元寇は鎌倉武士の実力勝ち
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086 2010/04/12(月) 15:49:01 ID:oCp3PXgKMs
昭和18年國定歴史教科書
紀元一千九百四十一年、弘安四年五月に、まづ兵四万・艦船九百隻の東路軍(とうろぐん)が、朝鮮から博多へとせまりました。
河野通有(かうのみちあり)・菊池武房(きくちたけふさ)・竹崎季長(たけざきすゑなが)らの勇将は、石塁によつて、一歩も敵を上陸させません。
夜になると、闇にまぎれて小舟を進め、敵艦をおそつて火を放つたり、帆柱を倒して船中へ斬りこんだり、さんざん敵をなやましました。
おそれ多くも亀山上皇は、皇大神宮に、御(おん)身を以て国難に代ることをお祈りになりました。
社という社、寺といふ寺には、真心こめた国民が満ちあふれました。七月になると、つひに兵十万・艦船三千五百隻の江南軍(かうなんぐん)が押し寄せて来ました。
さきに来た東路軍と合(がつ)して、敵艦は博多の湾をうづめつくしました。
大日本は神国であります。風はふたたび吹きすさび、さか巻く波は数千の敵艦をもみにもんで、かたはしから撃ちくだき、くつがへしました。
わが将士は、日ごろの勇気百倍して、残敵をおそひ、たちまちこれをみな殺しにしました。
敵艦全滅の報は、ただちに太宰府(だざいふ)から京都へ鎌倉へと伝へられ、戦勝の喜びは、波紋のやうに、国々へひろがりました。
世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、元寇と呼んでゐます。
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