藤原不比等が日本を作った
▼ページ最下部
001 2011/11/09(水) 08:21:22 ID:fWY1RJWgwk
今に残る日本の文化風習、国民性、歴史風情と情緒、古都の町並み、
これらはすべて一人の歴史的大天才の頭脳によってつくられた。
その人、藤原不比等。鎌足の息子。
なぜ不比等の研究は公に語られないのか?
家康、信長、坂本龍馬らの器など
不比等を前にすると砂塵に等しいというのに。
返信する
002 2011/11/09(水) 09:40:06 ID:tdca/lEMOs
>今に残る日本の文化風習、国民性、歴史風情と情緒、古都の町並み、
>これらはすべて一人の歴史的大天才の頭脳によってつくられた。
不比等の活躍した千年以上前の奈良時代の街並と、今に残る100数十年前の江戸時代の街並は同じなのか?
千年以上前に高層の天守閣を備えた城があったのか?
礎を築いたかもしれないが、「すべて一人の歴史的大天才の頭脳によってつくられた」は言い過ぎ。
返信する
003 2011/11/09(水) 11:06:43 ID:I/20.qaw7w
004 2011/11/09(水) 14:33:37 ID:agSVPxACdM
005 2011/11/09(水) 21:04:12 ID:ezodiJo6tk
006 2011/11/09(水) 21:48:18 ID:fWY1RJWgwk
>>2 でも平安時代まではフヒトの描いた設計図に忠実に従って
フヒトの子孫らが日本を動かしてたよね
返信する
007 2011/11/09(水) 22:43:55 ID:1OlUIypcQs
天才つったって、中臣=藤原は渡来系の唐人だからな。
同じ渡来系である蘇我氏や秦氏が天皇の権威すらも脅かす専横に
及んだのに対し、皇族に女系の血筋を提供する従順な臣下でいながら、
徳治社会を築き上げていく上での有能な人材として選ばれたのが藤原氏。
唐の律令制を換骨奪胎して、日本の風土に合うように醸成したのがその功績で、
全くの一から律令制を構築していったのかといえば、そうではない。
当時の社会制度の多くが、儒学や道教などの中国文化を参考にした
ものであることが、その細部までを注意して調べてみれば分かる。
返信する
008 2011/11/10(木) 16:56:15 ID:Pc1NpSfjIE
不比等は鎌足の実子ではなく天智天皇の落胤という説
彼が藤原家の実質の祖でありその後の太政官としての特権的地位の根拠
それが僭称なのか事実なのかは知らんが記録はある。
中臣氏の祖先が朝鮮半島がどうのというのは些末な事だ。
返信する
009 2011/11/10(木) 17:58:13 ID:8O6KCoesyI
>>7 おい、息をするように嘘をつくんじゃねぇぞ!!
中臣氏が渡来系なんて資料は一切ないだろ!!
このボケ!!!
返信する
010 2011/11/10(木) 20:34:07 ID:pj7/z0tA0I
古神道の大家からすれば、中臣鎌足の構築した神祇祭祀には
古来の伝統からは大きく改変された要素が多く伴っているそうだよ。
少なくとも、中臣=藤原が古来の日本の伝統を固く守り抜くことではなく、
唐の制度にも則った大胆な制度改革を本分としていたことが、
諸々の有職故実系の書物などに記載されている、大化の改新以前と
以後の日本の政治制度や風俗などを対照してみればよく分かる。
大化の改新以前の日本なんて、多少大きめのムラ社会程度のものだったわけで。
返信する
011 2011/11/10(木) 21:37:56 ID:RGTNthLIvI
不比等ら藤原氏が天才的だったのは
どうやっても武将が貴族を倒せない
強固で永続的な構造を作ったことでしょう
皇室や摂家が1300年以上も国の中軸に居座ってる国なんて
世界のどこにも見当たらないです
返信する
012 2011/11/10(木) 22:50:29 ID:8O6KCoesyI
>>10 だから、何?
それだけじゃん…
中国との接触はな弥生時代、いや、縄文時代からあったんだよね。
で、弥生人は、チベット系の中国人と遺伝的に考えられている。
天皇家と藤原氏は確実にその弥生系だろうな。
常に、天皇家の側近だったのが藤原氏(中臣)だ。
返信する
013 2011/11/10(木) 22:56:58 ID:pj7/z0tA0I
縄文系って、DNA上は今の鹿児島人や沖縄人や台湾の内省人に相当するものだからな。
少しも日本の主流ではないな。
返信する
014 2011/11/10(木) 23:13:34 ID:8O6KCoesyI
仏教が中国に伝わる以前の祭祀政治を行っていた
弥生人(呉、越、楚などに住んでいた)がそのまま、
紀元前三世紀に
日本に来てその慣習を受け継いでるだけ。
天皇家はその神官のトップであり、大王でもあった。
中臣はその補佐役で、神官の№2だ。
だから、神道は殷や周の祭祀政治に近い。
仏教が日本に伝わって、隋や唐、朝鮮などとの関係を
深めるのは、それよりずっと後の古墳時代のお話。
しかし、仏教の経典の影響があって、
日本の神道も体系化されていく。
それが、古事記、日本書紀の成立につながる。
返信する
015 2011/11/10(木) 23:45:30 ID:pj7/z0tA0I
秦始皇帝が中国の伝統文化を破壊する以前の祭祀政治を行っていた
弥生人(呉、越、楚などに住んでいた)がそのまま、
紀元前三世紀に
日本に来てその慣習を受け継いでるだけ。
天皇家はその神官のトップであり、大王でもあった。
中臣はその補佐役で、神官の№2だ。
だから、神道は殷や周の祭祀政治に近い。
秦代以降の渡来人が日本にやって来て、隋や唐、朝鮮などとの関係を
深めるのは、それよりずっと後の古墳時代のお話。
しかし、秦代以降の渡来人がもたらした仏教の優良さの影響があって、
日本の神道も体系化されていく。
それが、古事記、日本書紀の成立につながる。
返信する
016 2011/11/10(木) 23:58:52 ID:8O6KCoesyI
仏教と言うか、律令制度だな。
その律令は、しかし、さか登れば
中東に行きつく。
それが中国に伝わって日本にも来た。
返信する
017 2011/11/11(金) 00:26:20 ID:3knC.FYel6
律令制度も、秦代以前の礼制を正式に継いでいるわけではない
我流の儒者による創作物なので、その拠り所はあくまで四書五経などの経書に当たる。
中東の伝統を歪曲的に記録した新旧約聖書よりも、四書五経のほうが
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てを上回っている。
秦代以降の中国にとっての「失われた遺産」にあたる周礼を我流で無理やり
再現しようとした結果、漢代400年や唐代300年の泰平も築かれた一方で、多くの戦乱や
今に至る中国の衰退をも招いたわけで、秦代以降の中国の歴史もまた、善くも悪しくも
夏殷周や堯舜文武といった、古来の中国文化への憧憬に基づいて築かれたものには変わりない。
返信する
018 2011/11/12(土) 00:13:38 ID:2qlNPZTncQ
仏教を渡来させたことではなく、秦始皇帝による伝統文化破壊後の無粋な中国文化を
日本に流入させたことが、古墳時代以降の渡来人に対する遠ざけの理由となった。
夏殷周代の中国文明は、「量よりも質」の文明。
秦代以降の中国文明は、「質よりも量」の文明。
古墳時代以降の渡来人が流入させた中国文明にも、確かに全くうち棄ててしまうわけにも
いかないものがあって、それこそが漢代や唐代における大規模社会を統制する律令制の枠組みだった。
その、漢唐時代の律令制を天皇の意に叶うように換骨奪胎して醸成させたのが藤原氏で、
「質よりも量」の低劣文化を秦代以前の水準にまで押し上げる汚れ仕事であればこそ、
皇室に次ぐ位階の持ち主である藤原氏が、その任務を負うこととなったのだった。
返信する
019 2011/11/12(土) 19:30:53 ID:2qlNPZTncQ
秦代以前の弥生系の渡来人としては、秦代以降の渡来人がもたらした文化のうちで、
インド原産の仏教こそはぜひ取り入れたいものだった。しかし、中国の伝統文化が
破壊された秦代以降の、劣化した中国文化の流入はできる限り避けたいものだった。
その証拠に、秦代以降の渡来人が持ち込んだ土木技術での古墳の造営は一時限りで
途絶したが、仏教文化は今に至るまで、ずっと一定以上の繁栄を保ち続けている。
多くの民を過酷な重労働に用いることで建築される巨大建造物が、何らの思想哲学的な
道義にも即していないのが秦人の好む土建であるのに対し、聖徳太子や藤原氏が行った
寺社や都の造営は、神道や仏教や陰陽道といった真っ当な道義的理念に即している。
日本の伝統文化として国内外から厚い支持を得ているのも、後者の道義的な理念に即した
文化遺産のほうであって、秦人が隆盛を誇っていた頃に造られた古墳などは、考古学的な
価値が省みられることはあっても、文化的、美術的な価値を認められているわけではない。
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:24 KB
有効レス数:28
削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
歴史掲示板に戻る 全部
次100 最新50
スレッドタイトル:藤原不比等が日本を作った
レス投稿