関ヶ原〜大阪 語ろう


▼ページ最下部
001 2009/12/11(金) 03:09:20 ID:C3nxqhO.
後世の今から見ると関ヶ原で徳川が勝ったら豊家は潰されるに決まっているのに。
特に福島・W加藤・前田あたりは本当になぜ東軍に入ったんだろう?

毛利も上杉もなぜあんなに中途半端なんだよ、大老の癖に…
頑張れば豊家筆頭になれたのに…
上杉に至ってはなんで大阪攻めてんだよww
ほんと信じられない。

豊家・秀頼をなんだと思ってんだ。
と、石田贔屓の俺は思う。

返信する

002 2009/12/11(金) 03:50:07 ID:lQfSnabI:DoCoMo
島津義弘の夜討ちの提案を卑怯者呼ばわりする三成の愚鈍さ。
もともと豊臣家の家臣だった五奉行(石田三成20万石、五奉行全体で70万石)と本来豊臣家の家臣ではない五大老(徳川家康250万石
、五大老全体で625万石)の圧倒的な差。
秀頼は側室の子で正室のねねはかわいくなく、旧知の清正らに家康に味方するように言った。

返信する

003 2009/12/11(金) 05:03:32 ID:mqAFhDzk
大阪の夏・冬の陣で、徳川、真田共にそれぞれ本陣が置かれたことで有名な
天王寺の茶臼山の寺(聖徳太子建立)が、朝鮮総連に乗っ取られている

崔無碍さん−和気山統国寺住職 和の精神で人々の心つなげたい
http://sangbong-net.hp.infoseek.co.jp/ikyouhonbun9.ht...

大阪市天王寺区の史跡茶臼山の南部、都会らしからぬ美しい樹林を見下ろす名勝地に建つ和気山統国寺は、長い歴史を経てきた朝鮮寺である。
住職の崔無碍さんは1951年に北海道で生まれた在日二世。朝鮮大学校卒業後、高級学校の教壇に立った崔さんが仏門に入ったのは、
先代の故徐泰植住職から「統国寺の由来を調べてほしい」と依頼されたのがきっかけだった。
調査を進めるにつれて、体が震えるような事実が浮かび上がった。当寺は1400年もの昔、聖徳太子によって創建された名刹だった。
602年に百済僧の観勒が開山住持として招かれ、「百済古念仏寺」と命名された。
歳月が流れ、1615年、大阪夏の陣の際に焼失したため、70余年後に再興された。が、その後、日本寺として継承されるうちに荒れ果てていった。
そして1970年、在日朝鮮人僧侶が当寺を引き継ぎ「統国寺」と改名したことによって、4世紀ぶりに民族寺として甦ったのである。
崔さんは2年にわたる調査記録をまとめた『百済古念仏寺の謎を解く』を上梓するとともに、宿命的な因縁を感じて当寺に入門。94年に第4代住職に就任した。


----------------
なぜか70年代に黄檗宗(臨済宗の一派)の古刹だったのが乗っ取られてこうなったそうです
上の来歴は「百済古念仏寺と命名された」とかウソばかり。
大阪の陣のあと荒れ果てていったもウソ。画像は江戸時代の名所図に描かれる邦福寺(統国寺の本来の名)
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/sakuhin.ph...
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/sakuhin.ph...

返信する

004 2009/12/11(金) 05:09:29 ID:e6iFA88Y
天下分け目といっても、もはやあの時点では家康が天下人みたいなもんだったんだよ。

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:23 KB 有効レス数:53 削除レス数:0





歴史掲示板に戻る 全部 次100 最新50

スレッドタイトル:関ヶ原〜大阪 語ろう

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)