元寇は鎌倉武士の実力勝ち


▼ページ最下部
001 2010/03/09(火) 10:22:30 ID:FBqpTU/2Fc
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

返信する

※省略されてます すべて表示...
041 2010/03/31(水) 18:11:52 ID:RIaMOKwTkk
>>40
博多が焼き払われたなどという事実は無いぞ。
元軍は上陸地点の目前で、城壁に囲まれているわけでもない博多の町に
何の損害も与えることができなかった。
つまり、戦闘で鎌倉武士に全く歯が立たなかったということ。

それから、元軍が船に引き返したのは「夜討ちを厭って」などでは無く、
日本から撤退するため。
このことは、敵側史料である高麗史にちゃんと明記してある。
元軍は戦闘で鎌倉武士に敗れたから船に引き返したのであって、
船に引き返したのが敗因というのは根本的に間違い。

返信する

042 2010/03/31(水) 18:18:23 ID:qbPrw1ELns
ベトナムの話を出すと自爆にしかならないぞ

1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。
その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。

1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。
聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。

1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。
何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を
受けていたからである。

返信する

043 2010/03/31(水) 18:25:45 ID:qbPrw1ELns
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:文永の役は元軍の勝ち。博多焼いたし。
Answer:仮に焼いたとしても武士がいないうえ戦略上なんの価値もないところを焼いても勝ったことにはなりません。そもそも、本当に焼いたかどうかが怪しい。
「博多が被災した」と明記された一次史料がありません。
そんな無駄なことしてる暇があるなら武士が食事をとっている水城へ夜襲をかければよかったではないですか?

>対馬、壱岐を瞬く間に占領?
これはおかしいw
たった80騎たらずしかいない離島を数万の蒙古高麗軍で陥落させるのに一昼夜かかっちゃうようで瞬く間?

返信する

044 2010/03/31(水) 18:40:16 ID:qbPrw1ELns
>また運良く大風が吹いたとは限らないぞ

実は大風が吹いて運がよかったのは蒙古軍のほう
もし台風が無ければ、日本近海を逃げ回る蒙古高麗軍は撤退することもできず徐々に日本軍にすり潰され壊滅していただろう。

台風のおかげで日本軍の包囲をぬけ、一部でも逃げ出すことに成功できた。

5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

6月初旬から夏まで元軍はろくな攻撃もできずひたすら逃げ回っている。
江南軍と合流してもなおろくな反撃もできずやられっぱなし。
要するに日本から離脱したくても武士のにらみが利いていてできなかったんだろう。

返信する

045 2010/03/31(水) 18:50:50 ID:FBBNJKtBz.
>>41
黙れ!バカウヨ!

蒙古軍が上陸の夕刻には、日本軍は博多から、大宰府近くの水城へ退却。
博多から箱崎にかけては箱崎宮をはじめ、多くの建物を焼く炎で空は赤く
染まった。

しかし、その夜大風が吹いたと、日本側の記録「勘仲記」にも書いてある
だろうが。

返信する

046 2010/03/31(水) 19:21:47 ID:e7Q3GdvtPk
>>45
「勘仲記」って京の公卿が伝聞情報で書いた日記だろ。
果たして一次資料と言えるものなんかね?

まあ、仮にその話が本当だったとしても、
当初の戦略目標であった大宰府にたどり着けもせず撤退したんだから、
元軍の事実上の敗退だろ。

返信する

047 2010/03/31(水) 19:25:55 ID:v2wqc.SKKw
>>45
追撃を指揮していた元軍の副将(劉復亨)が武士に馬上から射落とされ、
その傷が原因で死んでる事を忘れてはならない。
これにより高麗軍に動揺が走り、追撃は中止された。

ところで大風の記述は高麗史じゃないのか?

返信する

048 2010/03/31(水) 19:35:52 ID:0H9GCoIoN6
>>45
「勘仲記」には日本軍が退却したなんて記述は無いし、
博多が焼けたとも書いてないんだが。。。

返信する

049 2010/04/01(木) 01:54:06 ID:H1DjG5xOWA
都合が悪くなるとすぐ馬鹿とかなんとか人格攻撃に走るのはサヨクの悪い癖だな

どの道、文永の役では台風なんぞきてないよw

まとめると戦略目標であった大宰府にまったく到達できず
それどころか手前の水城にすら到達できなかった元軍。

文永の役での元軍の進路と交戦状況は
今津沖→息の浜
百道原→赤坂

どっちの元軍も返り討ちにあっている


元軍は…なんというかプールサイドであがってくるたび何度もプールに突き落とされる出川哲郎先生のような状態だな

返信する

050 2010/04/01(木) 02:33:21 ID:AYY/xq/p4s
一つ言っておく。
博多炎上は”NHK”大河ドラマの北条時宗にあったw
まぁそういうことだ。

返信する

051 2010/04/01(木) 03:34:50 ID:xJHGbGdyhA
元寇で思い出すのは、モンゴルの使者が2回とも首を刎ねられた話。
初回はともかく2回目は殺されそうだってわかってたはず。
そういう役回りはしたくないなあ。

返信する

052 2010/04/01(木) 05:00:27 ID:H1DjG5xOWA
モンゴルの使者は各国でもぶち殺されてるしなw

それに比べれば初回の使者を丁重に扱って生きて返した日本は優しいな

返信する

053 2010/04/01(木) 06:54:59 ID:FMFqtNvLE.
まぁ当時の船は帆船なので風に乗ってくる必要があり
南から来るためには、当然それ相当の風が必要で
...また、その風が吹く時期は「台風シーズン」に重なるわけで
そう考えると当時の武士は、ある程度、海岸線で食い止めてれば
「台風」が来るというのを予測してたんじゃないだろうか!?

返信する

054 2010/04/01(木) 12:39:21 ID:GEA6InicWo
削除(by投稿者)

返信する

055 2010/04/01(木) 15:05:55 ID:H1DjG5xOWA
>>50
つまりソースは無しってことだな

>>53
それはどうかな

文永の役…10月
弘安の役…6月

どちらも日本へ現れた時は台風シーズンじゃないからなぁ
弘安の役なんて実際台風が来たのは二か月後だしw
大風が吹いて運がよかったのは蒙古軍のほう
もし台風が無ければ、日本近海を逃げ回る蒙古高麗軍は完全撤退することもできず徐々に日本軍にすり潰され壊滅していただろう。
台風のおかげで日本軍の包囲をぬけ、一部でも逃げ出すことに成功できた。

返信する

056 2010/04/01(木) 15:28:13 ID:RNRWmA.DLE
>>49
日本側の記録「勘仲記」、敵側の記録「高麗史」双方に大風に関する記述が
あるから、台風でないにしても、局地的低気圧による突風でも吹いたのは
間違いない。

風が吹かなかったというのは、いつものバカウヨの希望的観測に過ぎない。

返信する

057 2010/04/01(木) 16:03:47 ID:H1DjG5xOWA
>>56
問題はどこで吹いたか、いつ吹いたかだろ

文永の役では武士との戦いに敗れ日本を離れた後の帰路にて風雨があったとする記録が高麗史にあるなんてのはこっちはとっくに知ってるってのw

当事者である武士は逃げ出した後の元軍が風雨にあってたなんて全く知らんかったんだからw

勘仲記は後日無関係な素人がこんな伝聞を聞いたって記録で問題外

返信する

058 2010/04/01(木) 16:14:00 ID:H1DjG5xOWA
すでに蒙古高麗軍敗走という結果が出た後、言ってみれば文永の役終結後の風雨。
勝利者であり当事者である武士の認識外での風雨を蒙古高麗軍敗北の言い訳にするとか
サヨクの頭の中はよくわからん

返信する

059 2010/04/01(木) 20:25:56 ID:xJHGbGdyhA
神風説は、朝廷や幕府の祈祷が効いたっていう勢力争いのひとつかと。
もともと手柄を立てた御家人たちに与える土地も金数ももちあわせてないし、
神風のせいにすれば、幕府も朝廷も宗教界も三方一両得。損は御家人ばかりなり

返信する

060 2010/04/01(木) 22:11:41 ID:X2FRxdBhKo
削除(by投稿者)

返信する

061 2010/04/02(金) 02:37:02 ID:CLa8MhUeOY
文永の役の前に1268年から1272年までに四回送られてきた使者たち
はみんな生きて返してた

文永の役が終わった後1275年に送られてきた使者は斬首してる
日本はむしろ使者に甘すぎたぐらいだったね

返信する

062 2010/04/02(金) 11:36:55 ID:wQIcVYXFW6
削除(by投稿者)

返信する

063 2010/04/02(金) 11:39:51 ID:wQIcVYXFW6
削除(by投稿者)

返信する

064 2010/04/02(金) 15:20:52 ID:7SAMXNrhv6
↓中国語が出来る人、↓さかんに中国の掲示板に↓書き込んでくれない?↓

キモヨナを最終プレゼンターに使った
冬季五輪誘致がもし万一成功すれば、
中国はそのあと20年ぐらい、
「中国初の冬季五輪開催」ができません。同じアジアだから。
中国は発展著しく、
そういう風に可能性が閉ざされるのはいやでしょう。
キモヨナ潰しは国益のため。今回の韓国招致は潰すべし。
中国、韓国冬季五輪を、潰しにかかったほうがいい!
アフリカ票を大量に支配して、韓国五輪を潰しておこう!
国力が中国>>韓国だから、
中国が先に冬季五輪を開くべきだ!
2018年はドイツにやらせて、2022年は楽に中国のものだ。
2018年に韓国でやらせることは阻止の一手だ!

返信する

065 2010/04/02(金) 18:16:54 ID:CLa8MhUeOY
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

武士つええ

返信する

066 2010/04/03(土) 02:04:23 ID:BnyRrtm5m.
Excuse:30年戦った高麗の方が凄い。
Answer:戦ってません。単に民を捨てて逃げ出しただけです。

1232年以降、高麗の為政者は江華島に引きこもり、モンゴル軍が朝鮮半島全土を蹂躙するのを放置してただけ。
だからモンゴル軍は30年間にわたって思う存分高麗で奴隷狩りを満喫できたわけです。
一回の奴隷狩りで高麗人20万6800余人お持ち帰りなんてのを、許しておいて、「30年戦った?」
普通の感覚なら恥ずかしくてそんなこと言えないですよね。

返信する

067 2010/04/04(日) 17:59:14 ID:XdPUVdDyEE
麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。
【五大帝王物語】

牒状が届いた時、日本人は大陸情勢に無知で蒙古が如何に強国かを理解してなかったという通説は、
嘘だよね。
実際には、当時の日本人は蒙古についてかなり詳細な知識を持っていた。

返信する

068 2010/04/05(月) 00:31:12 ID:jFBafCkRDg
削除(by投稿者)

返信する

069 2010/04/07(水) 03:45:22 ID:RVejM5VU6g
それどころかモンゴルに尻尾を振って
日本侵略を提案

返信する

070 2010/04/07(水) 09:42:04 ID:6GA8lRa19Q
元寇は、朝鮮など東アジアの国々による日本への侵略戦争だったこと。
そして、その侵略戦争に日本が見事勝利したこと。
という二重の意味で戦後の自虐史観にとってタブーだった。
だから、元寇は目の敵にされ、徹底的に歪められた。
どんなトンデモ説でも、それが日本に不利な内容なら史料の有無なんか無関係に
定説化しちまうんだから酷い話だよ。

返信する

071 2010/04/08(木) 03:12:19 ID:DWDpjKOHpQ
>>70
そういうやつこのスレにも一人いたなw
ことごとく論破されて消えたけど

返信する

072 2010/04/09(金) 01:05:13 ID:EuxfO/a3Ps
>>70
してもいない「敵前で名乗りを上げて一騎打ち」を理由に武士が苦戦していたとか
平気でそういう嘘つくからな

返信する

073 2010/04/09(金) 21:18:23 ID:sh.IiMi5VE
削除(by投稿者)

返信する

074 2010/04/10(土) 20:28:54 ID:0g4pxRQojo
八幡愚童記正応本
其中に高麗の兵船四五百艘壱岐対馬より上りて
見かくる者を打ころしらうせきす
国民ささへかねて妻子を引具し深山に逃かくれにけり
さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり

返信する

075 2010/04/11(日) 05:10:20 ID:JVdwyBk1NU
Excuse:一騎打ちしか知らない武士は蒙古軍の集団戦法に苦戦したんだから蒙古の勝ち
Answer:武士も集団戦にて戦っていました。

まず、当時の武士が一騎打ちを行っていたとする根拠がありません。
唯一の根拠として八幡愚童訓の写本の一つ『菊大路本』があげられることがありますが、
そもそも八幡愚童訓は後世の宗教書ですので信憑性に疑問があります。
さらにいえば該当箇所も実際のところただの書き間違いです。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

要するに元寇のとき武士が一騎打ちしていたなどというソースはどこにも存在しません。

次に元寇の詳細を記録した資料として信憑性が高いとされている蒙古襲来絵詞には武士が集団で元軍と戦い、元軍を蹴散らしている図が示されています。
総勢百騎などと注釈が付けられており、相当の規模での集団騎射戦が可能だったようです。

返信する

076 2010/04/12(月) 00:11:21 ID:iAz/uvEhLY
削除(by投稿者)

返信する

077 2010/04/12(月) 10:40:06 ID:VTQRwBcxV6
日教組はどうしようもないな

返信する

078 2010/04/12(月) 11:52:54 ID:gxbF.8fG1Q
単に研究がすすんで新しい説が出てきただけだろう
なんでもかんでも自虐教育のせいにするもんでもない

返信する

079 2010/04/12(月) 13:37:26 ID:uhciB3TMrQ
>>78
いや、自虐教育のせいだよ。
鎌倉武士が実力で元軍を撃退したというのは「新しい説」じゃないから。

江戸時代の歴史書、『日本外史』に記された文永の役
「(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、
赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。」

戦前の昭和天皇の歴史教科書、『国史』に記された文永の役
「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」

比較すれば現在の歴史教科書がどれだけ自虐史観に毒されてるか一目瞭然だろ。

返信する

080 2010/04/12(月) 14:09:28 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書を持ち出すなよw

「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。
しかし、実在は疑問視されている。
『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。
それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されていたので、所蔵する図書館もある)。

戦前の教科書なんてこんなもん




『日本外史』wikiより
情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。
言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。

だってさ

返信する

081 2010/04/12(月) 14:31:19 ID:uhciB3TMrQ
>>80
それでも、戦後の歴史教科書よりも元寇に関する記述は遥かにマシ。
如何に現代の自虐教育が悲惨な状況かってことだろ。
戦前の記述を笑う資格なんてないよ。

返信する

082 2010/04/12(月) 14:57:56 ID:oCp3PXgKMs

戦前は神風が元軍を撃退したという考えだよ。
外国を打ち払うという意味で新風特攻隊の語源になったほど。

戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」

戦後は、「嵐が来て勝手に自滅した」

つくる会は、「神風(天皇)のおかげではない。武士の実力で追い払った」

返信する

083 2010/04/12(月) 14:59:11 ID:gxbF.8fG1Q
戦前の教科書は天照大神からはじまってるし問題外だよ
元寇の記述に関してはGHQが変えたんだな
元寇に関してはGHQはやりすぎだとは思うけど日本史全体としてみれば戦前の神話を事実とするような皇国史観よりははるかにマシ

返信する

084 2010/04/12(月) 15:15:16 ID:oCp3PXgKMs
訂正>>82
つくる会は暴風雨の影響も勝因としていた。すまん。

返信する

085 2010/04/12(月) 15:31:49 ID:uhciB3TMrQ
>>82
戦前は、「すべては天皇陛下のおかげ(神風のおかげ)」というのも実は戦後広められた嘘だし。
戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さだよ。

返信する

086 2010/04/12(月) 15:49:01 ID:oCp3PXgKMs
昭和18年國定歴史教科書

 紀元一千九百四十一年、弘安四年五月に、まづ兵四万・艦船九百隻の東路軍(とうろぐん)が、朝鮮から博多へとせまりました。
河野通有(かうのみちあり)・菊池武房(きくちたけふさ)・竹崎季長(たけざきすゑなが)らの勇将は、石塁によつて、一歩も敵を上陸させません。
夜になると、闇にまぎれて小舟を進め、敵艦をおそつて火を放つたり、帆柱を倒して船中へ斬りこんだり、さんざん敵をなやましました。

 おそれ多くも亀山上皇は、皇大神宮に、御(おん)身を以て国難に代ることをお祈りになりました。
社という社、寺といふ寺には、真心こめた国民が満ちあふれました。七月になると、つひに兵十万・艦船三千五百隻の江南軍(かうなんぐん)が押し寄せて来ました。
さきに来た東路軍と合(がつ)して、敵艦は博多の湾をうづめつくしました。

 大日本は神国であります。風はふたたび吹きすさび、さか巻く波は数千の敵艦をもみにもんで、かたはしから撃ちくだき、くつがへしました。
わが将士は、日ごろの勇気百倍して、残敵をおそひ、たちまちこれをみな殺しにしました。

 敵艦全滅の報は、ただちに太宰府(だざいふ)から京都へ鎌倉へと伝へられ、戦勝の喜びは、波紋のやうに、国々へひろがりました。
世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、元寇と呼んでゐます。

返信する

087 2010/04/12(月) 15:59:51 ID:oCp3PXgKMs

 思へば元寇は、国初以来最大の国難であり、前後三十余年にわたる長期の戦でありました。
かうした大難を、よく乗り越えることのできたのは、ひとへに、神国の然(しか)らしめたところであります。
時宗の勇気は、よくその重い務(つと)めにたヘ、武士の勇武は、
みごとに大敵をくじき、民草(たみくさ)もまた分に応じて、国のために働きました。

 まつたく国中が一体となつて、この国難に当り、これに打ちかつたのですが、
それといふのも、すべて御稜威(みいつ)にほかならないのであり、
神のまもりも、かうした上下一体の国がらなればこそ、くしくも現れるのであります。

 神のまもりをまのあたりに拝して、国民は、今さらのやうに、国がらの尊さを深く心に刻みつけました。
また、世界最強の国を撃ち退(しりぞ)けて、国民の意気は急に高まり、
海外へのびようとする心も、しだいに盛んになつて行きました。

 今、福岡の東(ひがし)公園をたづねて、亀山上皇の御尊像(ごそんざう)を仰ぎ、
はるかに玄海難(げんかいなだ)を見渡しますと、六百五十年の昔のことも、
今の世のことかと思はれて、深い深い感動に打たれるのであります。

返信する

088 2010/04/12(月) 16:46:42 ID:oCp3PXgKMs
>>85
問一)上の文章を読んで一番強調されている部分は何か答えなさい。(国士様大学入試より)

イ、時宗の勇気
ロ、武士の勇武
ハ、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働き
ニ、御稜威

返信する

089 2010/04/12(月) 16:50:45 ID:uhciB3TMrQ
>>86
その教科書の文永の役

 文永十一年(紀元一千九百三十四年)、第九十一代後宇多(ごうだ)天皇が御位におつきになると、
その年の十月、果して元・高麗の兵約二万五千は、九百隻(せき)の艦船をつらね、朝鮮の南端から
攻め寄せて来ました。

 敵は世界最強をほこる元であり、従つてわが国としては、かつてためしのない大きな国難であります。
思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、御(み)国のためにあらはす時が束たのです。敵は
まづ対馬(つしま)をおそひました。宗助国(そうすけくに)が、わづかの兵でこれを防ぎ、ことごとく
壮烈(さうれつ)な戦死をとげました。

 そこで敵は、壱岐(いき)から博多湾へせまり、つひに上陸をあへてしました。筑紫の武士は、力のかぎり
戦ひましたが、敵のすぐれた兵器、変つた戦法になやまされて、なかなかの苦戦です。しかし、
日本武士の魂(たましひ)が、果して、かれらの進撃をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戦ふ
わが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。

 この奮戦が神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、
わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますます
はげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、浅瀬に乗りあげた船も
あります。敵は、残つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役と
いひます。

返信する

090 2010/04/12(月) 16:52:26 ID:uhciB3TMrQ
>>89を読めばわかるように、戦前の元寇教育で一番強調されていたのは鎌倉武士の勇敢さ。

返信する

091 2010/04/12(月) 17:11:15 ID:GefXD2Y6Zs
削除(by投稿者)

返信する

092 2010/04/12(月) 17:12:59 ID:oCp3PXgKMs
>>90
残念。
正解は、「ニ、御稜威」でした。
これ小学校の教科書だよ。しっかりしてくれよ。

小論文読んだ事あるでしょ?
>>87 は起承転結の結の部分。
時宗の勇気も、武士の勇武も、民草(たみくさ)の分に応じた国のための働きをまとめて評価して、
最後にそれらの働きはすべて御稜威(みいつ)にほかならないと手柄を独り占めにして教えているんだよ。
鎌倉幕府は天皇の敵なんだからそういう時代背景も考えなくちゃだめだよ。

返信する

093 2010/04/12(月) 17:47:48 ID:VTQRwBcxV6
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

返信する

094 2010/04/12(月) 17:48:21 ID:uhciB3TMrQ
まぁ、釣られておきながら今さら何だが、そもそも昭和18年は戦中であって戦前じゃないんだけどな。

返信する

095 2010/04/12(月) 17:54:36 ID:VTQRwBcxV6
頼山陽 日本外史
十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。
地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。
守護代平景高、これに死す。
事六波羅に報ず。
鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。
少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。
慮兵乱れ奔る。

返信する

096 2010/04/15(木) 04:16:09 ID:ndCMM7WZxA
四百余州を挙る
十万余騎の敵
国難ここに見る
弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに
鎌倉男子あり
正義武断の名
一喝して世に示す

多々良浜辺の戎夷
そは何蒙古勢
傲慢無礼もの
倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に
鍛えし我が腕
ここぞ国のため
日本刀を試しみん


こころ筑紫の海に
浪おしわけてゆく
ますら猛夫の身
仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と
誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す
大和魂いさぎよし

返信する

097 2010/04/17(土) 10:29:04 ID:Tdu9Br6IDc
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
白鳥倉吉【国史】

返信する

098 2010/04/18(日) 01:07:32 ID:2G5V9LB99o
まるで自分の目で見たかのように偉そうに語る奴って何なのwww

かっこよく書かれたナンチャッテ歴史本に洗脳されたの?

返信する

099 2010/04/18(日) 03:20:32 ID:AgEh0FoPRs
悔しそうですね

返信する

100 2010/04/18(日) 10:34:45 ID:CMONfHPxGA
削除(by投稿者)

返信する

101 2010/04/18(日) 12:22:05 ID:wkGsR0JlCU
こいつらの思考回路はこんな感じだろ?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

↓これを飛躍させ美化

武士が実力で元軍を撃退した

神風が無くても撃退できた

神風があったのは疑わしい

だから武士が実力で元軍を撃退した。

返信する

102 2010/04/18(日) 12:25:28 ID:AgEh0FoPRs
>ID:wkGsR0JlCU
弘安の役と文永の役すら区別がつかない人は
黙ってた方がいいよ

返信する

103 2010/04/18(日) 12:59:44 ID:wkGsR0JlCU
>>102
お前の思考回路はこっちか?

必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない


神風に一切触れずに武士のすごさだけを抜き出している箇所の大量のコピペが存在する

やっぱり神風は無かったし武士が実力で元軍を撃退した


日本すげー

オレ日本人

おれすげー

返信する

104 2010/04/18(日) 13:51:25 ID:AgEh0FoPRs
ん?
つまり一応弘安の役でのことを言ってると解釈していいのかな?

神風なる「普通の台風」が来たことを一切触れないコピペなるものはどれのことだろう?

五月下旬に現れた元軍は
ことごとく武士に敗北し二か月以上海上を逃げ回った末、台風にあってるわけですな。
まあそれを神風とするのは別にかまわんとおもうよ

元軍は弾が出るまでロシアンルーレット強要されてたようなもんだね
涙目で震えながら引き金引いたら割と早い段階で弾が出ちゃったわけだ。

弾が出るのがもっと遅くなるかもしれなかったわけだから
早めに出たってことでまあ神風でもいいんじゃないのw

返信する

105 2010/04/18(日) 13:55:55 ID:AgEh0FoPRs
>必ずしも武士が一方的にやられていたわけではない

どっちかっていうと一方的にやられていたのは元軍なので
擁護するなら
「必ずしも元軍が一方的にやられていたわけではない」にした方がいいんじゃないの?
対馬、壱岐では元軍も少数の武士相手に充分「奮戦」したようだしw

返信する

106 2010/04/18(日) 23:02:13 ID:XKEAlxJkDo
削除(by投稿者)

返信する

107 2010/04/19(月) 01:10:06 ID:x4no2jUtkY
>>105
戦闘での犠牲者数と台風の犠牲者数を混同してるだけだろ。

返信する

108 2010/04/19(月) 04:06:20 ID:iA5Z5tiI76
犠牲者数だけで勝敗がきまるなら
ノモンハンは日本の勝ちになっちゃうなw
まーそれはおいといて

文永の役…武士の追い返され、夜逃げ同然に日本から逃げ出したのは元軍
弘安の役…何カ月も海上を逃げ回ったが、武士を振りきれず困っていたところへ台風。
部下を見殺しにしてごく一部の東路軍のみ日本からの脱出に成功。

ちなみに見殺しにされた江南軍は嵐の後も普通に平戸島など周辺の島々に取り残されて生きてました。
船が無くて逃げられなかっただけですね。
その後、日本軍に掃討されてしまったわけなので意外と台風以外の犠牲者数も多いんですよねー。

返信する

109 2010/04/19(月) 08:46:51 ID:x9mGgT8c/s
弘安の役における元軍の戦闘犠牲者は10余万人で、台風の犠牲者を遥かに上回る。

返信する

110 2010/04/20(火) 03:07:46 ID:vS0vkrLNeg
認めちゃえよw
日本にはまったく手も足も出ず勝てまへんでしたってw

返信する

111 2010/04/20(火) 04:22:00 ID:wJiRLS3MJA
>>110
負けてたら、今頃はお前らと同じ支那の属国で、対馬は日本じゃないだろ。アホか。

返信する

112 2010/04/20(火) 08:51:12 ID:idXQmuUWQI
>>>111
落ち着いて!110さんは味方よ!

返信する

113 2010/04/20(火) 12:21:22 ID:idXQmuUWQI
■宋人から見た弘安の役
鄭思肖 鉄函心史
六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された

返信する

114 2010/04/20(火) 12:29:14 ID:idXQmuUWQI
■モンゴル人から見た弘安の役
元史日本伝
七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。
九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。
・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ

現代語訳
『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。
九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、
蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。
結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人(日本軍が送り返してやった奴らね)だけだった』

結論としては敗北した当事者達は台風に関係なく実力で負けたことを認識していた様子だね

返信する

115 2010/04/21(水) 02:03:36 ID:3msMl8kYlM
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.htm...
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.htm...
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.htm...
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.htm...
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

返信する

116 2010/04/22(木) 01:09:58 ID:wFvYtOucFI
神風というのは季節的にどうなのかな。
とにかく元軍は夜になるといちいち船に戻ったらしいから橋頭堡すら築けていない。
鎌倉武士は善戦していたと思うよ。

返信する

117 2010/04/22(木) 02:04:58 ID:lhLeGqptXs
>>116
「元軍は夜になるといちいち船に戻った」なんて馬鹿なことが本当にあるわけない。
元軍は日本から撤退するために船に戻り、そのまま逃げ帰ったんだよ。
そのことは、ちゃんと元軍側の史料に明記してあるの。

『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、
日ごとに滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
〔劉〕復亨、流矢に中(あた)る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。』
【高麗史】

鎌倉武士は善戦していたとかじゃなく、普通に勝ってるの。
でも自虐史観に憑かれた戦後の学者連中は、日本が勝ったということを認めたく無いから、
史料を無視して「撤退」を「一旦船に戻った」に置き換える逆大本営発表をやってるわけ。
狂ってるんだよ。

返信する

118 2010/04/22(木) 03:21:31 ID:hnNJ6KOiVQ
削除(by投稿者)

返信する

119 2010/04/22(木) 04:47:17 ID:FLrJXKSxvU
「文永の役」「弘安の役」どちらも「博多湾上陸の試行」は一回だけといってもよさげだよ
文永は上陸そのものは成功、というか武士は阻止してない
初めから福岡平野で迎え撃つつもりだったから

弘安の役では本土上陸すらできてない
志賀島以外はね

したがって「いちいち船に戻る」というのはありえない
ただ、116も単に言葉のあやで言っただけで深い意味はないと思うけど

返信する

120 2010/04/22(木) 11:44:29 ID:znVaiWwnpA
削除(by投稿者)

返信する

121 2010/04/22(木) 12:07:46 ID:sxwGK0K7EU
やっぱり九州のサムライは強いのう。

返信する

122 2010/04/22(木) 13:32:12 ID:FLrJXKSxvU
弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」
史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、
陸奥・出羽(東北地方)、
上野(群馬県)、
下野(栃木県)、
信濃(長野県)、
三河・尾張(愛知県)、
遠江(静岡県)、
近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、
備前(岡山県)、
筑前(福岡県)、
日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、
豊後(大分県)
と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。

http://homepage3.nifty.com/rokuen/China12-3.ht...

返信する

123 2010/04/23(金) 16:02:48 ID:VY7aWAki52
[YouTubeで再生]
>>113>>114の内容とよく似てるな

返信する

124 2010/04/24(土) 19:26:23 ID:xwUh1DSzQs

「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本至壱岐、戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
高麗史表

返信する

125 2010/04/25(日) 14:01:57 ID:U8gdv7wlLI
帝王編年記 「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」


『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

返信する

126 2010/04/26(月) 10:54:51 ID:rAHFwA2Mdo
圧勝に近いな

返信する

127 2010/04/26(月) 20:53:37 ID:/hK/aU95A2
もうサヨも在日もこなくなったなwやっと負けを認めたんだなw

返信する

128 2010/04/28(水) 20:44:05 ID:.MT8CnXaFU
歴史は負けとか勝ちとかでくくるものではない。
重要なのは正確か不正確かだけだ

返信する

129 2010/04/29(木) 14:37:02 ID:.9.rA72.KE
高麗の敗北は確かだな

返信する

130 2010/05/02(日) 02:03:58 ID:2ycAQ2rJaM
[YouTubeで再生]
02:00
いまだにこんな扱いかよ┐(´ー`)┌

文永の役は季節風関係ないし
弘安の役もあってもなくてもさほどかわらんというのに

返信する

131 2010/05/03(月) 12:59:37 ID:NOgEgQOem2
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:元寇を防げたのは二度とも偶然ふいた神風のおかげでしょ?
Answer:いいえ。ちがいます。
まず文永の役。
高麗史によれば風雨によって被害を受けたという記載があるのは日本でボロ負けした後、逃げ出した後のこととなっています。
一方、日本側の「当事者たちの」記録には風雨に関して全く記載がありません。
つまり高麗史を信用するなら、風雨は日本からかなり離れた後のことでしょう。
また。一説には日本との戦いでの損害をごまかすため風雨を言い訳にした、という見方もできるそうです。

次に弘安の役。
まず、元軍はそれ以前の5月から日本と交戦していた点を忘れてはいけません。
元軍は日本軍に追い落とされ、海上を数ヶ月間逃げ回っていたところに台風が来たわけです。
そもそもそんな長い間上陸を阻止し続け、海上を追い回した、日本軍の防衛能力の高さも評価されるべきでしょう。
さらに言えば元軍の大半は嵐の後も生き残っていました。
一部の元軍は残存する船とともに逃げのびましたが、10万近い兵が鷹島、平戸などに取り残されておりました。
これらの残党は日本軍との交戦によって滅ぼされています。
結論から言えば、台風はあってもなくても元軍敗北の事実は変わらなかったことになります。

返信する

132 2010/05/08(土) 13:04:42 ID:HHigVoVKD.
自虐史観の代表例だよね

返信する

133 2010/05/08(土) 17:53:01 ID:u46FUUAam6
自虐史観というか皇国史観というか

返信する

134 2010/05/08(土) 20:44:23 ID:7CPJb.H0No
自虐史観と皇国史観が一致した稀有な例だよな
目的は正反対ではあるけど

返信する

135 2010/05/09(日) 14:31:44 ID:0g4pxRQojo
>>128
日教組にもいってやってくらさい

返信する

136 2010/05/11(火) 12:23:03 ID:7Ch4yiIi.Y
〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、

返信する

137 2010/05/12(水) 01:57:08 ID:dbHhKJyqF.
歴史の先生から朝鮮が手抜きして作った船を
供給したから台風でことごとく沈没したってきいたけど。
もっとも朝鮮は嫌々やってただけで、
日本を助けるつもりはなかったらしい。

返信する

138 2010/05/12(水) 05:19:52 ID:k1f2iVopxg
嘘が多すぎ

1.台風の被害で沈んだ船の大半は江南軍…つまり朝鮮の船はさほど沈んでない
2.朝鮮はやる気十分。そもそも日本侵略の言いだしっぺが朝鮮

返信する

139 2010/05/12(水) 09:51:46 ID:ul/0cunb5g
削除(by投稿者)

返信する

140 2010/05/12(水) 15:59:01 ID:opfw93o2co
削除(by投稿者)

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:197 KB 有効レス数:352 削除レス数:0





歴史掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:元寇は鎌倉武士の実力勝ち

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)