支那事変
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001 2010/05/04(火) 13:29:25 ID:1KS.Nr5iVI
>支那事変は、支那共産党が盧溝橋事件を起こし、
>支那軍が停戦協定を何度も繰り返し破って継続・拡大した戦争。
>盧溝橋事件の約3週間後には、支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した(通州事件)。
>更に2週間後、支那軍は数十万人という大軍で上海の国際租界の日本人居留区を包囲攻撃した。
>支那軍機は上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人や外国人を大量に殺害した。
>その後も支那は、日本が提出した和平案をことごとく蹴り、
>戦争を継続し、支那人民を虐め抜いた。
https://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc
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033 2010/06/15(火) 02:30:12 ID:yuqwibDdXQ
>建国宣言を出してるので、調査が行なわれた程度では後戻りは事実上不可能だろう。
言葉が意味不明。日本軍は満州に傀儡政権立てて満州国家を作って世界に承認求めた。
>リットン報告書は広く存在を知られてるが、誰でも知ってるほどでもなかろう。
そんな事言ったって世界中に公開されていて、別に解釈論争もクソも無いよ。
ウェブで誰でも読める。リットン調査団なんて中学歴史教科書にも載っている義務教育用語。
なんで自己解釈なんて持ち込もうとすんだよ。
リットン報告書では日本の権益は認めたが、満州は中国の主権地域だと認め、
国連管理地域に置いて、日中には不可侵条約、通商条約を提言した。
タイを除く全ての国連の国がそれを採択した。日本はキレて国連を出ていった。
弱肉強食の植民地時代から国連での話し合いへの時代へ移った歴史の転換点でもあったから、
過去とは区別しないと国連の意味が無い。だから過去との矛盾とか言っても仕方無いんだよ。
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034 2010/06/15(火) 03:59:59 ID:dib722Hgl6
鬼畜も及ばぬ残虐
東日大毎特電 1937年7月31日
通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け、
30日深夜、命からがら冀東政府長官秘書・孫錯氏夫人 (日本人) とともに
北平交民巷に逃げ込んだ。
身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。
「保安隊が反乱したので、在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、
29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や
特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。
子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、ふた目と見られない惨状でした。
私達はこの時家にいました。
29日午前2時頃、保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、
その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち、
主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
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035 2010/06/15(火) 14:00:27 ID:R2v5bbtV0g
>>33 その報告の第9章を読む限りは、国連各国が意見表明の資格が無い
ことになるのだがな。
理論的にも現実的にも、満州が国民政府のシナの主権下という
主張には無理がある。
ロシアが満州を侵略したお陰で日露戦争が起こった。清国はロシアの侵略に
対しては局外中立と露清密約。日本は莫大な戦費と夥しい人的損耗を強いられた。
多大な犠牲を払って満蒙の地を守ろうとしたのが清国であれば、主権の主張にも
幾らかの分はあるのだが。
清朝が衰え、出来たばかりの国民政府ではさらに弱体、民心も安定せず、
満州からの撤退なぞどだい無理な話だろう。第二次日露戦争が生起しかねない。
満州のすぐ真南は朝鮮半島。当時の日本の領土だ。
溥儀の満州建国には正統性があり、現実的に見ても日満ソ支のバランスが取れる。
共産化を防ぐ意味合いもある。だからこそ承認国が相次いで出てきたのだろう。
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036 2010/06/15(火) 16:57:44 ID:R2v5bbtV0g
>>33 日本が主張した中に「原状回復は現実的でない」という文言でなく、
「満州国を認めよ」という文言があったわけか?
俺の自己解釈というわけではないのだがな。
そもそも満州国を承認した20カ国以上の国の存在はどう説明するのだ。
当時の満州訪欧団がローマ教皇庁を訪れた際、ピウス11世から
「人類の秩序を破壊する共産主義と戦っておられることを悦ぶ。
世界平和のために貢献せられんことを祈る」という言葉を貰ってる。
正統性も理論上も現実的にも、満州帝国に建国の資格があったから認めたのだろう。
ただ、日本全権の松岡も、欧州代表の無知ほどではないにせよ満州やシナの歴史の特性を
熟知してるわけでもなく、日本をナザレのイエスに喩えたのは場違いだ。
脱退する必要も無かったろうな。
確かに今の国連と過去の連盟とは別に分けて考える必要ありだ。当時は多くの国家が
自国の国益に反するとして不参加だったり、脱退したりしたわけだからな。
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037 2010/06/16(水) 07:34:01 ID:9tukUxbxD.
鬼畜も及ばぬ残虐
東日大毎特電 1937年7月31日
通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け、
30日深夜、命からがら冀東政府長官秘書・孫錯氏夫人 (日本人) とともに
北平交民巷に逃げ込んだ。
身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。
「保安隊が反乱したので、在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、
29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や
特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。
子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、ふた目と見られない惨状でした。
私達はこの時家にいました。
29日午前2時頃、保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、
その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち、
主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
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038 2010/06/16(水) 07:35:30 ID:9tukUxbxD.
私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるもの片っ端から
万年筆までとって表へ行きました。
そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので、
押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて
家探しをして押入れの下まで探したが、上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。
家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。
それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、
主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、
ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書・孫一珊夫人の所へ飛び込み
30日朝まで隠れていましたが、
日本人は皆殺しにしてやるという声が聞こえ、いよいよ危険が迫ったので、
孫夫人と二人で支那人になり済まして双橋まで歩きやっとそこからロバに乗ったが、
日本人か朝鮮人らしいと感づかれてロバ曳きなどに叩かれましたが
絶対に支那人だと言い張って、やっと30日午、朝陽門[まで辿りつきましたが、
門がしまっていたので永定門に廻りやっと入り、
30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました。
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039 2010/06/16(水) 07:36:13 ID:9tukUxbxD.
冀東銀行の顧問・三島恒彦氏が近水楼で殺され、
冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく、
近水楼にいた日本人は殆ど殺されているでしょう。
昔シベリアの尼港事件の惨劇も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。
反乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友、好朋友」などといい
非常に主人と仲良しだったのに、
こんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでしょう。
三人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。」
なお危険地区を突破した夫の唯一の形見を肌身離さず持ち帰った沈着なこの夫人の行動は
避難邦人の賞賛と感激を受けて、同夫人に対する同情はきゅう然と集まっている。
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040 2010/06/17(木) 13:16:17 ID:If324DUe6w
>>33 前述の、日本側の文言が見つかったら教授してくれ。
俺は、当時の内田康哉外相が調査団訪日時、
「満州国を承認していただく以外、解決の道は無い」と調査団に
会見で述べたというくだりを訳本で読んだことはある。
「事変前の状態に戻ることは現実的でない」という文言、
「満州国を承認していただく以外、解決の道は無い」という文言、
「満州国を認めよ」という文言では、またニュアンスも違ってくる。
上は、妥協点を探れる余地を残す含みを持たせるし、
中は、それしか糸口を見いだせない覚悟と取れる。
下は、調査段階で外相が述べる意見や政府見解としては強圧的に過ぎる。
俺は、敗戦後における日本の発言力の低下により、満州と聞けば
日本による侵略、リットン報告と聞けば日本非難の代名詞という風潮に陥って、
当時の極東情勢を語る際、どうしても侵略という観点からしか論じられず、
公正でない解釈や誤訳が罷り通ることが問題だと思うがな。
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041 2010/06/18(金) 11:39:18 ID:NhIoi8YVng
>>40 歴史で「こういうところを評価したい」とか関心ないから。
「俺の叙情的歴史史観を共有してくれ!」って歴史修正主義的な右翼は言うけど。
そんなのは仲間内でしか「その気持ち、よくわかる」とかならんよ。
関心あるのは「あった事。そして全体の流れ」それだけ。
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042 2010/06/18(金) 13:14:01 ID:oFT1jCku7A
>>41 戦勝国による一方的な歴史観から見れば、それは正確には
「あった事実」ではなく、「戦勝国にとってあるべき事実」だろう。
そうした歴史観に立脚してる思考だから、残された資料に対しても
本物の著述と異なる伝え方をしてしまう危険性を孕む。
いい例はたとえば
>>24が
>>リットン報告書
>>「柳条湖事件における日本軍の侵略は自衛とは認められず、
>>また、満州国の独立も自発的とはいえない」とした。
と書き込んでる箇所。あった事実に基づく意見なら、「柳条湖事件における
日本軍の侵略は」などと書ける道理が無い。レポートの内容に「日本軍の侵略」
という断定箇所は無いのだから。捏造や誤謬がさらなる誤解を産み、結局は
あった事実でなく、その人にとってあるべき事実、となるわけだ。
また、全体の流れを掴みたいならば、当時のシナ情勢の検証と無縁ではいられない。
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043 2014/07/11(金) 13:19:24 ID:aNuuPxgzr2
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