張政について
援軍は来てはいない。でも親魏倭王に制詔された国が厄介な戦闘状態をわざわざ説明しに朝貢に行くなら、何を求めるかは推定できます。
そこで送られた武官張政等は倭国内で軍師(参謀)として機能したのではないかと考えます。「塞曹掾士」の正確な職分は不明ですが。
晋書に記述された朝貢が台与による張政帰還と一致するなら、檄飛ばしながら20年近く倭国に滞在していることになります。
人生で能力のある男が大仕事を成し遂げることができる期間です。
古墳について
歴博の春成秀爾氏の炭素14年代法解釈で箸墓を古くしちゃったんですよね。
橿考研による木棺片炭素年代測定データからのホケノ山3世紀前半との整合はその後とれたわけですか?
卑弥呼の死んだと年とか1年2年を分別する細かな実証もいいんですが、
なかなか難しい時代対象だし、ここは出雲と吉備と大和の関係性について見解を述べるスレだから、
(春成秀爾氏が卑弥呼は吉備出身だとか言っているレベルで)ざっくりで言えば、
それほど大和の地には古墳時代を形成するに吉備の文化要素が強く滲んでいるということです。
纏向石塚古墳出土の弧文円板(吉備系祭祀遺物文様)とか
箸墓相似形墳墓がやたら多いとか
楯築双方中円墳丘墓が前方後円墳へと進化してゆく原初型だとか・・・
私の問題関心は、
古墳時代を始めるその素材の多くをどうして吉備にこれだけ負っているのか?
銅鐸から特殊器台(吉備)と鏡(北九州-魏)に取って代わったドラスチックな変化は、ドラスチックな社会集団の変容も同時に意味しているのでは?
その変化は東アジアの政治環境も影響しているだろうな、というものです。
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