近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ


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050 2024/04/26(金) 00:11:03 ID:IW.09JKOJQ
1902満洲還付条約
山東省から起こった義和団の勢力は、1900年6月以降は北京をこえて満洲方面にも拡大し、ロシアが1896年の露清密約で敷設権を得た東清鉄道への攻撃もなされるようになった。ロシアはこれに即座に反応し、皇帝ニコライ2世が進軍を命令、鉄道を守るため5万を超える兵士を派遣
帝政ロシアは7月3日、黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始し、清国軍の抵抗を各地で撃破、(露清戦争)
8月3日にハルビン、8月27日にチチハル、9月28日に遼陽、10月2日に奉天をそれぞれ制圧し、またたく間に満洲全土を占領→ 1900満洲に関する露清協定
 義和団の乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた条約。

ロシアの満洲占領に対し、日本は相互に満洲と韓国の完全確保を認め合う「満韓交換論/日露協商論」を考えるようになったが、仮に日露協商が成立しても長続きせずロシア側がこれを破棄することは確実で→1902年日英同盟
1903年8月、日本はロシアに満韓交換論を提示したが、軍事的に勝るロシアはこれを拒否したばかりでなく、エヴゲーニイ・アレクセーエフ極東総督らは、朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。
翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうこととなった。

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