日本史の勉強
▼ページ最下部
001 2010/05/04(火) 21:58:46 ID:ts9QpxmoDk
日本史そのものには特別興味は無かったが、語呂暗記・リズム暗記などの手法に少々凝ったような気がする…
【原始文化】先土器文化は岩宿、縄文文化は大森貝塚
返信する
101 2010/06/03(木) 23:55:22 ID:uysTrX161Y
【律令国家の繁栄と農民の窮乏】
一握りの貴族の豊かさに比べ、多数の農民の苦しさは、山上憶良の『貧窮問答歌』にある通りだ。
農民達は、偽籍・浮浪・逃亡等の手段で抵抗を試みた。
結果、口分田をはじめとする土地の不足、ひいては財政の圧迫を招いた。
後に、三世一身の法→墾田永年私財法となり、私有地(=荘園)の発生を促す事になった。
返信する
102 2010/06/04(金) 23:04:54 ID:P2G0zx3HZA
【天平文化の開花 1】
慶雲4年[707年]7月、文武天皇のあとを継ぎ、元明天皇が即位。
和銅3年[710年]3月10日、石上朝臣麿を藤原宮の留守官として、都は平城に遷された。
これに伴い、以下の寺院が平城の地に移された。
返信する
103 2010/06/05(土) 22:15:41 ID:1eRmjZz6fE
【天平文化の開花 2】
法興寺;
別名は飛鳥寺。
『日本書記』によれば、蘇我馬子の発願を受け、崇峻天皇元年に建て始められ、推古天皇4年[596年]11月に「法興寺造りおわりぬ」とある。
後に、『続日本紀』によれば、養老2年[718年]9月にこの寺を新京に遷したと記されている事から、
この頃に平城の地に移転したと考えられている。
返信する
104 2010/06/05(土) 22:17:40 ID:1eRmjZz6fE
【天平文化の開花 3】
薬師寺;
天武天皇が皇后の病気平癒を願って運営を始めた。
『続日本紀』によれば、文武天皇2年[698年]10月4日にこの寺の構築がほぼ終わったので、衆僧を住まわせたとある。
しかし、平城遷都後に移転が行われ、養老3年[719年]3月2日には「始めて造薬師寺司に史生二人を置く」と『続日本紀』に記されている。
返信する
105 2010/06/05(土) 22:18:52 ID:1eRmjZz6fE
【天平文化の開花 4】
興福寺;
縁起によれば、都が平城に定められたのをうけて、藤原不比等が飛鳥にあった厩坂寺を移したとしている。
『扶桑略記』には、和銅3年[710年]に平城京にはじめてこの寺の金堂を建てるとあるが、
『続日本紀』によれば、養老4年[720年]8月に不比等が没し、同年10月に造興福寺仏殿司が置かれたとしている事から、
この頃には移転が終わっていたようである。
返信する
106 2010/06/05(土) 23:03:03 ID:PraL8t22tE
だから立てすぎって、いくつスレ立てたら気が済むのか
返信する
107 2010/06/06(日) 22:02:49 ID:oGermoKouc
【天平文化の開花 5】
大安寺;
縁起によれば、聖徳太子建立の熊凝寺がその前身であると云う。
百済大寺とも呼ばれたが、官寺の初めとして大官大寺と呼ばれた。
『続日本紀』の律師道慈法師伝によれば、この高僧は大宝元年[701年]に入唐し、養老2年[718年]に帰国、
「ちかごろ大安寺を平城に遷し造る。法師に勅してその事を勾当せしむ」とある。
『扶桑略記』には、天平元年[729年]にこの寺を改造せしめたと記されている。
返信する
108 2010/06/06(日) 22:56:37 ID:oGermoKouc
【辺境地域の経営 1】
律令国家は、"化外の民"蝦夷や南九州の隼人を服属させる為、幾度かにわたる征討軍を派遣しこれを支配下におさめていった。
7世紀中頃、現在の新潟県に渟足柵及び磐舟柵を置き、征服の拠点としたが、斉明朝には、阿倍比羅夫が渟代、津軽迄を征服したと伝えられている。
返信する
109 2010/06/06(日) 22:56:50 ID:oGermoKouc
【辺境地域の経営 2】
8世紀初頭には、大規模な出兵が行われて、712年、新たに出羽国が設置された。
この間に、蝦夷の編戸も進み、調庸などの収納も行われるに至った。
返信する
110 2010/06/06(日) 23:27:07 ID:oGermoKouc
【辺境地域の経営 3】
しかし、支配体制が強化されるに伴い、720年及び724年の両度にわたり反乱が起きた為、
律令国家はこれを鎮圧するとともに、多賀城及び秋田城を設け、主に東国の農民を鎮兵として派遣し防備にあたらせた。
返信する
111 2010/06/06(日) 23:27:21 ID:oGermoKouc
【辺境地域の経営 4】
一方、南九州の征討も進められ、8世紀初頭には大隅国を設置したが、720年反乱が生じた。
この反乱は間もなく鎮圧され、これ以降、当地方は完全な支配下に入った。
返信する
112 2010/06/07(月) 22:03:37 ID:163uaZUnJQ
【辺境地域の経営 5】
780年の俘囚(=律令国家に帰服し同化した蝦夷)出身の郡司による反乱を契機に蝦夷支配は動揺をきたし、
桓武天皇は幾度かの征討軍を派遣して服属強化に努めた。
801年には坂上田村麻呂が派遣され、翌年には胆沢城が置かれ、鎮守府がここに移された。
返信する
113 2010/06/07(月) 22:03:55 ID:163uaZUnJQ
【辺境地域の経営 6】
804年には、第4次の征討が計画されたが、新都造営事業と相まって農民にかかる負担は重く、参議藤原緒嗣の建議もあり、翌年に中止される事となった。
蝦夷征討は、嵯峨天皇の時、文室綿麻呂が派遣されたのを最後とし、一段落を告げるが、
その後も9世紀及び10世紀に反乱が生じており、11世紀半ば過ぎには、俘囚の長によって大規模な反乱が起こされている。
返信する
114 2010/06/08(火) 22:07:52 ID:B7dEjc4q4U
【律令体制の再建 1】
桓武天皇の長岡京建設から平安遷都を経て、清和・陽成天皇に至る8世紀末から9世紀後半にかけての時代は、
律令国家がこれまでの経験を踏まえて現実に即した国家体制を完成させた時期と位置づける事が出来る。
返信する
115 2010/06/09(水) 22:11:30 ID:LNMRnNkaQY
【律令体制の再建 2】
中央では官制の改革が行われ、嵯峨朝に令外官として設置された蔵人所と検非違使は、重要な役割を担うものであった。
また、法典の整備も進み、833年に養老令の注釈書『令義解』が成立し、この修正法令・施行細則などを集成した『弘仁格式』及び『貞観格式』が相次いで編纂された。
返信する
116 2010/06/10(木) 01:15:50 ID:ynvkMTLIl.
117 2010/06/10(木) 22:06:33 ID:RQTuRmZ.Gc
【律令体制の再建 3】
桓武朝・嵯峨朝において天皇の権威の回復がはかられる一方で、伝統的な貴族が陥落した。
その中で、810年の薬子の変に際しての藤原冬嗣の蔵人頭就任にみられる藤原氏の勢力拡張、清和朝866年の藤原良房の摂政就任、
その下での応天門の焼亡を理由とした伴善男・紀豊城らの琉罪にみられるように、藤原氏の政権独占が進展したのである。
返信する
118 2010/06/11(金) 22:07:56 ID:V2Tz0JdIVw
【藤原氏の進出 1】
平安時代のうち、10世紀半ばから11世紀半ばまでを摂関時代と呼ぶ。
奈良時代以来、徐々に成熟してきた貴族社会、とりわけ後に御堂関白と呼ばれた藤原道長の時期はその頂点であった。
返信する
119 2010/06/11(金) 22:08:18 ID:V2Tz0JdIVw
【藤原氏の進出 2】
藤原氏は、大化改新で功のあった中臣鎌足から始まったものである。
その子供の藤原不比等の4子のうち、宇合の式家の系統がまず歴史の舞台に踊り出た。
宇合の孫の乙牟漏は、桓武天皇との間に、平城・嵯峨の両天皇を生んだ。
しかし、同じく孫の造長岡宮使となった藤原種継は暗殺され、
その子供の藤原薬子は寵愛を受けた平城上皇の復位を、兄の阿衡と計画し失敗して死んだ。
これで式家の系統は終わる。
返信する
120 2010/06/12(土) 22:06:43 ID:6xZAwLgpPA
【藤原氏の進出 3】
北家の興隆は嵯峨天皇に仕え、蔵人頭になった藤原冬嗣から始まる。
その娘順子の生んだ道康親王を皇太子にする為に、伴健岑・橘逸勢らを流刑にし、
順子の兄である藤原良房は大納言に進んだ。
この政変は承和の変と呼ばれ、以後、良房は政界の第一人者となった。
返信する
121 2010/06/12(土) 22:07:08 ID:6xZAwLgpPA
【藤原氏の進出 4】
逆に、名門の伴・橘氏は没落した。
850年、道康親王が即位して文徳天皇になる。
その皇太子には良房の娘が生んだ惟仁親王が就き、やがて9才で即位して清和天皇となる。
良房は天皇の外祖父となり、摂政となった。
返信する
122 2010/06/13(日) 22:11:44 ID:9FStBMEf2o
【藤原氏の進出 5】
866年には応天門の変によって大納言の伴善男が追放された。
伴善男は左大臣源信をおとしいれようとして、逆に、追放され流された。
藤原氏の対抗勢力はまたしても没落したワケである。
返信する
123 2010/06/14(月) 14:39:32 ID:x8J.KuE6qg
おまえらが習った日本史は、
明治時代に明治天皇が天皇家に都合が良いように創らせたもの。
日本書紀も古事記も天皇が書かせた捏造本。
返信する
124 2010/06/14(月) 23:40:42 ID:MRBw/XSyyc
【藤原氏の進出 6】
良房の養子藤原基経も阿衡事件によって宇多天皇の信任の厚かった橘広相を失脚させた。
この宇多天皇は藤原氏の外戚関係は無く、そこで学者の菅原道真を登用した。
宇多天皇は藤原基経の息子時平を左大臣に、道真を右大臣に任用して政治を託し、醍醐天皇に譲位した。
返信する
125 2010/06/14(月) 23:44:23 ID:MRBw/XSyyc
【藤原氏の進出 7】
その際、天皇の政治の心得を醍醐天皇に与えた。この心得が寛平御遺誡である。
藤原氏は菅原道真を大宰府に左遷して政権を独占した。
不遇の道真はその地で亡くなったが、その魂は怨霊となって京都へ舞い戻ったと噂された。
この怨霊を鎮める為に造られたのが北野神社である。
醍醐天皇と続く村上天皇の治世は、摂関を置かず、天皇親政を実行した。
この両天皇の治世を延喜・天暦の治と呼ぶ。
返信する
126 2010/06/15(火) 22:08:30 ID:0YyuO32j9k
【藤原氏の進出 8】
969年、安和の変によって醍醐天皇の皇子で実力者の左大臣源高明が大宰府に流された。
これは藤原実頼らの陰謀で、以後、摂関は常置され、再び、藤原氏の摂関政治が展開していった。
他氏に有力なライバルが無くなると、藤原北家内部での主導争いが始まった。
返信する
127 2010/06/15(火) 22:08:49 ID:0YyuO32j9k
【藤原氏の進出 9】
誰が氏長者になるかの争いは、藤原道長から見て伯父の藤原兼通と父の藤原兼家との間で起こった。
父が関白になったあとでは、道長の長兄道隆と次兄道兼とが関白をめぐり争った。
年齢順で二人が関白になったあとは、今度は道長本人と長兄の息子、つまり甥の伊周とが争った。
伊周が左遷された後は、摂政・関白の地位は道長の子孫によって独占される。
返信する
128 2010/06/16(水) 22:05:01 ID:Adid5gcZSs
【藤原氏の進出 10】
即ち、子息の藤原頼道・教通、そして孫の師実と続く。
藤原道長の栄華は、幼少の天皇の外戚としての地位に基づいていた為、道長の娘達の果たした役割は大きかった。
娘の一人で一条天皇の后である彰子は、後一条・後朱雀天皇の母となったが、
また彼女には紫式部が仕えた事もよく知られている。
返信する
129 2010/06/16(水) 22:05:17 ID:Adid5gcZSs
【平安時代における藤原氏の役割と隆盛 1】
藤原氏の歴史を辿れば日本史が判ると言ってもよいだろう。
殊に、古代史は藤原氏抜きには語れない。
奈良時代は藤原氏対皇族・他氏族の対立、平安中期の藤原氏の他氏排斥事件を経て、
平安中期には藤原一族の争いとなる。
返信する
130 2010/06/17(木) 22:06:40 ID:lRs.ekl4K2
【平安時代における藤原氏の役割と隆盛 2】
鎌倉時代以降も、九条兼実から近衛文麿に至る藤原氏の主流は、第2次世界大戦まで歴史の表舞台で活躍している。
平安時代は全盛期である。
藤原氏の経済的基盤は、
1. 律令制下の高級官僚としての莫大な収入が基本で荘園制の発達に伴い
2. 荘園の寄進集中による収入の比重が増してくる
返信する
131 2010/06/17(木) 23:12:12 ID:lRs.ekl4K2
【平安時代における藤原氏の役割と隆盛 3】
政治権力の源泉は天皇にあり、天皇の母方身内となる事が条件であった。
その為に他氏排斥とともに立后政策を展開し、安和の変で成功した。
以後は、摂関が常置され、その位置と氏長者を求めて一族間の激しい争いとなり、
ついに道長の勝利に帰して摂関政治の全盛期が現出した。
返信する
132 2010/06/18(金) 22:06:56 ID:sbxZCEk152
【摂関政治 1】
藤原道長・頼通父子の時代に藤原氏は全盛期を迎えた。
当初、道長は甥の藤原伊周と対立したが、権力争いに勝利し自己の地位を高めた。
1018年、道長は娘の威子が皇后になる時、
『此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば』
という和歌を詠んでいる。
この得意満面な和歌は、『小右記』という当時の日記に記されている。
返信する
133 2010/06/18(金) 22:08:01 ID:sbxZCEk152
【藤原伊周】
皇后定子の長兄。
道長と争って敗れ、不遇な晩年を過ごした。
彼の弟である隆家は、太宰権師として、刀伊を迎え撃った。
返信する
134 2010/06/18(金) 23:57:29 ID:sbxZCEk152
【摂関政治 2】
摂関政治の全盛時代には、多くの荘園が摂関家に寄進された。
結果、摂関家は、領家や本家と呼ばれる荘園領主となった。
当時の貴族の一人は、こうした摂関家への荘園の集中について、
『天下の地悉く一家の領となり、公領は立錐の地も無きか。悲しむべきの世なり。』
という嘆きを詠んでいる。
尚、ここでの『公領』とは、国衙領を指している。
返信する
135 2010/06/19(土) 22:12:46 ID:PkjAt4xqAE
【摂関政治 3】
後三条天皇の親政が始まると、村上源氏や大江匡房らが重用された為、藤原氏の勢力は低下した。
1069年には荘園整理を行う為、記録荘園券契所が設置された。
摂関家の藤原頼通への荘園が集中し過ぎた事が、この役所設置の原因の一つとされている。
返信する
136 2010/06/19(土) 22:13:07 ID:PkjAt4xqAE
【大江匡房】
学者・歌人であり、受領・院別当を歴任。
有職故実に詳しく、『江家次第』の著がある。
返信する
137 2010/06/19(土) 23:19:20 ID:PkjAt4xqAE
【摂関政治 4】
白河上皇によって院政が開始されると、摂関家の勢力はさらに抑えられていった。
上皇の政務機関である院庁の構成員は院司とよばれたが、これには受領などの中下級貴族が多く登用された。
また、院庁からは、『下文』という文書が出された。
1156年の保元の乱では、摂関家は兄弟で対立し、崇徳上皇方についた弟の藤原道長は敗死した。
返信する
138 2010/06/20(日) 22:09:23 ID:ndTcUDcURM
【下文】
読みは「くだしぶみ」。
他に、院が直接出す『院宣』がある。
返信する
139 2010/06/21(月) 22:03:51 ID:Y5racNYdpY
【摂関政治 5】
鎌倉時代に入ると、摂関家は5家に分かれ、これを五摂関と云う。
五摂関の一つを興した九条兼実は、源頼朝の信任を得て摂政・関白となり、親幕府派の公卿として活躍した。
その日記『玉葉』はよく知られている。
その孫である九条道家は、母が頼朝の姪であった事から、鎌倉幕府と関係が深く、子息の一人は4代将軍(=頼経)になっている。
返信する
140 2010/06/22(火) 22:04:31 ID:TKFzPLHW5o
【院政 1】
摂関政治が乱れ、藤原氏に対する反感が高まる中で、藤原摂関家と外戚関係のない後三条天皇が1068年に即位して、
実際の政治は天皇が執り、その権威を高める為に政治の刷新につとめた。
返信する
141 2010/06/22(火) 22:04:57 ID:TKFzPLHW5o
【院政 2】
1068年に即位した後三条天皇は翌年に厳しい荘園整理令を出し、記録荘園券契所を設けて所領問題に取り組んだ。
この改革は藤原頼通の強い反対をうけたが、全体としてみればかなりの成果をあげる事が出来た。
返信する
142 2010/06/22(火) 23:02:24 ID:TKFzPLHW5o
【院政 3】
白河上皇は先代の天皇の遺志を受け継いで親政を行った。
藤原頼通・教通という藤原氏の両巨頭が相次いで没したので、天皇は摂関家に気がねする事なく政治を執る事が出来た。
1086年、堀河天皇に譲位後も上皇(院)として政治を行った。
返信する
143 2010/06/22(火) 23:02:45 ID:TKFzPLHW5o
【院政 4】
院政は院庁で行われ、そこで天皇の出す詔勅・宣旨に準ずる院宣が発せられた。院庁からは院庁下文が発せられた。
返信する
144 2010/06/22(火) 23:38:41 ID:TKFzPLHW5o
【院政 5】
院の近臣にはこれまで不遇だった貴族や、土地改革の断行を歓迎する受領達が集まった。
また、摂関家の多くは朝廷に奉仕したので、院の近臣達との間に反目が生まれた。
院は平氏などの武士を北面の武士として用いて権力を強化した。
返信する
145 2010/06/23(水) 22:08:14 ID:ZuQc/4BHk6
【院政 6】
院政の経済的基盤は、荘園と知行国の制度の2つであった。
その豊かな財源を費やして六勝寺などの多くの寺院が造られたが、次第に寺院勢力が強くなり、僧兵の横暴が激しくなった。
返信する
146 2010/06/23(水) 23:25:17 ID:ZuQc/4BHk6
【摂関政治と院政の異同点】
天皇を権力の源泉とする貴族政治であり、荘園を基盤とする点では同様。
実権者は、前者は母方身内で高級官僚、後者は天皇の父と中・下流貴族の側近。
また、新興勢力の武士との関係では、前者は特に清和源氏、後者は桓武平氏。
返信する
147 2010/06/24(木) 22:10:30 ID:g4Wi59DGvw
【地方政治の乱れの進行】
1. 国司の貪欲と非行
2. 国司の遙任の一般化
3. 重任・成功 − 売位売官
4. 知行国制度とその弊害
5. 治安の乱れ − 浮浪人の増加・盗賊の横行
6. 国司の土着化
7. 地方豪族の実力増進 → 武士勢力の成長
※ 武士の時代が近づいている事を示唆している
返信する
148 2010/06/25(金) 22:20:26 ID:30fL.VfIsE
【荘園 1】
荘園成立の一つの重要なきっかけとなったのは、743[天平15]年における墾田永年私財法の発布であった。
この法令は、開墾した土地の一定面積を永久に私有する事を認めたので、貴族・大社寺・地方豪族などの私有地拡大及び荘園の増加を促す事となった。
このようにして成立した荘園を一般的に初期荘園と呼んでいたが、他の呼び名として、自墾地系荘園及び墾田地系荘園というのがあった。
返信する
149 2010/06/25(金) 22:20:44 ID:30fL.VfIsE
【荘園 2】
摂関政治が行われていた頃、地方の豪族の中には土地を開発して私領の拡大を図る者があった。
彼らは、国司の干渉や圧迫を逃れる為、私領を中央の皇室・有力貴族・大社寺など(いわゆる本家)に寄進し、
自らは下司などの荘官となり、荘園を事実上支配する者が多かった。
返信する
150 2010/06/26(土) 22:23:07 ID:b4C9jNh4.2
【荘園 3】
荘園の増加を抑える為、朝廷は10世紀の初め頃から、しばしば法に触れる荘園の停止を命じた荘園整理令を発布した。
1069[延久元]年に発布された荘園整理令では、1045[寛徳2]年以降新立の荘園の停止を命じ、
それ以前に荘園となったものでも証拠不十分な場合、停止の措置をとった。
返信する
151 2010/06/26(土) 22:48:50 ID:b4C9jNh4.2
【荘園 4-1】
荘園の内部構造は、成立の事情、時代や地域差などの理由により一様ではないが、
耕地は領主の直営地である佃(手作地、門田ともいう)、
地頭や荘官などに与えられた給田、
現地の社寺に与えられた社寺田、
田堵などから成長した名主などが耕作していた名田畠、
さらには山林などから構成されていた。
返信する
152 2010/06/27(日) 22:10:28 ID:9f8uvXA27Y
【荘園 4-2】
名田畠を耕作する名主は、
米や絹などの年貢、畠作物やその加工品、手工業製品などの公事、年貢・公事物の運搬や、
荘園領主の館の警備や雑役などの夫役を負担しなければならなかった。
返信する
153 2010/06/27(日) 23:39:44 ID:9f8uvXA27Y
【荘園発生の根本原因】
律令制に内在する矛盾;
1. 位田・職田、口分田までも事実上世襲化される性格(性質)
2. 農民の窮乏に起因する浮浪・逃亡は、人口増加と相まって土地の荒廃→耕地の不足という事態
良田百万町開墾計画も机上案にとどまり、
ついに、三世一身法→墾田永年私財法で墾田開発を公認し、土地不足に対処した。
こうして、8〜9世紀に墾田地系の初期荘園が成立した。
返信する
154 2010/06/27(日) 23:40:18 ID:9f8uvXA27Y
【寄進地系荘園の増加】
荘園には成立事情により不輸租の特権を持ち、さらには国司の立ち入りを拒む不入権を持つ者も出てきた。
そこで在地の開発領主は、『鹿子木庄』という史料文にあるように、
権門勢家に所有地を名目上寄進してその荘官となり、実質的には土地支配権を確保するようになった。
荘園は国家権力と財政基盤の侵害故に荘園整理令を発布するも、殆ど効果が得られなかった。
この間、政府の課税対象が人から土地に重点を切り換えられていったのである。
返信する
155 2010/06/28(月) 22:35:31 ID:NyBcech.fU
【荘園整理令】
延喜[902];
1. 勅旨田の廃止
2. 権門の山野占有禁止
3. 百姓の寄進の禁止
延久[1069];
1. 1045年以後の新立荘園の停止
2. 手続き・証拠不十分の荘園の停止
3. 摂関家にも適用→記録荘園券契所
返信する
156 2010/06/28(月) 22:36:03 ID:NyBcech.fU
【武士の成長 1】
源氏は、10世紀後半に起きた『安和の変』という著名な政治事件において重要な役割を果たし(→源満仲)、摂関家との結びつきを深めるようになった。
さらに、11世紀後半に東国で生じた『平忠常の乱』を鎮圧し(→源頼信)、東国進出の基礎を作った。
返信する
157 2010/06/29(火) 22:12:25 ID:pvEupfW9ik
【武士の成長 2】
しかし、その源氏も12世紀初め、源義親が反乱を起こし、平氏に討たれるという事件が起きて、一時期、勢力が後退した。
平氏は、貞盛の子孫が伊勢や瀬戸内海地方に勢力を拡大した。
また、中央政界にも進出し、源義親の事件で武功をたてる(→平正盛)などした。
返信する
158 2010/06/29(火) 22:12:40 ID:pvEupfW9ik
【武士の成長 3】
12世紀半ばの中央政界では、皇室や摂関家の内部で対立が生じ、これに源氏と平氏が絡み、やがて、保元の乱が起きた。
天皇方は夜襲をかけ勝利をおさめた。
敗れた上皇方は刑死者を出し、上皇も讃岐へ配流となった。
なお、刑死を免れた源為朝を主人公とした『椿説弓張月』(滝沢馬琴著)という江戸時代の読本が存在する。
返信する
159 2010/06/30(水) 22:41:43 ID:cbzyy3nogk
【地方の実力者である豪族・名主層が自営の為に武力を蓄えて武士化】
彼らは次第に団結し、名門出身の棟梁を戴いて勢力を強めた。
中央では滝口の武士・北面の武士や摂関家の侍に過ぎなかったが、
地方では追捕使・押領使として治安の維持にあたった。
乱を起こしたのも平定したのも武士である。
保元の乱は武士の中央進出の突破口、平氏の乱は平氏政権成立の契機となった。
返信する
160 2010/07/01(木) 22:09:14 ID:rj3.f1nXng
【平氏政権の公家政権から武家政権への橋渡し】
平氏政権は荘園・知行国を経済的基盤とし、
皇室の外戚化、藤原氏との政略結婚、一門で朝廷の要職独占という形で政権を掌握した。
しかし、積極的に貿易を進め、地頭に任命した家人を荘園に配置するなど、
その政策は公家政権には見られないもので、武家政権のさきがけともいえる。
返信する
161 2010/07/01(木) 23:38:49 ID:rj3.f1nXng
【平安文化 1】
平安京への遷都があって、9世紀に入る頃から律令国家は成熟を見せ始めた。
この時代の文化は、その始まりと終りの元号をとって弘仁・貞観文化と呼ばれており、
唐の文化の影響を強く受けて成立した。
返信する
162 2010/07/02(金) 22:35:18 ID:qxXVXrZV26
【平安文化 2】
凌雲集に始まる3つの勅撰の漢詩文集が作られる。
漢詩の私家集も編まれた。都良香の都氏文集はそうした著作である。
返信する
163 2010/07/02(金) 22:35:51 ID:qxXVXrZV26
【平安文化 3】
蔭位の制はあったものの、能力に基づく人材登用も活発であった。
試験によって立身をはかる事も出来る。
特に、紀道(→中国の史書・詩文を学ぶ)においては、
この試験に合格して公卿になった人は少なくない。
返信する
164 2010/07/03(土) 22:14:47 ID:tYOMmBLRKQ
【平安文化 4】
有力貴族は、一族の子弟の教育の為に大学別曹を設立した。
和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院などが生まれた。
返信する
165 2010/07/03(土) 22:15:01 ID:tYOMmBLRKQ
【平安文化 5】
この時代は、国風暗黒時代とも呼ばれる。
紀貫之が古今集仮名序で述べているように、
和歌が衰えており、不遇な人達の文学だった。
「伊勢物語」の主人公に擬せられる在原業平は、
平城天皇の孫であるが、出世を遂げられなかった。
遍昭は、僧正の地位にのぼりながら、仁明天皇の死を悲しんで出家した。
そして、この二人を除く他の六歌仙は、生没の年さえ明らかでない。
返信する
166 2010/07/04(日) 23:33:40 ID:hmggCWIe72
【平安文化 6】
やがて、漢風文化の時代は去り、国風文化の時代が到来する。
この二つの時代の境に生きた人物の一人が菅原道真であった。
漢詩文だけでなく和歌にも才能があり、新撰万葉集の作者に擬せられる。
道真の著作に「類聚国史」があり、編年体をとられず部門別に編纂されている。
六国史の時代を過ぎ去った記録として整理したのである。
返信する
167 2010/07/04(日) 23:33:52 ID:hmggCWIe72
【平安文化 7】
道真は、藤原氏に排斥され、大宰府に流され、そこで病没した。
後に、道真の怨霊が、しばしば京の都を襲った…と、
「北野天神縁起絵巻」が、その伝承を今に伝えている。
道真の怨恨は、藤原氏に留まらず、
より深く、過ぎ去った漢風文化の時代への愛惜に所由して生まれたのであろう。
返信する
168 2010/07/05(月) 23:06:28 ID:6STRMSFugU
【かな文学 1】
文化の国風化を最もよくあらわしているのは仮名の発達であり、その結果、国文学が隆盛をきわめた。
漢字を用いて日本語をあらわす為に工夫された万葉(萬葉)仮名が古くからあったが、
後に、漢字の草書体を簡略化した平仮名や漢字の字形の一部分を片仮名が表音文字として生まれてきた。
これらの表音文字は日本人の感覚を判り易く表現するのに大変役立ったといえる。
返信する
169 2010/07/06(火) 22:23:03 ID:vPvgDNw.4Y
【かな文学 2】
貴族の生活の中では従来通りの漢文が重視されたが、
その文章の内容はやがて日本風のものへと切り替えられていった。
特に、漢詩が和歌にかわり、日常生活の中でもかなりつくられるようになった。
返信する
170 2010/07/06(火) 23:56:08 ID:vPvgDNw.4Y
【かな文学 3】
代表的作品として、紀貫之の「古今和歌集」がある。これは古今調として和歌の手本とされた。
物語としては、伝説を題材とした「竹取物語」が先駆的作品とされ、
続いて、歌物語では「伊勢物語」、宮廷を舞台に理想的な貴族生活を描いた「源氏物語」、
同じく宮廷生活の体験を随筆風に描いた「枕草子」がある。
いずれも女性の細やかな感情を見事に描いている作品として高く評価されている。
返信する
171 2010/07/07(水) 22:35:18 ID:dlGfG5Ai5Y
【浄土教文化】
平安時代中期以降、当時の混乱した世相の中で、
末法思想の流行により、阿弥陀仏にすがって極楽に往生する事を理想とする浄土教が広まった。
この考えを民衆に説いたのが、「空也の像」であり、
口に南無阿弥陀仏と唱えると、その一音一音が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻化したものである。
また、和歌山県の高野山の「聖衆来迎図」は、阿弥陀仏や多くの菩薩が往生者を迎えにくる様が描かれ、
さらに、岩手県の「中尊寺金色堂」は、
同じ頃、勢力を築いた奥州藤原氏が、都からの文化をとりいれ建立したものである。
同じく地方豪族の建立したものに、九州豊後の「富貴寺大堂」などが知られている。
※ 尚、「高野山」とは、正確には、「高野山有志八幡講十八箇院蔵」。
返信する
172 2010/07/07(水) 23:13:23 ID:dlGfG5Ai5Y
【古代文化;飛鳥文化】
中宮寺天寿国繡帳/鞍作鳥/法興寺
仏教を信ずる豪族によって各地に氏寺が建てられ、高度な仏教文化がおこった。
これらの寺には当時のすぐれた仏教彫刻や絵画が残されており、
中国の南北朝時代に様式を受け継いだ作品が多い。
返信する
173 2010/07/08(木) 22:55:13 ID:NRyzMV6gzo
【古代文化;白鳳文化】
高松塚古墳壁画/柿本人麻呂/薬師寺
この時代の仏教は朝廷の保護を受け、寺院は国家の安泰を祈る事を重要な使命とした。
彫刻や絵画は初唐の強い影響を受けて発達したが、
インドの影響を受けたとみられる作品もある。
返信する
174 2010/07/08(木) 22:55:31 ID:NRyzMV6gzo
【古代文化;天平文化】
正倉院鳥毛立女屏風/山上憶良/西大寺
中央集権の政治の発達により、貴族院や宮廷・寺院を中心に華やかな文化が発達した。
唐文化の影響が大きいが、唐を通じてインドやペルシアなどの文化の影響もある。
返信する
175 2010/07/09(金) 22:55:47 ID:GFYbmX4Vdo
【古代文化;弘仁・貞観文化】
風信帖/橘逸勢/室生寺
この時代には、中央の争いに敗れて非業の死を遂げた人々の怨霊がこの世の疫病を流行させていると考え、
この怨霊は華やかな歌舞や神前読経で慰め、追放する御霊信仰が民衆の間に広まった。
返信する
176 2010/07/09(金) 22:56:02 ID:GFYbmX4Vdo
【古代文化;国風文化】
往生要集/在原業平/平等院鳳凰堂
末法思想の影響の中で貴族達は精神的不安を感じ、
阿弥陀仏によって来世の極楽往生を願う浄土教を信ずる者が多くなった。
返信する
177 2010/07/10(土) 22:54:13 ID:zQlLJfu2x2
【唐風文化 → 国風文化】
遣唐使の廃止を境とし、唐風文化から脱却して独自の国風文化に変わった。
平安前期の弘仁貞観文化が唐の影響下にあった事を漢詩集の勅撰、三蹟にみる唐風の筆跡などが物語る。
しかし、遣唐使の廃止は唐風から脱却し独自の文化を打ちたてようとする傾向を決定づけた。
そして、仮名文字はその文化の表現に貢献した。
ここに、宮廷中心の女流文化で彩られる華やかな中に不安の意識が漲る国風文化が展開した。
返信する
178 2010/07/10(土) 22:54:30 ID:zQlLJfu2x2
【密教 → 浄土教】
空海の真言宗は密教であり、最澄の天台宗も円仁・円珍によって密教化した。
密教は加持祈祷によって、現世の利益をはかる仏教として貴族社会に受け入れられた。
後期になると、末法思想とそれを裏書きするような戦乱などを背景に、
現世を穢土として阿弥陀如来の浄土に憧れる浄土教が流行した。
こういう変化に伴い、彫刻も一木造の量感のある仏像から、
現世に浄土を実現しようとする貴族の要望に応じて寄木造の姿優しい阿弥陀像に変わった。
宗教界においては、
1. 本地垂迹説に代表される神仏習合思想の発達
2. 古来の山岳信仰と密教が融合した修験道の成立
が挙げられる。
返信する
179 2010/07/11(日) 23:00:34 ID:MyIibQ17kY
【末期;中央文化の地方波及及び庶民の文学史への登場】
平泉の中尊寺を代表とする傾向が強まり、
数々の絵巻物や『今昔物語集』などの説話集に庶民が登場し、
流行歌である今様が後白河法皇によって『梁塵秘抄』にまとめられ、
仏画だけでなく日本の風物を描く大和絵が成立した。
返信する
180 2010/07/12(月) 23:02:05 ID:G52JtgcOzc
【平安文化における名数『三』】
三不動:園城寺の黄不動・高野山明王院の赤不動・青蓮院の青不動
三代集(漢詩):凌雲集・文化秀麗集・経国集
三代集(和歌):古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集
三筆:空海・嵯峨天皇・橘逸勢
三蹟:小野道風・藤原佐理・同行成
返信する
181 2010/07/13(火) 22:46:35 ID:lZGNcopTP2
【鎌倉幕府の成立】
源平の争乱の中、次第に勢力を拡大しつつあった源頼朝は、
中央に侍所・公文所・問注所の三機関を設け、武家政権の基礎的な組織づくりに努めた。
また、地方には、守護・地頭を置き、奥州総奉行・京都守護・鎮西奉行なども設置し、
全国的な支配体制をつくりあげていった。
そして、1192年、後白河上皇が死去し、源頼朝を抑える力が弱まった為、
頼朝が征夷大将軍に任じられ、名実ともに鎌倉幕府が成立した。
頼朝の死後、政権抗争を経て北条義時が実権を握り、新たに設置した執権の座に就いた。
返信する
182 2010/07/14(水) 23:05:23 ID:kILWHxVV8U
【御家人制度】
源頼朝を主人と仰いだ御家人は、主に地頭に任命される事によって、
先祖伝来の所領の支配を保障され(=本領安堵)、
新たな所領を与えられる(=新恩給与)などの御恩を受けた。
これに対して御家人は、戦時には生命をかけて戦い、
平時には京都大番役鎌倉番役などを務め、従者としての奉公に励んだ。
返信する
183 2010/07/15(木) 23:09:08 ID:mBCtEkFYoo
【北条氏の台頭 1】
鎌倉幕府の権力確立の過程で大きな意義を有するのは守護・地頭の設置である。
守護は、
『諸国守護人奉行の事。右、右大将家の御時、定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人、付たり夜討・強盗・山賊・海賊等の事なり』
とあるように、国内の軍事警察権などを掌握していた。
また、地頭は、全国の荘園・公領に置かれ、一定比率の加徴米を徴収し、治安警備権を掌握していた。
返信する
184 2010/07/15(木) 23:43:19 ID:mBCtEkFYoo
【北条氏の台頭 2】
ところで、若くして将軍職を継いだ源頼家及び実朝は、御家人達の信頼を欠くところがあった為、
幕府の主導権をめぐる争いが有力御家人の間で相次いだ。
そんな中、台頭してきたのが北条氏であるが、その経緯については…
1199年に有力御家人の弾劾を受け鎌倉を追放された梶原景時が翌年駿河で敗死。
1202年に頼家が征夷大将軍になったが翌年廃止。
この件において、頼家は舅である比企能員と結んで北条氏打倒を企てたが失敗し、
比企能員及び頼家の子である一幡が相次いで殺され、頼家自身も伊豆修禅寺に幽閉され翌年に殺された。
尚、これらの事件の背景には、北条時政が居たと云われている。
北条氏は、1205年に畠山重忠を討ち、1213年には和田義盛を滅ぼした。
このようにして、北条氏は幕府の実権を掌握するようになった。
返信する
185 2010/07/16(金) 22:55:56 ID:gnBssrq8Bw
【鎌倉時代=公武二元(二重)政治】
源頼朝が武家政権を開いたとはいっても、直ちに武士の世となったわけではない。
ほぼ三河を境とし、西は朝廷、東は幕府という縄張りであった。
行政・徴税をつかさどる国司は朝廷が、軍事警備隊を行使する守護は幕府が任免する故、
全国的には公武二元(二重)政権といえる。
東国を中心とする地域の支配と守護地頭の設置権が幕府の政治的基盤であった。
返信する
186 2010/07/16(金) 23:54:32 ID:gnBssrq8Bw
【御家人制度】
御恩と奉公に基づき、御家人を惣領を通じて支配する御家人制度が支配の根幹である。
ここに、土地を媒介とする主従関係、すなわち、封建制度の基本型が存する。
返信する
187 2010/07/17(土) 22:52:15 ID:zGvqOCtUV6
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 1】
直轄地としての関東御領は、
将軍が本家或いは領家として支配した荘園や国衙領で御分国は将軍の知行国である。
御分国は当初、伊豆・相模・上総・下総・信濃・越後・武蔵・駿河・豊後の9か国であった。
返信する
188 2010/07/17(土) 23:47:48 ID:zGvqOCtUV6
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 2】
いずれにせよ、公家政権や平氏政権と本質的な差はなく、武家政権としての不完全さを示している。
この他、将軍が公家側と交渉して地頭や荘官として御家人を推薦する事の出来る関東御口入地がある。
返信する
189 2010/07/18(日) 23:13:54 ID:bH8PITDjW6
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 3】
また、荘園・国衙領において、将軍が自由に御家人に給与出来る地域を関東進止所領といい、
たとえば、承久の乱の上皇方没収地もその類である。
返信する
190 2010/07/19(月) 22:24:37 ID:HYu8Y2YTuo
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 4】
さらに、御家人に課した、主として経済的な課役を関東御公事という。
内裏・院御所・幕府の修造や諸儀式の費用などをさせた。
尚、ここで使用されている「関東」という言葉は、京都の朝廷に対する鎌倉幕府を意味する。
返信する
191 2010/07/19(月) 22:25:03 ID:HYu8Y2YTuo
【幕府成立の目処】
1183:寿永の宣旨 → 東海・東山両道の実質上の行政権獲得
1184:公文所・問注所設置 → 三機関揃う
1185:守護・地頭設置権勅許 → 公的承認
1192:任征夷大将軍
※ 1185年において実質ができ、1192年において名実完成とみる
返信する
192 2010/07/20(火) 23:05:45 ID:mi4He64VXs
【源頼朝死後の情勢】
1199:頼朝死。梶原景時離反 → 翌年追伐される
1203:比企能員の乱。頼家、修繕寺に幽閉される → 翌年謀殺される
1205:北条時政、畠山重忠を殺す。時政、平賀朝雅の将軍擁立をはかり失敗 → 失脚
1213:和田義盛挙兵敗死
1219:実朝殺される → 源氏将軍断絶
返信する
193 2010/07/20(火) 23:06:04 ID:mi4He64VXs
【執権政治の確立 1】
承久の乱で圧勝した幕府は、朝廷方を厳罰に処し、その所領3千余ヵ所を没収し、
功績のあった将士をこれらの土地の地頭に任じた。
こうして、朝廷の権威は急速に衰え、
幕府の勢力範囲はにわかに増大して武家政権の基盤は強固となったが、
同時に、幕府の実権を握っていた執権北条義時の地位も不動のものとなった。
返信する
194 2010/07/21(水) 22:53:47 ID:/InZ04Naak
【執権政治の確立 2】
義時は1223年、国ごとの土地台帳(=大田文)を作らせ、全国にわたる土地支配の基礎を据えた。
義時の後を継いだ泰時は、執権政治の強化に努め、執権の補佐役として連署を置き、
ついで重要な政務や裁判を合議によって決するように11人からなる評定衆を設けた。
返信する
195 2010/07/21(水) 22:54:04 ID:/InZ04Naak
【執権政治の確立 3】
さらに、1232年、彼は御家人の身分や所領を守り、
御家人相互の、或いは御家人と荘園領主との間の紛争解決を主な目的に御成敗式目を制定した。
返信する
196 2010/07/21(水) 23:17:58 ID:/InZ04Naak
【執権政治の確立 4】
泰時の孫時頼は、有力御家人三浦氏を滅ぼし、幕府権力を一族で独占する体制を作り上げ、
1249年には評定衆の補佐機関として引付衆を新設し、増加する裁判の公正敏速をはかった。
執権政治はこうして武家社会の信望をあつめ、その子時宗の代にかけて最も安定する事となった。
返信する
197 2010/07/21(水) 23:18:23 ID:/InZ04Naak
【鎌倉時代の大きな分岐点;承久の乱 1】
頼朝死後の鎌倉側の騒乱は、北条氏を中心とする幕府の再編成の苦しみであり、
御家人の保護を旨とする幕府の基礎は、むしろ固まっていった。
この事情を誤算して後鳥羽上皇が討幕の拳に出たのが承久の乱である。
戦乱は、幕府側の圧勝に終わった。
返信する
198 2010/07/22(木) 23:10:25 ID:/40p4.PZPQ
【鎌倉時代の大きな分岐点;承久の乱 2】
その結果、
1. 後鳥羽→隠岐、土御門→土佐(のち阿波)、順徳→佐渡の配流と天皇の廃立
2. 所領3千余ヵ所の没収を含む関係者の処分
3. 京都守護にかわる六波羅探題の設置
4. 新補地頭の設置
という事になった。
返信する
199 2010/07/22(木) 23:10:49 ID:/40p4.PZPQ
【鎌倉時代の大きな分岐点;承久の乱 3】
《京都守護にかわる六波羅探題の設置》においては、
朝廷の監視及び京都の警備の他、尾張(のち三河)以西の家人の統轄の権限が加わり、
いわば、京都支局長の重責を担い、北条氏の一族が任ぜられた。
《新補地頭の設置》においては、11町につき1町の免田の支給が重要。
免田は、領主への年貢・公事を免除される田地の事をいい、
わずか11分の1とはいえども、武士が実質的に完全に土地・人民を支配する事を意味し、
武家領形成に一歩を進めた。
こうして、幕府の権威は確立し、執権政治の展開を齎し、
武家勢力が公家勢力に対して優位に立つに至った。
これが、承久の乱の大きな意義である。
返信する
200 2010/07/23(金) 23:02:17 ID:WMNzFbR7zc
【御成敗式目(貞永式目)】
道理に基づき、先例と慣習を成文化した武家法であり、後世への影響が大きい。
式目制定の意義や目的については、
泰時が、当時、六波羅探題であった弟の重時に与えた手紙(1232年8月8日付及び9月11日付)
によく示されており、要約すると…
1. 頼朝以来の先例と慣習を成文化し、裁判の公正を期して基準をたてる
2. 武家社会の道理に基づく
3. 誰にも理解出来るように平易を旨とし、周知徹底をはかる
4. 律令など公家法は否定せず、幕府の管内に施行する
という事になる。
全51条の内容をみると、守護・地頭の権限・訴訟・所領関係などの規定が多く、
女性の立場が分割相続の慣習と家の存続の面から尊重されている。
武家法の模範として、分国法などにも大きな影響を与えている。
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:97 KB
有効レス数:235
削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
歴史掲示板に戻る 全部
前100
次100 最新50
スレッドタイトル:日本史の勉強
レス投稿