おそらくほとんど人は、家康VS三成の天下分け目の合戦について、あたかも歴史
の必然であるのように考えていると思われますが、実はこれは必然どころか、あり
得べからざる稀有な出来事なのです。
どういうことかと言いますと、豊臣家における家康の地位は、実質家臣というよりも、
賓客に近い立場で、秀吉からも諸大名からも一目置かれていました。ですから秀吉の
死後は自ずと天下人の地位に収まりました。
片や三成はといえば、秀吉の最も有力な官僚の一人に過ぎず、しかも秀吉の死後は
庇護者を失い、しかも武断派の武将たちから憎まれ排斥されたのちは、全くの閉塞
状態でした。
そして、何か事を起こす際に最も重要な軍事力の背景となる石高につて比較すると。
家康が関東に200万石を領するのに対して、三成の佐和山は17万石とも20万石
とも言われていますが、いずれにしろ家康の10分の1以下の石高に過ぎません。
閲歴、政治的な地位、軍事力、どれをとっても家康の競争相手どころか、比較の対象
にすらならない位置にありながら、なんぴとも恐れ平伏す事実上の日本の支配者に対
して弁舌と知略のみで諸大名を結集して天下分け目の戦をしかけたことは、ほとんど
奇跡といってよいでしょう。
この事実が全く失念されているというか、真実にたいしてまるで無知の状態で、家康
VS三成の一大決戦が語られるのは、はなはだ遺憾とするところであります。
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