神功皇后
▼ページ最下部
001 2012/01/23(月) 06:45:51 ID:KZcAH0axbE
神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、
仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・
大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・
葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、
この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
※ウィキより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%...
返信する
038 2014/09/11(木) 19:27:49 ID:GJY4DJBVmQ:au
>37
継体の父彦主人(越)は若死にした。
母振媛(近江)は越で暮らしたので継体も越で育った。
越は大国主の勢力圏(ヌナカワ姫は大国主の嫁)だったので国譲り後に神功応神の勢力圏にあってもおかしくない。
天皇候補者は二人いた。仲哀(崇神朝)五代の孫(丹波を勢力圏にしてた)は軍勢を見て逃げた。応神朝武烈派に攻められると思った。
応神五代の孫(継体)はうまい話ににわかには乗れない。武烈がむちゃくちゃやってたからホイホイノコノコ出かけたら自分が殺される。
そこで使いを出して大臣大連に聞いたら本当らしい。
しかし武烈派(応神朝)と大臣大連連合(崇神朝、出雲朝、クマソ、蘇我など)の抗争は続いている。
多分宮廷クーデターが起こったんだろうと思う。欽明朝の争い(蘇我、物部、聖徳太子の三つ巴)はその後始末。
応神治世40、仁徳治世80年はどうかな?と思うけどその他はあんまりの無理はない。
このころから記紀を歴史書として読めるんだろうが、難しい字が多すぎるので困る。
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:24 KB
有効レス数:38
削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
歴史掲示板に戻る 全部
前100
次100 最新50
スレッドタイトル:神功皇后
レス投稿