天正2年(1574年)毛利氏の山陽道守将・小早川隆景は
「宇喜多などは表裏の者であり到底信用できる相手ではない」
「歴代忠孝を働いてきた三村家を蔑ろにするものであり、義から外れる行いである」とする
山陰道守将・吉川元春らの反対を押し切り、宇喜多直家と事実上の同盟を結んだ。
このため、宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は義憤を以って毛利氏より離反し、叔父・三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、織田信長と内通。
このため親成・親宣父子は元親を見限って出奔した。
この年の冬、三村氏の離反に危機を感じた毛利輝元は小早川隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、備中兵乱の口火が切られた。
なお、この際も吉川元春は「自分が直接三村元親に会って翻意させるので討伐は厳に避けるべきである」と具申したが容れられず、「義を通さぬ毛利家の将来は暗い」などと嘆いたと言われる。
元春の危惧はこの備中兵乱の数年後に宇喜多直家が織田方に寝返ったことにより現実化する。
三村軍の本城である松山城は砦二十一丸と呼ばれた出丸が築かれて要塞化していた。このため毛利軍は備中松山城を残し猿掛城・斉田城・国吉城・鶴首城など周辺の城を次々に陥落させた。
毛利勢は裸城となったとはいえ要塞である備中松山城を力攻めせず、持久戦に持ち込んで離反など内部からの崩壊を待った。
城が包囲されて1ヶ月近く経過して三村軍の士気が衰えた。まず内応により天神の丸が陥落した。その後、次々に内応するものが現れた。
天正3年(1575年)5月、最後まで残った家臣の説得により、三村元親は妻子・家臣とともに落ちのびることを決めた。こうして備中松山城は陥落し。
落ち延びる途中で怪我をした三村元親は小早川隆景に切腹を願い出た。
隆景は願い出を認め、元親は阿波三好氏出身の老母や親交のあった細川藤孝等に宛てた辞世数首を残し、松連寺で自刃した。
この年、松山城落城後、毛利氏は備中平定のため三村氏ゆかりの諸城掃討を行った。
三村元親の妹(鶴姫)の婿・上野隆徳が拠る三村一族最後の城である常山城も鶴姫ほか城の女性共々奮戦したが、多勢に無勢で落城し、備中兵乱は幕を閉じた。
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