神武天皇から崇神天皇まで


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001 2011/11/19(土) 16:56:10 ID:FnoJ/ig8Jw
初代神武天皇から第十代崇神天皇までを語りましょう。
雑学や薀蓄を、スレッドの脈絡に関係無く放り込んでいただくだけでも結構です。
なお、いかんせん古代の事ですので、いかに確かそうな定説であっても確実な事実ではありませんので、
あくまでも「あるふみにいわく」という前提で語り合いましょう。朝まで。

1:神武天皇前660-前585
2:綏靖天皇前581-前549
3:安寧天皇前549-前511
4:懿徳天皇前510-前477
5:孝昭天皇前475-前393
6:孝安天皇前392-前291
7:孝霊天皇前290-前215
8:孝元天皇前214-前158
9:開化天皇前158-前98
10:崇神天皇前97-前30

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096 2012/08/20(月) 01:42:59 ID:5KiDOU3VJs
そういや、古代の貴人や神の名前は、男が○○ヒコ=日子、女が○○ヒメ=日女とかで
明確に太陽祭祀の影響がある。歴代天皇の本名はみな○○ヒコなわけでして、
このあたり太陽祭祀の神官といった立ち位置がおおいにあると思うね。

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097 2012/08/20(月) 06:42:32 ID:t32bCJCEq2
>>95
残念ながら、考古学的にはそれは難しい。
何故なら、「プレ大和朝廷」と言う痕跡が「無い」からだ。

纏向の一番特徴的な点は何か。
それは、「何もない所にいきなり、生活臭のしない整備都市が出来た点」だ。
誤解無いよう注記しなければならないが、「見付かっていない」のではない。
前身となるべき集落すらが「無い」のだ。

何故か?
理由はいくつか考えられるが、一番重要なのは、戦略的価値がないと言う事。
つまり、攻めにくく守りにくい。仮に纏向に住んでも他の地域から攻められれば
容易く壊滅してしまう土地だと言う事。

この場所に居を構えるには、「周囲との和合」が必要不可欠であり、
纏向以前にそれが成立していたと言う根拠は何もない。
あまりにも自然に纏向が存在しているから忘れがちだが、そこは押えておかなければならない。

再度確認するが、纏向はいわゆる「人工都市」であり、周辺地域が安定しているからこそ
その中の(戦術的には極めて脆い)空白地帯である場所に「ヤマト」が出来たのである。

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098 2012/08/20(月) 14:29:41 ID:5KiDOU3VJs
>>97
>何故なら、「プレ大和朝廷」と言う痕跡が「無い」からだ。

何を言ってるんだ?
ここ数年の発掘による新発見とか見てる??

奈良・纒向遺跡:3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か 

毎日新聞 2009年11月10日mainichi.jp/select/wadai/news/20091111k0000m040025000c.html

邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と
同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。
柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。
過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、
卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。

78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。
東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。

直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、
南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があった。

市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。
復元図を作成した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。

推定床面積は約238平方メートルあったとみられ、弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落とされる吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。

また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。
飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高い。

 【石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話】
 邪馬台国が纒向遺跡にあったという有力な根拠。建物は同時代には例のない大きさだ。住まいとしては大規模すぎ、祭祀(さいし)の場で、魏志倭人伝にある卑弥呼の「宮室」に相当するのではないか。

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099 2012/08/20(月) 14:35:21 ID:5KiDOU3VJs
つーか、桜井周辺の遺跡群がプレ大和朝廷なのははなから共有されてると思ってたが…
前方後円墳の走りで、それを否定すると、その後の大和朝廷の特徴たる前方後円墳の隆盛はなんなんだってはなしでな。

問題は、その3世紀の卑弥呼時代の遺跡が、邪馬台国なのかなんなのかだと思う。

卑弥呼、邪馬台国なのなら、なぜ記紀から消されてるのか。
同じ文化の延長にありつつなぜか消えてるという事実から考えると

王統が違う、けど文化は共通の延長線上にあるという構図になってくるんじゃないか。
部族合議社会から、一系継承の形態への政治体制の変遷という構図。

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100 2014/12/03(水) 18:18:17 ID:NecklJRr.k
>>99
>王統が違う、けど文化は共通の延長線上にあるという構図

そりゃ考え辛いな。
理由として、文化が同じで以前の王統が滅亡もしくは衰退しているなら、
気にせずにその時代から現在の王統だったと言ってしまえば良いだけだから。
王統は古い方が権威づけになるし正当性を主張する根拠になる。
(欠史八代は王朝を古く見せる為に追加されたとみる説もある)

もしくは、中国の様に「前王朝は悪徳の王朝だったから、我が王朝が退治した」という場合もある。

いずれにせよ、「前の王統はあったけど無視している」のは考え辛い。

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101 2015/03/05(木) 13:27:21 ID:7hpCtYaJN6
神武天皇の画像を拾いました。

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