北条氏直と氏政ってずっと秀吉のこと舐めてたん


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001 2012/03/12(月) 11:24:26 ID:sJsgMhNAtM
北条氏直と氏政ってずっと秀吉のこと舐めてたんでしょ?
花の慶次の原作でゆってた

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002 2012/03/12(月) 11:31:35 ID:gjqCVFT/Tw
       ∧__∧ 
      ( ´・ω・)∧∧ あなるなめえもんのあなるなめたい
       /⌒ ,つ⌒ヽ)  
      (__  (  __)  

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003 2012/03/12(月) 12:39:55 ID:ZTusOvZ0xM
マンガやアニメの影響で、大名たちがみんな天下統一を狙ってた
みたいなイメージあるかも知れんけど、ほとんどの大名は基本的に
自領の安泰を最大の目的としてた。

自領経営および自分の政権基盤を盤石とするための周囲への侵攻は
しばしばあったけど、わざわざ縁も所縁もない土地まで出て行って、
相当のコストとリスクを背負ってまで「日本全土を統一しちゃるぅ!!」
なんてこと考えてないのが普通。むしろ、信長や秀吉のほうが例外的といえる。

そういう意味で、北条氏は典型的な戦国大名。
自領安泰を目的とし、そのための周囲への侵攻はやぶさかではないものの、
日本全土をどうこうしようなんていう意思がそもそもなかった。
だから、そんなことを本気でおしすすめていた秀吉の野心を
読み違えたんだろうさ。

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004 2012/03/12(月) 13:31:56 ID:7JXSPENY4g
徳川と連携したら対抗できるって考えてたんじゃないの?

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005 2012/03/12(月) 15:09:13 ID:O506PTay/o
この当時は 互いに軍事同盟(相互不可侵条約)や姻戚関係を結んでおり
実質「徳川・後北条」連合軍だったし もっと言えば清洲同盟に基づけば
対秀吉groupの「織田信雄・徳川家康・後北条親子」の連合軍だったと言えますねー
因みに それらの共通の敵(仮想敵)は 当時 北信州や北上毛を侵攻した「(二代目)上杉景勝」或いは その重臣の「直江(豊臣)兼続」や
上杉方の同盟国として その地盤(上田(長野)と沼田(群馬))を実効支配していた
「真田(豊臣)信繁(幸村)一党」だったから 関八州の統一に四苦八苦していたのではないでしょうか?

また 権謀術数により信長の地盤/看板/金庫番などを乗っとった 
"(自称)平氏の末裔で今川被官上がり"の秀吉にみたいな成り上がりなんぞ 
傍流中の傍流で屁じゃなかったのでは?

逆に 西国の毛利一族(毛利・吉川・小早川)が 秀吉の対抗馬だったんでは!?

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006 2012/03/12(月) 18:33:33 ID:Qy1QSfyTYo
この時点で天下統一の野心があったのは秀吉、家康を除けば、島津か伊達政宗くらいだろう。毛利は元就の家訓かなんかで天下を狙うなとか言われてたらしくおひとよしだね。
本能寺の変の直後に和睦なんて破棄して秀吉を背後から襲えばよかったのにね。
賤ヶ岳の時でもいい。
手段を選ばない行動力が足りない。

島津と伊達は10年遅かった。10年時間あればまた変わってたと思う。
この2勢力の特徴は、戦争好きで武力で侵略拡大するところ。
放っておくと、どんどん巨大化するタイプ

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007 2012/03/13(火) 00:40:35 ID:EB4PeZ/p1A
北条は秀吉軍がかつての上杉軍のように大軍勢だからすぐに兵糧切れになると思って篭城したんだけど
秀吉は陸から海からどんどん兵糧運んで全く兵糧が切れなかった
すでに天下の半分以上を支配下に収めていた秀吉の力を見誤った北条の失策

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008 2012/03/13(火) 12:09:36 ID:m9rVhCnbXc
>>6
ちょっと話脱線するけど、島津や伊達政宗にしても、日本全体を視野に入れた
「天下統一」を狙っていたわけじゃないでしょ。後世の講談や小説なんかでは
そんなふうに語られてるけど。

伊達が東北地方一帯をおさえて政権基盤を強化しようと考えていたことは確かだし、
島津もあきらかに九州平定は実行しつつあったけど、
信長(およびそれを引き継いだ秀吉)のように全国的な権力掌握と
治世制度の刷新を考えていたとは思えない。

たぶんだけど、全国的政権の確立を目指していたことを示す資料的根拠なんかも
現状ではないんじゃないかな?

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009 2012/03/14(水) 00:19:30 ID:Xb3or2WKII
正宗の家臣の鈴木元信は伊達幕府ができると信じて法律のようなもんねってたらしいね

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010 2012/03/14(水) 01:12:34 ID:Srjb6a3WQA
伊達は田舎のヤンキーって感じだな
地元じゃ負け知らずで調子乗ってたけどいざ都会に出てみたら上には上がいて即土下座

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011 2012/04/02(月) 17:35:37 ID:7yesARAqvQ
毛利と島津は最強だからな

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012 2012/04/03(火) 21:43:48 ID:oAkXM2trL2
名だたる武将に攻められても落ちなかった難攻不落の小田原城を過信しすぎたか?
『いざとなれば神風が吹く』と信じた大日本帝国を思わせる。

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013 2012/04/03(火) 23:38:50 ID:9cmVjsZE4o
軍略や武勇じゃなく兵站の構築で大軍団を支えて出世した
石田三成の能力や功績を評価する向きは少ない。

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014 2012/04/07(土) 00:10:17 ID:SXrD6sx2sA
スレ画の1587年ごろから本格的に統一の機運が高まっていったんだよな
本能寺前は信長一人の武力による天下といった感じだった
裏切り、下剋上もなんでも有りの乱世
が、これ以降は世間体や大義名分を重視するようになるんだな
秀吉は表向きは三法師を立てる
家康も表向きは豊臣家の大老として上杉&石田三成を相手に関ヶ原へと進む

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015 2012/04/07(土) 01:05:15 ID:JpNjxML2L6
そっかじゃあ1587年までに全国的政権を目指していたのは
信長と秀吉くらいか

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016 2012/04/07(土) 01:35:41 ID:QwjMu6bvd.
秀吉だって、信長が死ぬまでは、まさか自分が統一の偉業をやり遂げるとは思ってなかっただろうな。
家康は、『天下人になれなければ徳川家の存続は無い!』ぐらいは考えていたかも。

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017 2012/04/07(土) 18:53:06 ID:JpNjxML2L6
いや家康は徳川家の存続=富国強兵しか考えてなかったよ

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018 2012/04/07(土) 20:42:09 ID:JpNjxML2L6
家康が天下を狙いだしたのは秀吉が死んでからだな
その後利家が死んでしまって本腰を入れた

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