どうも
>>1です。
関が原のifでは、小早川秀秋が寝返らなかったらとか、
南宮山の毛利・吉川、長宗我部軍が動いたらとか、
大坂の毛利輝元が出陣してたらとか、豊臣秀頼が出陣していたらとかが、
最も多いので、敢えて
>>1の題材にしてみました。
そもそも家康本隊の小山評定後から赤坂着陣までには西軍での動揺が、
見られたのは諸記録の、一致するところなので(しかも岐阜城まで落城)、
その時点での戦線の縮小(大垣城守備隊の撤収・大津城攻略部隊の再編及び
合流・安濃津城などを攻略中の伊勢平定軍の合流)を図るのが最も上策で
あると思うのですが、先鋒部隊の小競り合いである杭瀬川で散々に打ち破ったのが、
強気に出ちゃった原因なのかもしれないと思います。(島津の夜襲案を蹴るのもこの頃)
赤坂着陣後の家康は信州上田で足止めを食った秀忠軍の合流を待たずに中仙道を
西に向かいます。これを阻止しようとして関が原に転進しちゃったのが西軍です。
WWⅡの日本軍でもそうですが、早々に戦線を縮小して乾坤一擲の打撃を与えられれば、
当然戦局も大幅に変わるので、西軍本隊の戦線縮小及び後退で大坂城篭城案をifに
してみました。関が原敗戦後にも毛利秀元や立花宗茂は強硬に篭城説を唱えていましたし、
まったくない訳でもないと思います。
説明不足ですいませんでした。
返信する