新羅建国は実際には三国の一番最後だが、最も古いというウソの歴史を制作したのは、
12世紀高麗成立の「三国史書」を書いたのが新羅出身者だから。
新羅建国に絡む瓠公は倭人で、始祖赫居世と同一人物とされている。
のみならず、第四代脱解も丹波地方の倭人だ。
新羅は支配階級がことごとく倭人なのである。
任那伽耶もそれを知っているので、百済よりも新羅派が多かった。
ところが、ヤマト王権が百済をひいきし始めたので葛藤、問題が発生した。
いずれにせよ倭系新羅は、前漢が紀元前2世紀末に朝鮮半島の大半を植民地支配したことを知っているので、
漢の前政権、秦の末裔を奉じることでこっちが半島の主流であり、本家だと言いたいのである。
ゆえに秦氏は新羅系であるが、実は徐福などの伝説とは別に、漢代から中国系は日本に流入しており、糸島に中華街を形成していた。
このこともあって、漢系氏族を装う西漢氏や東漢氏はあまり漢系であることを吹聴しない。
おそらく、漢系中華人街は遣隋使の時代にも存続していたのである。
608年に裴世清が目撃した秦(辰)王国が、糸島から東遷した漢系中華街に秦氏が入り交じったものであろう。
私はそこは香春だろうと考えている。
6世紀後半から秦氏がこの地にあふれかえるが、原型は純然たる糸島の系譜を引く中国系の集団に、ヤマト王権の意を汲んだ秦系が後から入植したものだ。
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