43:41 ID:CJFYb7RIvA
海賊禁止令を出した時に、海賊(倭寇)側の事情も
宗氏や村上氏なんぞに秀吉は聞いたと思うんだよね。
「お前等なんで、海賊なんぞするんじゃ?直ちにやめんか」
そうすると当然、元寇の時に酷い目にあったので
それに対する復讐であるということは聞いたハズだ。
その時、元寇に住民が耳をそがれた話も聞いたことは間違い
ないでしょう。
だから、仇打ち(武士の使命でもある)の意味もあって
鼻をそぐってことを認めたか命令したかしたんでしょう。
見事に辻褄が合う話じゃん。

返信する

226 2012/08/09(木) 21:32:34 ID:6ldfyyVbRI
ちなみに、文禄慶長の役で
日本にある鼻を埋めた施設を「耳塚」というのはね、
まさに、耳を切られた対馬壱岐などの人を慰霊するために
鼻塚と言わず、「耳塚」というんです。
つまり、慰霊をしているのはまさに対馬壱岐の元寇の被害者
で、「仇をこの秀吉が打ちましたよ」という意味の慰霊の塚なんだよ。

返信する

227 2013/01/26(土) 22:46:59 ID:eBbBAzMZjo
うん。

返信する

228 2013/01/27(日) 12:08:59 ID:n8/xGqlz.s
>>224
電波というか妄想の歴史だなあw

>>当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
と書いてあるその後に
>>そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、
全く反対の事を書いてるしww

>>ペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら
その金をどこから出すんだろ・・レパントでさえ、連合軍2万を出すのがやっとなのに。

スペインが日本征服を狙っていたって・・・日本をおそれていたとかw
スペインの財政状況みれば一目でわかるんだけどなw
スペインは対トルコ&低地諸国対策一本だよ。

返信する

229 2013/10/25(金) 01:43:59 ID:3vjsB2FI7I
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5g...

返信する

230 2013/11/07(木) 14:55:38 ID:gN/kcxKZX.
>>196
緒戦に限らず、交渉期間中(1595-96)秀吉軍統治区に、
朝鮮人が流出したり、朝鮮商人が往来して、
市場が賑わっていて、李氏朝鮮政府が対応に苦慮している記録もあるね。

西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲鋆録巻四


六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、こ屋を建て農耕に従事する者が増えた。

これに対する備辺司の処置を見れば、先ず李永寿が一矢も報いずに
捕らえられたのは不当千万であるとし、晋州判官朴思斉を
巡察史軍営に呼び出し、笞刑を加えて見せしめにした。
宣祖実録巻六十四 六月甲子

返信する

231 2013/12/27(金) 01:06:20 ID:Qt.U9Cmkzk
朝鮮人に首をと競れる朝鮮人↓

「従軍して敵軍の首一級を斬った者には、科挙及第を許可することになり、
 人々はこれを斬首及第と称した。
 それからというものは、飢餓にさいなまれていた百姓らに、もう一つの災難がふりかかり、
 いつどこで首を掻き取られるか分からぬ厄介な時世となった。
 同胞を殺して剃髪し敵軍の首と偽ってさし出す者あれば、敵軍兵の首であっても、
 他人から買い入れて提出する者もあり、時には売買のかけ値が問題となって訴訟に
 及ぶこともあった。ともあれ、こうして二三品の昇叙にありつくというしまつであった」

春坡堂日月録巻九

科挙とは役人になるための試験だが、戦乱であったため
敵の首をとれば試験をパスするという特別措置で朝鮮人の首をとって偽装した。

また明(中国)からの援軍、東征軍が、
虚偽の戦功を作るために朝鮮人の首をとっている。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcweybss...

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:167 KB 有効レス数:231 削除レス数:0





歴史掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:文禄・慶長の役総合

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)