「舟師」とは海戦部隊、これを念頭に置くと弘安の役の実態は定説と全く違うものになる。
文永の役では遠征軍4万人の内半数が「舟師」だったが、弘安の役の東路軍は全軍が「舟師」だった。
『元史」巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」
一方、中国から出航した江南軍も「舟師」だった。
『元史」巻一百六十五 列傳第五十二 張禧
「時朝廷議征日本,禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞范文虎、左丞李庭同率舟師,泛海東征」
江南軍が海戦部隊であったことは、指揮官の范文虎が砲兵や騎兵の配備を要請した際、クビライから海戦に必要ないとの理由で却下されたことでも裏付けられる。
しかし、東路軍も江南軍も海戦部隊では、日本を征服することはできない。
東路軍と江南軍の他に陸戦部隊が存在しないと、作戦として成立しないんだよ。
で、史料の中には日本征服のための陸戦部隊がちゃんと存在する。
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中。」
この蒙古軍40万騎こそが弘安の役の真の主力部隊。
阿剌罕は弘安の役の総司令官だから、その指揮下に主力部隊があるのは当たり前。
この蒙古軍40万騎は弘安の役で壊滅しちゃったけど、それが無かったらマジでモンゴル帝国が全世界を征服していたかもね。
返信する