八木壮司氏の説では
『八木氏は中国の史書を丹念に調べ、有名な魏志倭人伝の原典となった「魏略」
という本に「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」
という一節があるのに注目する。「倭人は四季に基づく正しい暦法を知らず、
春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にしている」と言うのである。
ここから八木氏は、古代の日本人は春と秋に一年が始まる「二倍年」の暦を
使っていたのではないか、と推察する。今の1年を春秋で2年と数える暦法である。
とすれば、神武天皇127歳というのは、63、4歳にあたる。第3代安寧57歳
は28、9歳で、まさに夭折である。記紀(古事記・日本書紀)を通じて最も長寿
とされた第10代崇神天皇が168歳であるから、これも84歳となり、ありえない
年齢ではない。
おそらく記紀が編まれた8世紀頃には、すでに「倍年法」は忘れ去られていた
のであろう。しかし、編纂者たちは伝えられた異様な長寿はその通りに記し、
年齢が分からない天皇はそのまま不詳とした。それは伝承された歴史を、そのままに
文字に記そうとする、きわめて学問的な態度であったのではないか。
そういう人々にとっては、史実として伝えられていない架空の天皇を勝手に造作する
などという事は思いもよらない事だったのだろう。』
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