芝居町と吉原を分離したように、芸者と遊女も分離するのが幕府の方針であった。
「芸者」という名称:芸者の原型は、男性の「幇間(ほうかん)」や「太夫」といった人々。彼らは宴席で芸を披露する役割を担い、後に女性芸者が登場する。
吉原遊廓の規制:
吉原では、遊女以外の女性が遊廓で働くことを厳しく制限していた。そのため、芸者は遊廓の外側で活動することが増えた。
一方で、遊廓内で働く芸者は、遊女との区別が曖昧なままだった。
法令による分離と「芸者=芸のみに専念」の規範化(18世紀中頃~後期)
1740年代(享保年間)以降:
享保の改革(徳川吉宗の改革)の一環として、風紀の取り締まりが強化された。この頃から、遊女と芸者の役割分担がより厳密に求められるようになった。
具体的には、「芸者は性的サービスを行わないという規則が定められた。
1779年(安永8年):「芸者置屋」の公認
江戸では、芸者の活動を管理するために「芸者置屋」の登録制度が導入された。これにより、芸者は遊廓外で活動する独立した職業として認められた。
芸者置屋が公認されたことで、芸者は性的サービスを行わないことが明確に定義された。
江戸幕府の規制強化
幕府は「芸者が遊女的な行為に手を染めること」を禁止し、違反した場合には罰則を設けた。
同時に、「遊廓以外の場所での性的取引」が厳しく取り締まられるようになり、芸者が性的サービスを提供することが減少した。
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