世界史の勉強


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001 2010/04/13(火) 20:14:29 ID:BE8gxiLQcA
世界史そのものには特別興味は無かったが、語呂暗記・リズム暗記などの手法に少々凝ったような気がする…

【スペイン統一】イサベルは ひと夜で国[1492]を 統一し
 
 ※ 同年、コロンブスの西インド航路探検

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※省略されてます すべて表示...
142 2010/06/01(火) 22:05:54 ID:rVnq9ZvMrQ
【海の民族】
 
 前13C末〜前12Cに、トラキア・クレタ方面から、東地中海一帯に移動・侵入
 
 → ヒッタイトとミケーネ文明の滅亡、エジプト新王国の衰退
 
 → 地中海東岸のフェニキア人・アラム人・ヘブライ人(=セム系3民族)がヒッタイト・エジプト新王国両国の支配から解放されて繁栄

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143 2010/06/02(水) 00:32:40 ID:Vvd5wCilyM
あんだけ必死にあちこちに糞スレ立てて必死こいてんのに
聞いた事も無いようなコテにトップ奪われてる米押し達磨ってwww

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144 2010/06/02(水) 22:06:52 ID:MRBw/XSyyc
【ユダヤ教の特色】
 
 1.唯一神ヤーヴェ(ヤハウェ)信仰
 
 2.選民思想
 
 3.救世主(メシア)待望
 
 4.『旧約聖書』

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145 2010/06/03(木) 22:06:02 ID:uysTrX161Y
【ヘレニズム世界形成】
 
 ペロポンネソス戦争→カイロネイアの戦い→アルベラの戦い→ディアドゴイ戦争

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146 2010/06/03(木) 23:54:25 ID:uysTrX161Y
【アテネの民主政治の形成過程】
 
 前621:ドラコンの成文法
 
 前594:ソロンの改革(財産政治と債務奴隷禁止)
 
 前561:ペイシストラトスの政治(僭主政治)
 
 前508:クレイステネスの改革(オストラシズムと新10部族制・500人会)
 
 前500〜前449:ペルシア戦争(無産市民の参戦 → 参政権の要求)
 
 前443〜前429:ペリクレス時代(直接民主政治の完成)

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147 2010/06/04(金) 00:09:57 ID:XNxcKIg9YA
がんばれ

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148 2010/06/04(金) 07:31:58 ID:3FKY8VSszA
147 デュポン
どんどん埋めてしまえ!僕が許可するから!

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149 2010/06/04(金) 23:03:49 ID:P2G0zx3HZA
【ペルシア戦争】
 
 第2回;
  
  前490:マラトンの戦い
 
 第3回;
  
  前480:テルモピレーの戦い・サラミスの海戦
  前479:プラタイアの戦い

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150 2010/06/04(金) 23:04:25 ID:P2G0zx3HZA
【スパルタの特色】
 
 1.ドーリア人が先住民を征服して成立
 
 2.2人の王・少数完全市民・ペリオイコイ・ヘロットで構成
 
 3.リュクルゴス制度(多数のヘロットを支配する為)

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151 2010/06/05(土) 23:06:02 ID:PraL8t22tE
だから立てすぎって、いくつスレ立てたら気が済むのか

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152 2010/06/05(土) 23:12:46 ID:1eRmjZz6fE
【ヘレニズム文化 1】

 マケドニアの王フィリッポス2世はペルシアを討つ為に戦争を決意するが、宮廷内の陰謀により暗殺され、息子のアレクサンドロスがペルシア遠征に着手。
 わずか10年でギリシア、エジプトからインド西部にまたがる大帝国を建設。

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153 2010/06/05(土) 23:24:07 ID:1eRmjZz6fE
【ヘレニズム文化 2】
 
 前331年、ペルシア王ダレイオス3世は、ガウガメラ(アルベラ)の戦いで決定的な敗北を被り逃亡するが臣下に暗殺され、結果、ペルシア帝国は滅びた。
 アレクサンドロスの死後、部将の間に争いが起こり、帝国はマケドニア、シリアのセレウコス朝、エジプトのプトレマイオス朝の3王国に分裂した。
 これら3つの王国は前1世紀までにローマに征服されたが、それまでの約300年間がヘレニズム時代と呼ばれる。

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154 2010/06/06(日) 13:15:21 ID:i4GZax/cmY
155 2010/06/06(日) 13:15:42 ID:i4GZax/cmY
156 2010/06/06(日) 13:15:51 ID:i4GZax/cmY
157 2010/06/06(日) 22:03:50 ID:oGermoKouc
【ヘレニズム文化 3】
 
 前3世紀の半ば、アム川上流のギリシア人が独立してバクトリアを建てると、カスピ海東南にいた遊牧イラン人がパルティアを建国。
 やがて、領地を広げ、西方のティグリス・ユーフラテス川流域を確保し、軍事基地であったクテシフォンが後に首都となった。
 東西交易路である絹の道(シルクロード)を支配し、ここを通る物資に関税を課す事により財源を得て繁栄を齎した。
 しかし、前1世紀の半ば以降、メソポタミア等の支配をめぐって西方のローマと争う事となり、
 国力が弱まった際にササン朝ペルシアによって滅ぼされた。

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158 2010/06/06(日) 22:04:12 ID:oGermoKouc
【ヘレニズム文化 4】
 
 ササン朝の第2代の王シャープール1世は、東方ではクシャーナ朝を征服してインダス川流域に勢力をのばし、
 また、西方ではローマ軍を撃退し、皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にする等、王国の基礎を固めた。
 5世紀後半、中央アジアから遊牧民エフタルの侵入を受けて苦しむが、ホスロー1世が出るに及び最盛期を迎えた。
 後に、突厥と結んでエフタルを滅ぼし、諸制度を改革して王権の強化をはかった。
 しかし、ビザンティン帝国との争いが続き、次第に国力が衰え、7世紀半ば、アラブ人の征服を受けて滅びた。

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159 2010/06/06(日) 22:57:47 ID:oGermoKouc
【共和政ローマ 1】
 
 前6世紀、ローマはエトルリア人の王を追放し共和政を打ち立てたが、政治の実権を握る貴族と平等を求める平民との抗争が続いた。
 自由農民が多数を占める平民は重装歩兵として国防を担っており、平民の権利の保護や参政権を求め、
 ローマ最初の成文法である十二表法、前367年に制定されたリキニウス(セクスティウス)法、前287年に発布されたホルテンシウス法等により権利の拡大をはかった。

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160 2010/06/06(日) 23:28:19 ID:oGermoKouc
【共和政ローマ 2】
 
 その後も、貴族と平民の民主化闘争が続いたが、協力して対外発展を努めた結果、対立が解消されていった。
 前3世紀には全イタリアを支配し、さらに地中海の覇権をめぐってカルタゴと衝突し、前後3回に及ぶポエニ戦争を起こした。
 その戦いに勝ち、カルタゴ領を手に入れ、また、ヘレニズム諸国も従え、ローマは地中海をとりまく大領土を築いた。

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161 2010/06/07(月) 05:52:07 ID:lx9LVArDyg
マッコイ斉藤の時みたいに、地道にアク禁依頼を出し続けよう!
みんなで協力すれば、きっと米押し達磨のアク禁も実現するはず。
こんなときこそ皆で結束しよう!

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162 2010/06/07(月) 22:04:35 ID:163uaZUnJQ
【共和政ローマ 3】
 
 領土拡大によって、ローマには多数の奴隷と多くの富が齎された。
 結果、土地の買い上げによる大土地所有者が現れ、奴隷を使用して大規模農業を行ったので、
 中小農民は没落し、無産者となった。
 また、奴隷達は非常に悲惨な境遇に置かれていたので、しばしば反乱を起こし、殊に、前1世紀中頃のスパルタクスの乱は、全イタリアに及んだ。

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163 2010/06/08(火) 22:06:46 ID:B7dEjc4q4U
【共和政ローマ 4】
 
 これらの反乱を鎮定したのは、貧民を傭兵とした将軍達であったので、やがて、彼らの間で政権をとるものが出てきた。
 ガリアを平定したカエサル、スパルタクスの乱を鎮圧した富豪クラッスス、海賊を討伐したポンペイウスによる第1回三頭政治がその例である。

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164 2010/06/08(火) 22:07:09 ID:B7dEjc4q4U
【共和政ローマ 5】
 
 カエサルが暗殺されるとその後、カエサルの養子オクタヴィアヌス、カエサルの部下アントニウス及びレピドゥスによる第2回三頭政治が行われたが、
 エジプトの女王クレオパトラと組んだアントニウスを前31年のアクティウムの海戦で破ったオクタヴィアヌスが第一人者となった。
 彼は元老院より尊厳者の称号と多大の権力を与えられ、ローマの実権を握った。
 これにより、ローマは事実上、共和政から帝政に移行した。

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165 2010/06/09(水) 22:09:57 ID:LNMRnNkaQY
【ローマ共和制発展の経緯】
 
 前450頃:十二表法
 前367:リキニウス法
 前287:ホルテンシウス法

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166 2010/06/09(水) 22:10:35 ID:LNMRnNkaQY
【共和制ローマの対外関係】
 
 前半(〜前287);
  
  イタリア半島征服期(前272年ギリシア人の都市タレントゥム征服で完成)
 
 後半(〜前27);
  
  地中海世界征服期(前30年プトレマイオス朝滅亡で完成)

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167 2010/06/10(木) 22:05:30 ID:RQTuRmZ.Gc
【ポエニ戦争】
 
 第1回(前264〜前241);
  
  シチリア島の属州化
 
 第2回(前218〜前201);
  
  前216年カンネーの戦い(ハンニバル優勢)
  前202年ザマの戦い(大スキピオ優勢)
 
 第3回(前149〜前146);
  
  カルタゴ属州化

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168 2010/06/10(木) 22:05:50 ID:RQTuRmZ.Gc
【ローマの歴史書】
 
 1. ヴェルギリウス著『アエネイス』(建国・発展の叙事詩)
 2. ポリビオス著『ローマ史』(政体循環史観)→著者は大スキピオに好遇された
 3. リヴィウス著『ローマ建国史』(アウグストゥス時代までのローマ史)

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169 2010/06/11(金) 22:09:07 ID:V2Tz0JdIVw
【帝政ローマ 1】
 
 近代歴史学の祖ランケが「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史の中に注ぎ、近世史の全体は、ローマ史の中から再び流れ出る」と言うように、
 古代ローマは地中海地方の先行諸文明を吸収し、また、『ローマ法大全』をはじめ、多くの遺産を後世に残した。

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170 2010/06/12(土) 22:06:12 ID:6xZAwLgpPA
【帝政ローマ 2】
 
 ローマがカルタゴを滅ぼし、東地中海にも勢力を確立して地中海を事実上の内海としたのは、前2世紀半ばであった。
 帝政期に入り五賢帝時代になると、ローマは最盛期に達し、2世紀初頭には領土も最大となった。
 「ローマの平和」のもと、各地で都市が繁栄し、ギリシア・ローマの文化を帝国全体に浸透させるのに貢献した。

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171 2010/06/13(日) 22:11:00 ID:9FStBMEf2o
【帝政ローマ 3】
 
 しかし、五賢帝の最後の皇帝の治下には繁栄に翳りが見え始めた。
 3世紀に入ると、北方からのゲルマン人の侵入に加え、東方に新たに興った国との抗争が続き、
 ウァレリアヌス帝はその国の王シャープール1世に捕えられて屈辱のうちに死んだ。

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172 2010/06/13(日) 22:11:17 ID:9FStBMEf2o
【帝政ローマ 4】
 
 これらの対外的危機と相まって、帝国各地の軍隊は勝手に皇帝を立てて争い、ローマ帝国は混乱を極めた。
 この危機は、ディオクレティアヌス帝(=四分統治)及びコンスタンティヌス帝(=東西統一)により収拾され、
 ローマは専制君主制(ドミナートゥス)時代へと移行する。

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173 2010/06/14(月) 23:36:15 ID:MRBw/XSyyc
【帝政ローマ 5】
 
 この時代のローマには、後の社会に繋がる重要な変化が色々と現れてくるが、その一つはローマ帝国のキリスト教化である。
 コンスタンティヌス帝は、それまで迫害されていたキリスト教を公認及び保護した。
 しかし、その結果、キリスト教会内部の教義をめぐる対立は、皇帝という世俗権力による正統性の承認を求めて激化した。

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174 2010/06/15(火) 22:07:56 ID:0YyuO32j9k
【帝政ローマ 6】
 
 4世紀のキリスト教会を二分したアタナシウス派及びアリウス派の対立は、
 381年コンスタンティノープルに召集された公会議で、アタナシウス派の勝利が最終的に確認されて結着した。
 5世紀にはイエスの神性と人性を分離する一派が勢いを持ったが、431年エフェソス公会議で異端とされた。

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175 2010/06/16(水) 22:04:28 ID:Adid5gcZSs
【帝政ローマ 7】
 
 ローマ帝国の東西分化と相まってキリスト教世界の東西分化の傾向も見え始め、やがて、西ローマ帝国の滅亡を経て、
 西方ではローマ・カトリック教会の権威が確立していく事になった。

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176 2010/06/17(木) 22:05:19 ID:lRs.ekl4K2
【帝政の変遷】
 
 前27:元首政の開始
 後96:五賢帝時代開始(〜180)
 235:軍人皇帝時代の開始(〜284)
 284:専制君主制開始
 375:ゲルマンの大移動開始
 395:帝国の東西分裂
 476:西ローマ帝国の滅亡

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177 2010/06/17(木) 22:05:38 ID:lRs.ekl4K2
【五賢帝】
 
 1. ネルヴァ
 2. トラヤヌス(ローマの領域最大)
 3. ハドリアヌス
 4. アントニヌス・ピウス
 5. マルクス・アウレリウス・アントニヌス(「大秦王安敦」・哲人皇帝)

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178 2010/06/18(金) 22:06:11 ID:sbxZCEk152
【ローマ帝国・キリスト教 1】
 
 ユダヤ教の中には律法の形式にとらわれたパリサイ派の人達などが現れたが、イエスはこれを強く批判し、愛の教えを中心とする信仰を説いた。
 彼の教えはユダヤ人のみならず、多くの人々の心を捉えるものであり、
 使徒と呼ばれる弟子達の活動、特にパウロによる異邦人への伝道によってローマ帝国内にも広まった。
 イエスの言行を記した福音書や使徒達の書簡などを集めた『新約聖書』は、『旧約聖書』とともに、キリスト教の聖典として用いられている。

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179 2010/06/18(金) 23:56:40 ID:sbxZCEk152
【ローマ帝国・キリスト教 2】
 
 3世紀のローマでは、帝国の統制下で迫害が強行されたが、キリスト教徒は増加の一途を辿った。
 4世紀の初め、ディオクレティアヌス帝の大迫害の後、
 313年にコンスタンティヌス帝はミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。
 帝は325年にニケーア公会議を召集し、教義の統一をはかり、
 キリストを神の子と認めるアタナシウスの説を正統と認め、キリストの神性を否定するアリウス派を異端とした。
 こうして正統教義は、後に、三位一体説として確立した。

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180 2010/06/18(金) 23:56:53 ID:sbxZCEk152
【ローマ帝国・キリスト教 3】
 
 64:ネロの迫害
 303:ディオクレティアヌスの迫害
 313:ミラノ勅令(公認)
 325:ニケーア公会議(教義の統一;アタナシウスの三位一体説を正統、アリウス派を異端とする)
 380:国教化
 392:他教を禁止(国教化の完成)
 432:エフェソス公会議(ネストリウス派を異端とする)

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181 2010/06/19(土) 22:11:58 ID:PkjAt4xqAE
【万物の根源】
 
 タレース:水
 
 アナクシマンドロス:ト・アペイロン(限界の無いもの)
 
 ピタゴラス:数
 
 ヘラクレイトス:火
 
 アナクサゴラス:ヌース(理性)
 
 デモクリトス:原子

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182 2010/06/19(土) 23:18:07 ID:PkjAt4xqAE
【ギリシアの文化 1】
 
 紀元前およそ8世紀頃から、古代ギリシアでは文字で表現される文化が華々しく開花した。
 まずフェニキアから入ってきた文字が基盤になってギリシア文字が創出され、このギリシア文字による傑作が生み出された。
 ホメロスの『イリアス』・『オデュセイア』はともに一万数千行もの大叙事詩で、
 前者はギリシア軍のトロヤ包囲戦を歌ったものであり、後者はトロヤ陥落後のイタカ王オデュセウスの苦節物語である。

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183 2010/06/19(土) 23:18:28 ID:PkjAt4xqAE
【ギリシアの文化 2】
 
 その後、ギリシア文字のテーマならびに様式は多様化してゆく。
 農民の農耕生活を歌ったヘシオドスの『労働と日々』は非常に健康的な内容であり、
 神々の系譜を整理した『神統記』はギリシア人の自然観を見事に描いている。
 ホメロスとヘシオドスの二人の作品の底流にはヒューマニズムが流れている。

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184 2010/06/20(日) 22:08:12 ID:ndTcUDcURM
【ギリシアの文化 3】
 
 紀元前7世紀の半ば頃、都市国家の発達に伴い人間の感性が強調され、抒情詩が現れた。
 レスボス島生まれの女流詩人サッフォーの乙女達を想う歌は有名である。
 その頃、都市国家の市民達は屋外劇場で演劇を観るようになった。
 元来、演劇は酒の神ディオニソスに捧げる祭りから発生したもので、
 国家が事業主体となり、富裕な市民が資金を提供し、オリンピックのように作品が競演された。

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185 2010/06/20(日) 22:08:32 ID:ndTcUDcURM
【ギリシアの文化 4】
 
 作品内容は主として英雄伝説で、
 『アガメムノン』の作者アイスキュロス、
 『オイディプス王』の作者ソフォクレス、
 『アンドロマケ』の作者で最後の悲劇作者と称されるエウリピデスが有名である。
 このような悲劇の他に市民の間で有力者を風刺する喜劇が現れた。
 ペロポンネソス戦争に苦しむ女性を題材に採り上げたアリストファネスの『女の平和』は、その反戦思想で有名である。
 しかし、その後、喜劇の一部は権力者から危険視されて抑圧され、衰退していった。

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186 2010/06/21(月) 22:02:32 ID:Y5racNYdpY
【ギリシアの文化 5】
 
 歴史;
  
  ヘロドトス:ペルシア戦争史・物語的
  トゥキディデス:ペロポンネソス戦争史・批判的
 
 叙事詩;
 
  ホメロス
  ヘシオドス
 
 抒情詩;
  
  サッフォー
  アナクレオン
  ピンダロス
 
 三大悲劇詩人
  
  アイスキュロス
  ソフォクレス
  エウリピデス
 
 喜劇作家;
  
  アリストファネス(著書『女の平和』)

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187 2010/06/21(月) 22:03:11 ID:Y5racNYdpY
【ローマの文化】
 
 キケロ『義務論』;
  
  著者は、共和政期ローマを代表する雄弁家で散文家。
  また、アントニウスの命で暗殺されるまで政治家としても活躍。
 
 カエサル『ガリア戦記』;
  
  著者自身が指揮した征服戦争の記録。簡潔ながらも名文。
 
 ヴェルギリウス『アエネイス』;
  
  ローマ最大の叙事詩。第二のトロヤたるローマの建国を歌う。
 
 リヴィウス『ローマ建国史』;
  
  都市建設以来のローマ国民の事績を記述した歴史書。142巻中35巻が現存。
 
 セネカ『幸福論』;
  
  著者はストア派の哲学者で皇帝ネロの師であった。
  ネロに自殺を強制された。
 
 大プリニウス『博物誌』;
  
  著者は自然科学者であり軍隊司令官。ヴェスヴィオス火山爆発時に殉職。
 
 タキトゥス『ゲルマニア』;
  
  ゲルマン人の風俗を紹介し、退廃したローマ人に道徳的な警告を与えたともいう。
 
 アウグスティヌス『神の国(神国論)』;
  
  壮大なキリスト教歴史哲学を展開。中世に重大な影響を与える。

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188 2010/06/22(火) 22:05:45 ID:TKFzPLHW5o
【ゲルマン移動 1】
 
 近代ヨーロッパ諸国家が中世に起源をもつとすれば、その中世世界を新たに形成した民族の動向を知る事が必要となる。
 ゲルマン民族については、ローマのカエサルやタキトゥスらの作品によって、古い時代の様子を知る事が出来、
 本格的な大移動を開始する以前に、ローマ世界との接触があった事が判る。

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189 2010/06/22(火) 23:03:37 ID:TKFzPLHW5o
【ゲルマン移動 2】
 
 当時、彼らは、国家の最高決議機関である民会をもっていたが、移動期に入ると次第にその機能は失われて王権が強まった。
 大移動は、ヨーロッパの西南部からアフリカの北部に渡る広い地域に向かって行われ、それらの地域に相次いで国家が建設された。

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190 2010/06/22(火) 23:37:46 ID:TKFzPLHW5o
【ゲルマン移動 3】
 
 ゲルマン民族の中で東ゴートは、テオドリックに率いられてイタリアに入り、5世紀末にオドアケルを倒して国を建て、ローマ文化を継承した。
 しかし、6世紀にその国は、東ローマ帝国に滅ぼされ、その後、その国のかつての首都ラヴェンナには新しい文化が栄えた。

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191 2010/06/22(火) 23:38:09 ID:TKFzPLHW5o
【ゲルマン移動 4】
 
 また、西ゴートは5世紀初めにイタリアに入り、抵抗をうける事なく首都ローマを掠奪し、
 さらに、南下した後再び北上し、フランスにすすみ、後にはスペインにまで領土を拡大した。

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192 2010/06/23(水) 22:06:36 ID:ZuQc/4BHk6
【ゲルマン諸部族の動向;部族名/建国地/存続年代/征服国】
 
 西ゴート/イベリア半島/415〜711/ウマイヤ朝
 
 東ゴート/イタリア/493〜555/ビザンツ帝国
 
 ヴァンダル/北アフリカ/429〜534/ビザンツ帝国
 
 ブングルト/ガリア東南部/443〜534/フランク
 
 フランク/ガリア北部/486〜843/分裂
 
 アングル、サクソン/ブリタニア(イングランド)/5世紀半ば〜829/統一
 
 ロンバルト/イタリア北部/568〜774/フランク

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193 2010/06/23(水) 22:06:58 ID:ZuQc/4BHk6
【フランク王国とドイツ 1】
 
 4世紀後半、東方から西進したフン族に圧迫されて、
 ゲルマン人の移動はコロヌスの反乱などで混乱していた西ローマ帝国に集中して行われ、
 各地にゲルマン諸族の国家が成立した。
 こうした中で着実に拡張・発展して西ヨーロッパ世界形成の基礎をつくったのがフランク王国であった。

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194 2010/06/23(水) 23:24:12 ID:ZuQc/4BHk6
【フランク王国とドイツ 2】
 
 特に、8世紀半ばに出たピピンの子カール大帝は四方に遠征し、
 西ヨーロッパ主要部の殆どを領土とする強国を築きあげるとともに中央集権化をすすめた。
 彼はまた、ヨーロッパ各地からアルクィンなどの学者や文人を招き学芸の復興につとめた。
 800年、ローマ教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠を授け、
 カールはここにローマ帝国の理念を受け継ぐ西方の支配者となった。

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195 2010/06/23(水) 23:24:29 ID:ZuQc/4BHk6
【フランク王国とドイツ 3】
 
 カール大帝の死後、フランク王国は、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、東・西フランクとイタリアに3分された。
 東フランク(=ドイツ)では、10世紀初めにカロリング王朝の血統が絶えると選挙王制が採られるようになった。
 こうして王位に就いたザクセン公のオットー1世は、マジャール人を討って自己の地位を固め、
 諸侯をおさえて教会と結び、さらに北イタリアに遠征してローマ教皇を助け、
 962年、教皇から神聖ローマ皇帝としての帝冠を授けられ、ローマ教会の権威と結びつく事となった。

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196 2010/06/24(木) 22:09:17 ID:g4Wi59DGvw
【フランク王国とドイツ 4】
 
 その後の神聖ローマ皇帝は、ローマ教会の保護を口実としてイタリア政策に力を注いだ。
 12世紀後半に出た『赤髯王』ことフリードリヒ1世は、前後6回に及ぶイタリア遠征を展開してローマ教皇と対立し、
 ゲルフと呼ばれる教皇を支持する党派とギベリンと呼ばれる皇帝を支持する党派との党争を活発にした。

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197 2010/06/24(木) 22:09:46 ID:g4Wi59DGvw
【フランク王国とドイツ 5】
 
 その後の皇帝もイタリア政策に専念した為にドイツでは諸侯が分立し、
 13世紀半ばにシュタウフェン王朝が断絶すると約20年に渡り実質的に皇帝の存在しない大空位時代となった。

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198 2010/06/25(金) 22:19:51 ID:30fL.VfIsE
【フランク王国とドイツ 6】
 
 1356年、ルクセンブルク朝のカール4世は金印勅書を出し、皇帝選出の際の混乱を防ぐ為に、聖俗7人の選帝侯に選挙権を限った。
 これはまた諸侯の領邦内の主権の確立に繋がっていった。
 このようにして、ドイツの分邦化が進みながらも神聖ローマ帝国は名目上1806年まで存続した。

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199 2010/06/26(土) 22:23:49 ID:b4C9jNh4.2
【イギリス中世史 1】
 
 古代ギリシア人にとってブリタニア(ブリテン)島は、青銅冶金に必要な原料の一つである錫の供給地でありながら、
 前4世紀半ば以前に関して言えば、ヨーロッパ最果ての海のさらに向こうに浮かぶ島という程度のおぼろげな認識さえ、彼らギリシア人には乏しかった。

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200 2010/06/26(土) 22:24:10 ID:b4C9jNh4.2
【イギリス中世史 2】
 
 しかし、ローマ人と彼らは異なり、共和政末期になると、その支配をヨーロッパ北西部のガリア地方(現在のフランス)にまで拡大した為、
 同地の属州支配を安定確立させる必要からこのブリタニア島に遠征する事を余儀なくされた。

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201 2010/06/26(土) 22:47:41 ID:b4C9jNh4.2
【イギリス中世史 3】
 
 このとき、ローマ軍は島民ブリトン人の激しい抵抗に遭ったが、
 言葉の系統から言えば彼ら島民はガリア地方の住民と同種族のケルト人(現在、アイルランドの住民)に属していた。
 帝政初期には同島の中・南部が属州としてローマ帝国の版図に組み込まれたが、帝国の衰退の過程の中で同島に対する支配は放棄され、
 その後を受けて5世紀半ばからアングロ・サクソン人が新たな征服者として同島に侵入を開始した。

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202 2010/06/26(土) 22:48:01 ID:b4C9jNh4.2
【イギリス中世史 4】
 
 彼らがローマ帝国旧領のイングランド地方に形成した部族国家群は淘汰と統合を重ね、ついに、七王国(ヘプターキー)と呼ばれる分立王国の体制が生まれた。
 この間に、教皇グレゴリウス1世の派遣した使徒達の布教活動によりイングランドはローマ・カソリックのキリスト教圏に繋ぎとめられた。

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203 2010/06/27(日) 22:09:26 ID:9f8uvXA27Y
【イギリス中世史 5】
 
 9世紀前半には、イングランド統一王国がようやく現実しかかったものの、
 その頃からイングランド各地は北海の勢力デーン人(ヴァイキング)による掠奪や侵略の脅威にさらされ、
 11世紀前半には征服者カヌートがイングランド王を称して自らの王朝を同地に開く事態にまで至った。

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204 2010/06/27(日) 22:09:42 ID:9f8uvXA27Y
【イギリス中世史 6】
 
 同王の死によって地元系の王権の復古を見た。
 ところが、イングランドの王位継承を主張したノルマンディー公ウィリアムは、
 1066年にイングランドに侵入し、ヘースティングズの戦いで勝利をおさめ、
 イングランドに王権の強い封建制度を導入した。

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205 2010/06/27(日) 23:39:02 ID:9f8uvXA27Y
【イギリス中世史 7】
 
 このノルマン朝の後、アンジュー伯のヘンリ2世が王位についてプランタジネット朝を創始し、行政や裁判の制度を整えた。
 次のジョン王は、フランス王フィリップ2世と争ってフランスにおける領土の多くを失い、
 カンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と対立して破門され、
 また、失政の為に貴族に反抗され、大憲章(マグナ・カルタ)を承認した。

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206 2010/06/28(月) 22:34:30 ID:NyBcech.fU
【イギリス中世史 8】
 
 しかし、ジョンの子ヘンリ3世はそれを無視したので、シモン・ド・モンフォールを指揮者とする貴族の反乱を招き、
 1265年には大貴族と高位聖職者の他に各州の騎士と各都市の代表者を加えた集会を召集した。これがイギリス議会の始まりとされている。
 エドワード1世のとき模範議会が開かれ、14世紀には次第に形を整え、二院制の議会が確立した。

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207 2010/06/29(火) 22:13:13 ID:pvEupfW9ik
【イギリスの変遷】
 
 1C:ローマの属州
 449:アングロ・サクソン七王国成立
 829:エグベルトの統一(イングランド王国成立)
 9C:デーン人の侵入とアルフレッド大王の撃退
 1016:カヌートの征服
 1066:ウィリアム1世のノルマン朝成立
 1154:プランタジネット朝成立

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208 2010/06/30(水) 22:39:32 ID:cbzyy3nogk
【イギリス身分制議会の成立】
 
 1215:ジョン王、大憲章承認
 1265:イギリス議会の成立(ヘンリ3世⇔シモン・ド・モンフォール)
 1295:模範議会(エドワード1世)

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209 2010/06/30(水) 22:39:48 ID:cbzyy3nogk
【ノルマン&スラブ;第2次民族移動期 1】
 
 イスラム教徒は、8世紀初め、アフリカ北岸からジブラルタル海峡を渡って、
 イベリア半島の西ゴート王国を征服、フランク軍とトゥール・ポアティエで戦い、
 カール大帝もイスラム軍ピレネー山中で敗れた事があった(→『ローランの歌』)。

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210 2010/07/01(木) 22:08:16 ID:rj3.f1nXng
【ノルマン&スラブ;第2次民族移動期 2】
 
 彼らはやがて、かつてローマ人で「われらの海」と称した地中海を支配したが、
 最終的に南イタリアを支配したのはノルマン人であった(→両シチリア王国)。
 ノルマン人は8世紀末から西欧の海岸や河川流域を襲い略奪を繰り返したが、
 徐々に定住するようになった(→北仏のノルマンディー公国;ロロ)。

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211 2010/07/01(木) 22:08:29 ID:rj3.f1nXng
【ノルマン&スラブ;第2次民族移動期 3】
 
 9世紀末、アングロ・サクソン人のウェセックス王国のアルフレッド大王は、
 デーン人の侵入を撃退したが、11世紀前半にはデーン王カヌートが、
 デンマーク、ノルウェー、イングランドに跨る海上帝国を建設した。

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212 2010/07/01(木) 23:38:07 ID:rj3.f1nXng
【ノルマン&スラブ;第2次民族移動期 4】
 
 彼の死後30年ほど経って、ノルマンディー公ウィリアムにより、ノルマン征服が行われた。
 また、ノルマン人は、東方では9世紀中頃ロシア(→ノヴゴロド)を、
 北欧ではスウェーデン、ノルウェー、デンマークの3王国を建設するなど広範囲に渡り活躍した。

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213 2010/07/01(木) 23:38:20 ID:rj3.f1nXng
【ノルマン&スラブ;第2次民族移動期 5】
 
 ヨーロッパ内陸部では、9世紀末から10世紀中頃にマジャール人が、
 ドイツ、イタリアに侵入し、やがて、ハンガリー王国を建国した。
 彼らの侵入を防いだオットー1世は、10世紀中頃、侵入を終わらせ、神聖ローマ帝国を建てた。

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214 2010/07/02(金) 22:36:29 ID:qxXVXrZV26
【ノルマン&スラブ;第2次民族移動期 6】
 
 同国はローマ皇帝理念をめぐってビザンツ帝国と対立し、
 また、スラヴ系諸民族を刺激してベーメン、ポーランドの国家形成を促し、
 彼らの間にローマ・カトリック教を広めた。

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215 2010/07/03(土) 22:15:32 ID:tYOMmBLRKQ
【ノルマン人の移動】
 
 ロシア;
  
  862:ノヴゴロド王国
  882:キエフ公国 → 988:ウラディミル1世のギリシア正教改宗
  
 フランス;
  
  911:ロロのノルマンディー公国建国
  
 イギリス;
  
  1016:カヌートのイングランド征服 → 海上帝国建設
  1066:ノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服 → ノルマン朝の成立
  
 地中海;
  
  両シチリア王国の建国

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216 2010/07/04(日) 23:34:19 ID:hmggCWIe72
【スラヴ族 1】
 
 ドニエプル川流域に住みついた東スラヴのロシア人は、
 9世紀末、ノルマン人の支配の下にキエフ公国を建て、
 10世紀末に出たウラディミル1世の時代にロシアの地をほぼ統一した。

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217 2010/07/05(月) 23:05:45 ID:6STRMSFugU
【スラヴ族 2】
 
 13世紀、モンゴル人が南ロシアにキプチャク・ハン国を建てると、
 東スラヴはその支配に服したが、15世紀にはモスクワ大公国が勢力を強め、
 1480年、大公イヴァン3世はモンゴル人から独立し、自らツァーと称した。

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218 2010/07/05(月) 23:06:00 ID:6STRMSFugU
【スラヴ族 3】
 
 西スラヴは、ヴィスワ川からエルベ川までの流域に広がった。
 ポーランド人は、10世紀に王国を形成し、
 その後、モンゴル人の侵入(→1241年・ワールシュタットの戦い)や、
 ドイツ人の東方植民(→バルト海沿岸;ドイツ騎士団)などの外圧に苦しんだ。

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219 2010/07/06(火) 22:22:18 ID:vPvgDNw.4Y
【スラヴ族 4】
 
 しかし、14世紀末、リトアニア大公国と連合し、
 ヤゲロー朝の下で15〜16世紀に全盛期を迎えた。
 また、チェック人が10世紀に建てた国家は、
 神聖ローマ帝国に属して12世紀にボヘミア(ベーメン)王国となり(→金印勅書)、
 14世紀初頭からはドイツ人の王によって統治された。

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220 2010/07/06(火) 22:22:28 ID:vPvgDNw.4Y
【スラヴ族 5】
 
 ドナウ川流域とバルカン半島に進出した南スラヴは、
 東ローマ帝国の支配を受けたが、そのうちのセルビア人は12世紀に独立し、
 14世紀前半にはバルカン北部を統一した。
 尚、セルビア人は、後に、第1次大戦勃発の直接的原因となった民族である。

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221 2010/07/06(火) 23:55:15 ID:vPvgDNw.4Y
【スラヴ族 6】
 
 また、アジア系のブルガール人も南スラヴに同化し、
 7世紀及び12世紀の二度に渡り王国を建てた。
 しかし、南スラヴ諸族は14世紀末以後、オスマン・トルコ帝国によって征服され、
 以後長くその支配下に置かれた。

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222 2010/07/06(火) 23:55:29 ID:vPvgDNw.4Y
【スラヴ人】
 
 東スラヴ:ロシア人
 西スラヴ:ポーランド人、リトアニア人、チェック人
 南スラヴ:セルビア人、クロアティア人

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223 2010/07/07(水) 22:34:34 ID:dlGfG5Ai5Y
【ビザンツ帝国 1】
 
 東ローマ帝国は、6世紀のユスティニアヌス大帝の時代に、
 アフリカのヴァンダル王国やイタリアの東ゴート王国など、
 ゲルマン人の建てた王国を滅ぼして領域を拡大した。

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224 2010/07/07(水) 22:34:47 ID:dlGfG5Ai5Y
【ビザンツ帝国 2】
 
 彼は『ローマ法大全』の編纂を行った事や、
 首都コンスタンティノープルにセント・ソフィア聖堂を建設した事でも有名である。

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225 2010/07/07(水) 23:11:51 ID:dlGfG5Ai5Y
【ビザンツ帝国 3】
 
 しかし、彼の死後まもなく、東からササン朝ペルシアが東ローマ帝国を脅かし、
 7世紀にはイスラム教徒によってシリアやエジプトを奪われるなどして、
 帝国の領土は縮小された。

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226 2010/07/07(水) 23:12:03 ID:dlGfG5Ai5Y
【ビザンツ帝国 4】
 
 また、北からは、スラヴ人の一部が帝国内に南下して定住した。
 それでも東ローマ帝国は、9〜10世紀には安定した時代を迎え、
 同時期の西ヨーロッパとは異なる独自の世界を展開した。

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227 2010/07/08(木) 22:56:06 ID:NRyzMV6gzo
【ビザンツ帝国 5】
 
 しかし、11世紀以降、東ローマ帝国の没落は決定的となった。
 東からはセルジューク・トルコが侵入した。
 また、西からは、十字軍が帝国内を通過した。

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228 2010/07/08(木) 22:56:33 ID:NRyzMV6gzo
【ビザンツ帝国 6】
 
 とりわけ13世紀には、第4回十字軍が首都を占領してラテン帝国を建国し、
 東ローマ帝国を分裂させた。
 結果、東ローマ帝国は、15世紀半ばにオスマン・トルコによって滅ぼされる事になる。

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229 2010/07/08(木) 22:56:48 ID:NRyzMV6gzo
【ビザンツ帝国 7】
 
 東ローマ帝国では、最初ラテン語が公用語とされたが、
 やがて、ギリシア語がそれにとってかわり、
 ギリシア文化を継承・保存するかたちで学問・文化が発達した。

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230 2010/07/08(木) 22:57:02 ID:NRyzMV6gzo
【ビザンツ帝国 8】
 
 建築においては、円屋根とモザイク壁画を特徴とするビザンツ様式を生み出した。
 宗教の点では、皇帝が教会を支配するという傾向が強かった。

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231 2010/07/09(金) 22:56:38 ID:GFYbmX4Vdo
【ビザンツ帝国 9】
 
 8世紀前半には、聖像禁止令が出されたが、
 これを契機として東西の教会が分裂し、
 東ローマ帝国は東方教会として独自のギリシア正教を確立し、
 これを東ヨーロッパ世界に伝える事になった。

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232 2010/07/10(土) 22:53:17 ID:zQlLJfu2x2
【ビザンツ帝国の皇帝と業績】
 
 ユスティニアヌス(6世紀半ば);
  
  1. ヴァンダル・東ゴートを滅ぼす
  2. 『ローマ法大全』の編纂
  3. セント・ソフィア聖堂の建設
 
 ヘラクレイオス1世(7世紀前半);
  
  1. 屯田兵制
  2. 軍管区(テマ)制
 
 レオン3世(8世紀前半);
  
  1. ウマイヤ朝撃退
  2. 聖像禁止令
 
 アレクシオス1世(11〜12世紀);
  
  1. プロノイア制(地方の有力者に軍事奉仕を条件に、一定の大土地所有を認め地方の支配を許す封建制の一形態)
  2. 十字軍派遣を要請

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233 2010/07/11(日) 22:59:39 ID:MyIibQ17kY
【封建制・荘園制 1】
 
 封建制度は、8世紀頃から古ゲルマン人の間で行われていた従士制と、
 ローマ帝国末期にみられた恩貸地制とが結びついて成立したものであり、
 法制上は、主君(貴族・僧侶・騎士)が臣下に対して封土を与え、
 それに対して臣下が主君に忠誠を誓って軍役を主とする一定の義務を負担する…という、
 主従関係が幾層にも成立した。

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234 2010/07/11(日) 22:59:52 ID:MyIibQ17kY
【封建制・荘園制 2】
 
 この主従関係は、当初、一代限りのものであったが、
 次第に世襲化されるとともに主君は領主となり、
 その領内では裁判や課税について国王の役人の手が及ぶのを防ぐ不輸不入権を持つようになった。

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235 2010/07/12(月) 23:01:00 ID:G52JtgcOzc
【封建制・荘園制 3】
 
 こうして、国王もいわば大領主の一人に過ぎず、
 中世国家は近代的な中央集権国家とは決定的に異なっていた。

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236 2010/07/12(月) 23:01:13 ID:G52JtgcOzc
【封建制・荘園制 4】
 
 封建社会を生産のあり方からみれば荘園制度が基礎となっている。
 荘園の内部では、自由農民がまったく消滅したわけではないが、
 農奴制が農民の一般的状態となった。

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237 2010/07/13(火) 22:45:38 ID:lZGNcopTP2
【封建制・荘園制 5】
 
 農民は一定の日数、領主の直営地で働き(=賦役)、
 自己の保有地の収穫物に対して一定の割合で課せられる年貢を納め(=貢納)、
 人頭税、結婚許可税等々を支払い、教会には十分の一税を納めなければならなかった。

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238 2010/07/13(火) 22:45:52 ID:lZGNcopTP2
【封建制・荘園制 6】
 
 さらに、彼らは、領主の裁判権や行政権によっても領主に隷属していた。
 12〜13世紀頃、鉄製の有輪犂の利用が一般化し、三圃式(三圃制)農法が普及すると共に、
 新しい集村の形成が促され、有力な大領主がこれを全体としてまとめて支配するようになった。

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239 2010/07/14(水) 23:04:32 ID:kILWHxVV8U
【十字軍の推移 1】
 
 11〜13世紀、ヨーロッパ封建社会の絶頂期のエネルギーが対外的に発揮された活動が十字軍である。
 その発端は、11世紀半ば、トルコ系遊牧民セルジューク族が進出し、
 聖地イェルサレムを訪れるキリスト教徒巡礼者を脅かし、
 また、東ローマ帝国に政治的圧力を加えてきた事による。

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240 2010/07/14(水) 23:04:46 ID:kILWHxVV8U
【十字軍の推移 2】
 
 既に、1073年、教皇となったグレゴリウス7世は、異教徒に対する聖戦を意図していたが、
 改革派として知られた彼は、その後に勃発した叙任権闘争(聖職叙任権問題)に忙殺され、
 この志を果たす事はかなわなかった。

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241 2010/07/15(木) 23:08:13 ID:mBCtEkFYoo
【十字軍の推移 3】
 
 それを継承したのが、教皇ウルバヌス2世であった。
 彼は、1095年、クレルモン公会議において十字軍の発動を力強く訴え、群衆の歓呼を受けた。
 翌年、主としてフランス人及び南イタリアのノルマン人の諸侯・騎士を中心に編成された十字軍は、
 パレスティナに遠征し、1099年に聖地を占領し、イェルサレム王国を建国する事に成功した。

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